第1話 満開の庭
薔薇の根は、嘘の深さに比例して太くなる。
庭師であれば誰でも知っている基礎知識だ。だが、婚約者の庭でそれを実感する日が来るとは思わなかった。
ヴァレリオ様の邸宅の庭園。月に一度の手入れのために訪れた私、ローレル・ヴェルデは、いつものように花壇の端に膝をつき、土に指を沈めた。
春の土は柔らかい。少し湿っていて、指先にひんやりと冷たい。いつもならそれだけで心が落ち着く。庭師の指は、土に触れている時がいちばん正直だ。
指先に、根が触れた。
太い。異様に太い。地中に大蛇がのたうっているかのようだ。
薔薇の根。それも、一本や二本じゃない。土の中を隙間なく埋め尽くしている。
(何。何これ。何これ何これ何これ)
私の指先には、他の庭師にはない力がある。花の根に触れれば、その嘘の「中身」が流れ込んでくる。誰が、誰に対して、どんな嘘をついたのか。根の形が全部教えてくれる。
この世界では、嘘をつくと体から花が咲く。小さな嘘なら野の花。大きな嘘なら薔薇。みんな花を摘んで隠すが、根は体内から地面に落ちて、土壌に蓄積されていく。
だから庭は、その家の嘘の歴史だ。
指を這わせた。隣の根。その隣。さらに隣。
どれもこれも、私に向いている。
私に向けられた嘘。私を騙すためについた嘘。三年間の婚約期間に降り積もった薔薇の根が、この庭の土壌を食い尽くしていた。
優しい言葉。穏やかな微笑み。「君の庭師としての才能を尊敬している」という声。「将来は二人で庭園を設計しよう」という約束。
全部、根になって、ここに眠っていた。
三年間、毎月この庭に通っていた。毎月、この土に膝をつき、花壇を整え、薔薇の世話をしていた。なのに一度も、足元の根に気づかなかった。庭師として見ていたのは地上の花だけで、地下の嘘には目を向けなかった。
いや、違う。目を向けなかったんじゃない。向けたくなかったんだ。
薄々感じていたのかもしれない。この庭の土が年々痩せていること。薔薇の色が褪せていくこと。根が栄養を奪っている徴候は、庭師なら気づけたはずだ。気づかないふりをしていたのは、私の方だ。
指先が一本の根をたどった。太い。深い。これは密会の嘘だ。誰かと会っている。名前まではわからないが、根の色合いが恋愛感情を含んでいる。
別の根。これは盗用。何かを自分のものと偽って発表した嘘。しかも私に関わるもの。私の研究。私の知識。
数えた。丁寧に、一本ずつ、指先で確かめながら。
百二十八本。
うち六十七本が、私に向いた根だった。
膝の土を払い、立ち上がった。奥歯の裏側が痺れている。こめかみの血管がどくどくと脈打つ。
(泣くな。泣くな泣くな。泣いたら根が笑う。泣いたって根は消えない)
屋敷に戻り、使用人に取り次ぎを頼んだ。応接間に通されて紅茶を出された。飲まなかった。白磁のカップの中で、琥珀色の液面が微かに揺れていた。
指の間にまだ土が残っている。爪の間に入り込んだ黒い土。ヴァレリオ様の庭の土。嘘の土。洗っても落ちない気がした。
◇
「やあ、ローレル。今日も庭の手入れをありがとう」
ヴァレリオ様が現れた。柔らかな金髪に、翡翠の瞳。社交界で「公爵家の至宝」と称えられる、完璧な微笑み。
磨きすぎた鏡みたいだ、といつも思っていた。綺麗なのに、何も映していない。
この笑顔の下に、六十七本の薔薇の根がある。
「お話があります」
「ん? 改まってどうしたんだい」
椅子に腰を下ろし、自分の紅茶に砂糖を二つ入れる。その仕草さえ優雅で、私は一瞬だけ、三年前にこの笑顔を初めて見た日のことを思い出した。
あの日の胸の高鳴りも、嘘だったのだろうか。
いいや。あれは私の気持ちだ。嘘ではない。だから花は咲かなかった。
「婚約を解消していただきたいのです」
沈黙。カップを持ち上げかけた手が止まった。
「……何を言っているんだい。突然」
「突然ではありません。三年分です」
声が出た。出たことに自分で驚いた。喉の奥がからからだった。紅茶を飲まなかったことを少し後悔した。
「証拠は?」
穏やかな声。足元で、花が半分だけ開いている。半分だけ本当の嘘。この人の得意技だ。言葉の半分に真実を混ぜることで、花が「半咲き」になる。他の庭師には嘘か本当か判別できない。
私には根が見える。
「あなたの庭が証拠です」
「庭?」
「薔薇が百二十八本。そのうち六十七本の根は、私に向いています」
微笑みが凍った。翡翠の瞳の奥で何かが割れる音がした。気がした。
「……庭師風情が、偉そうに」
あ、本音が出た。
三年間、一度も見せなかった顔。「庭師風情」。なるほど。それが本音だったのか。
(三年。三年だよ? 三年間ずっとこの顔を隠して、私のノートを盗んで、誰かと密会して、それで「庭師風情」? ねえ、ヴァレリオ様。庭師風情のノートの中身で論文を書いたのは誰?)
口には出さなかった。出す必要がなかった。
「庭師風情で結構です。庭師だから、あなたの庭が読めました」
立ち上がった。紅茶には一口もつけなかった。
「立会人はヴェルデ男爵家の顧問弁護士から手配します。花の宣誓の破棄手続きは、そちらの書記官にお任せします。違約金は規定通りお支払いいたしますので」
「待て、ローレル」
「待ちません。三年間、待ちました」
背を向けた。馬車の中で、一度だけ目を閉じた。瞼の裏に百二十八本の根が浮かんで消えた。
◇
帰宅すると、父が居間の窓辺で手紙を広げていた。夕暮れの橙色が父の白髪を染めている。
「おかえり、ローレル。……顔色が悪いな」
「婚約を破棄してきました」
「……そうか」
父は驚かなかった。庭師の家に生まれた人だ。根の話をすれば、すべてわかる。ヴェルデ家の家訓みたいなものだ。根は嘘をつかない。庭は嘘をつかない。
「よくやった」
短い言葉だった。それだけで、鼻の奥がつんとした。
(泣くのはあとにするって決めたでしょ、ローレル)
「それでな、お前宛に手紙が来ている。王宮からだ」
差し出された封筒には、王家の百合の紋章が封蝋で押されていた。
中を開く。短い文面。紙は上質で、インクの匂いがほのかに漂った。
『嘘の庭園管理官の任をお引き受けいただきたく、ここにお願い申し上げます。 国王アルディス三世』
管理官。王宮の全貴族邸宅の庭を年四回巡回し、嘘の花の蓄積状況を国王に報告する。国王直属の独立職。公爵家すら干渉できない、唯一の庭の番人。
手紙を持つ指先は、もう震えていなかった。
庭師の指は、土に触れている時がいちばん正直だ。
次に触れる土は、もっと大きな庭だ。




