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嘘をつくと花が咲く世界で、婚約者の庭だけが満開なんですが  作者: 秋月 もみじ


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第2話 花のない花壇


 王宮の門をくぐった瞬間、土の匂いが変わった。


 ヴェルデ家の庭の土は、草と腐葉土の親しみのある匂いがする。ヴァレリオ殿の邸宅の土は、香水と薔薇が混ざった甘い匂いだった。


 王宮の土は、何の匂いもしない。清潔で、整えられていて、どこか緊張感がある。


(不思議。これだけの庭園なのに、匂いがないなんて)


 三日前に婚約を破棄して、今日はもう新しい職場にいる。人生の切り替えが早すぎる気もするが、立ち止まっていても根は消えない。前に進む方がいい。


 荷物は革鞄一つ。着替えと、庭師道具と、父の手紙。「根を信じろ」とだけ書いてあった。ヴェルデ家は昔からそうだ。言葉が少なくて、手が多い。


 門衛に招聘状を見せると、すぐに庭師棟へ案内された。石造りの建物で、壁に蔦が這っている。窓辺に鉢植えが並んでいて、どれも手入れが行き届いていた。この棟を管理している人間は、植物が好きなのだろう。


「ようこそ、ローレル嬢。私が庭師長のマーサです」


 庭師棟で迎えてくれたのは、銀髪を一つに結んだ五十代の女性だった。庭師ギルドの最高位。私が庭師の道に入るきっかけをくれた、師匠の師匠にあたる人だ。


「緊張しなくていいよ。あんたの腕は私が一番知ってる」


 マーサさんの手は、私の三倍くらい日に焼けている。握手をしたら、指先の硬さが職人のそれだった。


「前任の管理官が引き継ぎに来ているから、先に会っておきなさい」


 管理官執務室は、庭師棟の二階にあった。窓から中庭が見渡せる小さな部屋。机の上に分厚い帳簿が積まれていて、壁に地図が何枚も貼られている。


 その地図の前に、一人の男が立っていた。


 背が高い。黒髪を後ろで一つに結んでいる。振り返った横顔は整っているが、目の下に隈がある。寝ていないのか、それとも元々こういう顔なのか。


「アストレア殿ですか。ローレル・ヴェルデです。本日より管理官の任を」


「ノエル・アストレアです。引き継ぎ資料をまとめてあります」


 短い。言葉が、極端に短い。


 机の上から分厚い綴じ込みを持ち上げて、私の前に置いた。


「庭園地図です。王宮敷地内の全区画と、主要貴族邸宅の庭の配置図。三年分の巡回記録つきです」


 開いた。


 息を呑んだ。


 全部手描きだった。土壌の色分け、花の配置、根の密度の推定値まで。細密画のように丁寧な線で、三年分の庭が記録されている。紙の端が擦れている。何度も見返した跡だ。


(この人、三年間、毎日この地図を更新していたんだ)


「……これ、全部手描きですか」


「はい」


「三年分?」


「はい」


「ありがとうございます。大切に使います」


 アストレア殿が、ほんの一瞬だけ表情を動かした。目元が微かに緩んだような。すぐ戻った。気のせいだったかもしれない。


 でも、この地図を渡す時の手つきは丁寧だった。大切なものを手放す時の、あの独特の躊躇い。三年間の記録を他人に預けるのだ。当然だろう。地図の紙は少し黄ばんでいて、端が折れている箇所がある。折り目の場所は決まって貴族棟の巡回ルート。何度も何度も同じページを開いた跡だ。


(この人は三年間、一人でこの庭を守っていたんだ)でも、この地図を渡す時の手つきは丁寧だった。大切なものを手放す時の、あの独特の躊躇い。


「管理官の業務は基本的に一人で行います。巡回は年四回。報告書は国王に直接提出。貴族からの干渉は制度上ありません」


「制度上は、ですか」


「……実際には、色々あります」


 それだけ言って、窓の外を見た。「色々」の中身は軽くなさそうだ。


「庭園を案内します。ついてきてください」



 王宮庭園は想像以上に広かった。


 貴族棟の周囲に、各家の庭が並んでいる。公爵家、侯爵家、伯爵家。それぞれの庭に、それぞれの花が咲いている。花が多い庭もあれば、少ない庭もある。花が多い、ということは。


「……どの庭にも、それなりに咲いていますね」


「貴族は嘘をつかずに生きられません」


 アストレア殿が淡々と言った。嫌味ではない。事実の報告だ。


「社交辞令も嘘に含まれるんですか」


「本人が嘘だと自覚していれば。たとえば『お美しいですね』が心からの言葉なら咲きません。お世辞なら咲きます」


「なるほど。社交界は花畑ですね」


 アストレア殿が一瞬、何か言いかけて口を閉じた。笑いをこらえた、のだろうか。この人の表情は花の根より読みにくい。


 巡回しながら、私はこっそり足元の土に触れてみた。貴族棟の共有庭園の土壌には、細かい根が無数に絡み合っている。日常的な嘘の蓄積だ。嘘の根は栄養を奪う。だから嘘の多い庭は、本来の植物が育ちにくい。ヴァレリオ殿の庭の花壇が年々痩せていたのは、そういうことだったのだ。三年間、気づかなかった自分が情けない。


 庭園の奥へ進んだ。回廊を抜け、一段高い場所に出る。そこだけ空気が変わった。


 国王の花壇。


 広い。王宮で最も日当たりの良い場所に、丁寧に区切られた花壇が広がっている。


 何も、咲いていない。


 土は整えられている。雑草もない。水もきちんと遣られている。なのに花が一輪もない。嘘の花が一輪もない、ということは。


 陛下は嘘をつかない人なのだろうか。王という立場で、一度も嘘を? そんなことが可能なのだろうか。外交の場で、貴族との駆け引きで、一度も。


 それとも、別の理由がある。


 嘘をついているのに、嘘だと自覚していないから花が咲かない。そんなことがありうるのだろうか。人は自分の嘘に気づかないことがあるのだろうか。


 膝をついた。土に指を沈めた。根を探る。深く。もっと深く。


 ない。いや。かすかに何かの痕跡がある。通常の嘘の根とは違う。枯れかけている。形が歪んでいる。


「アストレア殿。この花壇、根もほとんどないのですが」


「……その花壇には」


 アストレア殿の声が、初めて感情を含んだ。


「触れない方がいい」


 振り返った。彼の目が、まっすぐ私を見ていた。いつもの無表情とは違う。何かを守ろうとしている。何を。


「なぜですか」


「……いずれ、お話しします」


 「いずれ」。それは約束なのか、先延ばしなのか。


 土から指を抜いた。指先に残ったのは、冷たさと、わずかな祈りのような残響だけだった。


 アストレア殿は何も言わない。その沈黙が、不思議と心地よかった。


 手描きの地図を、もう一度開いた。


 国王の花壇のページだけ、余白が異様に広かった。書くことが何もなかったのか。それとも、書けなかったのか。

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