第5話 文体の証拠
ローレル嬢。ローレル殿。いや。
鏡の前で、俺は自分の口の動きを確認していた。朝の身支度の最中に、こんなことをしている。馬鹿らしい。
「ローレル嬢」が正しい。業務上の呼称として適切だ。子爵家の三男から男爵令嬢への呼びかけとしては「嬢」で問題ない。問題ないのだが、名前を口にするたびに声が固くなる。
三年間の巡回記録は何百回と読み返したが、人の名前を呼ぶ練習をしたのは初めてだ。
鏡の中の自分と目が合った。隈のある顔。不器用な口元。
(何をやっている、俺は。仕事に行こう)
◇
執務室に着くと、ローレル嬢が机に技術書と論文を並べていた。目の下に薄い隈がある。昨夜から照合を続けていたのだろう。
「おはようございます、ノエル殿」
「……おはようございます」
「照合しました。三ページ目だけではありませんでした」
論文と技術書を並べて開いた。付箋が何枚も貼ってある。
「七ページ目の図表。十二ページ目の分析手法。十五ページ目の結論部。文体の癖まで一致しています。『根の密度が閾値を超えた場合』という表現、これは私の造語です。他のどの庭師文献にも使われていません」
指でページを叩いた。「ここも。ここも。ここも」。三箇所を示すたびに、声がわずかに硬くなる。冷静に、順序立てて、証拠を積み上げている。怒りは声に出していない。代わりに、紙を押さえる指の爪が白くなっている。
彼女は論文を閉じた。表紙にはヴァレリオ・ファーシュタットの名前が金文字で印字されている。公爵家の名前には、それだけの重みがある。
男爵家の庭師見習いが書いたノートと、公爵嫡男の名前が入った学術論文。世間はどちらを信じるか。答えは考えるまでもない。だからこそ、証拠は一点の曇りもなく揃えなければならない。
「ヴァレリオ殿は二年前にこの論文を学術院に提出しています。私の技術書は三年前に書いたものです。時系列的にも、盗用は明白です」
「……はい」
俺はそれを三年前に知っていた。管理官としてヴァレリオ邸の庭を巡回した時、「自分のものではないものを自分のものと偽った」嘘の根を見つけた。当時は内容まで特定できず、状況証拠しかなかった。
「ノエル殿。この論文のことを、前から知っていましたね」
「……はい。三年前に、根の反応で気づきました。ただ、当時の俺には根の内容を特定する力がなかった」
「だから付箋を貼って、私に渡したんですね」
「……はい」
ローレル嬢が、少しだけ表情を緩めた。怒りが和らいだのではなく、怒りの矛先が定まったのだと思う。
「学術院に報告します」
「俺も証人として」
「いいのですか。子爵家の立場で、公爵嫡男を告発することになりますが」
「構いません」
即答した。三年間、俺は黙っていた。証拠がなかったからだ。でも証拠はもう揃っている。
三年前の自分は無力だった。根を見ても内容が読めず、状況証拠しか持てなかった。だがこの人が来た。根の内容を読み取れる唯一の庭師が。俺が三年間溜めた地図のデータと、彼女の根読みの力が組み合わさって、初めて証拠になった。
一人では届かなかった場所に、二人なら届く。
その事実が、証拠を揃えた喜びとは別の場所で、胸の奥を温めている。気のせいだと思うことにした。気のせいだと思うことにした。足元に花は咲いていない。気のせいは嘘ではない。
◇
翌朝、報告書を学術院の受付に提出した。根の分析記録、文体の照合結果、技術書の原本の写し。俺は三年前の巡回記録を添えた。
その帰り道だった。王宮の回廊で、使者が走ってきた。
「管理官殿。至急お伝えします。ファーシュタット公爵嫡男ヴァレリオ殿が、学術院に告発状を提出されました。内容は、『ローレル・ヴェルデが公爵家の研究を盗用した』とのことです」
逆告発。先手を打たれた。
告発状にも、おそらく半分だけ本当のことが書いてある。「ローレル嬢が公爵家の書斎で研究資料を閲覧していた」は事実だ。婚約者として書斎に出入りしていたのだから。その事実の上に「だから盗用したのはローレルの方だ」という嘘を乗せる。巧妙だ。半分だけ本当の嘘は、花が半開きにしかならない。
(来るとは思ってた。でも、こんなに早いとは。あの人は三年間私の隣にいて、私の性格を知り尽くしている。証拠を揃えたら報告するだろうと読んで、先に手を打った。いつもそうだ。あの人は常に先手を取る)
「学術院は両者の主張を精査するため、来週、聴取の場を設けるとのことです」
ローレル嬢の顔を見た。驚いてはいなかった。覚悟を決めた目をしていた。
「来るだろうと思っていました。三年間、あの人の隣にいたんです。先手を打つ人だということくらい、知っています」
強い人だ、と思った。
赴任初日、ヴァレリオ邸の庭を見て彼女が呟いた言葉を覚えている。「こんなに悲しい庭は初めて」。嘘を「醜い」ではなく「悲しい」と言った。あの瞬間から、俺の中で何かが変わった。
「聴取には、俺も同席します」
「……ありがとうございます」
ローレル嬢が笑った。赴任以来、初めてかもしれない。小さな笑みだった。嘘の花が咲かない笑みだった。
鎖骨の下が、きゅっと締まった。
(業務上の関心だ。学術的に貴重な能力を持つ人間への、専門家としての関心だ)
帰り際、ローレル嬢の机に茶葉の補充を置いた。彼女が好きな柑橘系のハーブティー。先週、空になっていたのを覚えていた。
業務上の配慮だ。それ以上の意味はない。はずだ。
執務室を出る時、振り返らなかった。振り返ったら、彼女が茶葉に気づく顔を見てしまう。それを見たいと思っている自分に気づいてしまう。
廊下に出た。足元を確認した。花は咲いていない。嘘はついていない。まだ。
官舎に帰って、ベッドに倒れ込んだ。天井を見つめた。柑橘系のハーブティーの匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。いつ補充したのだろう。あの人は。
枕に顔を埋めた。明日は聴取だ。証拠は揃っている。ノエル殿もいる。大丈夫だ。
大丈夫、という言葉を口にしかけて、やめた。国王の花壇のことを思い出した。「大丈夫だ」と言い続けた人の根が、十年経っても枯れない。簡単に使っていい言葉じゃない。
目を閉じた。明日のことを考えた。証拠のこと。ノエル殿のこと。茶葉のこと。順番がおかしい気がしたが、気にしないことにした。




