38話
王都クラウディアに、穏やかな朝が戻りつつあった。
魔王軍の襲撃から数日が経ち、崩れた城壁の修復が進んでいる。瓦礫の撤去作業に汗を流す人々の間に、少しずつ日常の活気が戻り始めていた。
宿の窓から、その光景を眺める。街は、立ち直ろうとしている。僕は窓辺から離れ、身支度を整えた。いつもと同じ朝のはずなのに、体がどこか重い。
「アルトちゃん、朝ごはんできてるわよ」
階下からローザさんの声がする。
「はい、今行きます」
食堂に降りると、いつも通りの光景が広がっていた。ルナフレアさんが朝からエールを傾け、ティーエさんが窓際で弓の手入れをしている。ローザさんが湯気の立つ朝食をテーブルに並べていた。
「おはよう、アルト」
「おはようございます」
席につき、朝食を口に運ぶ。ローザさんの料理は、いつも通り美味しかった。
「今日もおいしいです、ローザさん」
「あら、ありがとう」
ローザさんが嬉しそうに微笑む。いつもの朝。いつもの食事。いつもの会話。
でも、三人は気づいていた。
アルトの「いつも通り」が、いつも通りではないことに。
食事を終えたアルトが、静かに席を立った。
「ちょっと、出てきます」
「……行ってらっしゃい」
ローザさんが、優しく、でもどこか心配そうな声で見送った。
アルトの背中が、宿の扉の向こうに消えていく。
ここ数日、毎朝同じだった。朝食を食べて、一人で出かけて、昼過ぎに戻ってくる。行き先は聞かなくても分かっていた。
王都の外れにある、小さな墓。
◆ ◆ ◆
アルトが出て行った食堂で、三人は黙っていた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「……アルト、毎日お墓に行っている」
ティーエが、静かに口を開いた。いつもの赤ちゃん言葉ではない。
「無理もないわ。幼馴染だもの……」
ローザが、空になったアルトの皿を見つめていた。
「でも、このままじゃアルトちゃんの体が心配だわ。食べる量も減ってるし、夜もあまり眠れていないみたい」
ティーエが目を伏せる。ローザが唇を噛む。
重い沈黙が、食堂に落ちた。
その沈黙を破ったのは、エールをぐいっと飲み干す音だった。
「飯だ」
ルナフレアが、空のジョッキをテーブルに置いた。
「……は?」
「……何?」
ティーエとローザが、同時に顔を上げた。
「うまいものを腹一杯食わせりゃ元気になる。昔からそう決まってる」
ルナフレアは当然のことを言うかのように腕を組んだ。
「……さすがルナフレア、脳筋だな」
ティーエが呆れたように言った。
「脳筋言うな。で、どうする? やるのかやらないのか」
「……やる。アルトのためなら何でもする」
ティーエの目に、静かな決意が宿った。
「あら、じゃあ私が作るわね」
ローザが立ち上がろうとした、その時。
「いや、三人で作るんだよ」
ルナフレアがローザを制した。
「その方がアルトも喜ぶだろ」
「……二人とも、料理できるの?」
ローザが、不安を隠しきれない目で二人を見た。
「馬鹿にするな、賢聖だぞ」
「エルフの族長を舐めるな」
自信満々に胸を張る二人を見て、ローザは嫌な予感しかしなかった。だが、二人の目は本気だった。
「……じゃあ、私は見守るわね」
ローザは半分諦めたように微笑みながら、椅子に座り直した。
◆ ◆ ◆
宿の厨房に、緊張が走っていた。
テーブルの上には、市場で買ってきたクレイボアの肉の塊が鎮座している。今日のメニューは肉料理。アルトが旅の初日にも焼いて食べていた、思い出の食材だ。
「よし、まず火を通すぞ」
ルナフレアが袖をまくり、右手に魔力を集めた。
「ちょっと、まさか魔法で焼く気?」
ローザが椅子から腰を浮かしかけた。
「火加減なら任せろ。賢聖の火炎制御を見せてやる」
ルナフレアの指先から、炎が放たれた。
――ボッ。
一瞬だった。
肉が、真っ黒な炭と化した。もうもうと煙が立ち込め、厨房に焦げ臭い匂いが充満する。
「「「…………」」」
三人の間に、沈黙が降りた。
「……火加減とは」
ティーエが、真っ黒に炭化した肉を前に、冷ややかな目でルナフレアを見た。
「う、うるさい! ちょっと力が入りすぎただけだ!」
「ちょっとどころではないが」
「次は私がやろう。ルナフレアは下がっていろ」
ティーエが包丁を手に取り、二つ目の肉に向き合った。族長として里を統率してきた女の横顔は、真剣そのもの。
「まずは切り分ける。それくらいはできる」
包丁を振り下ろした。
――バキィッ!
肉が切れた。肉だけではなく、まな板も真っ二つに裂けていた。刃がテーブルの天板にめり込み、びりびりと木目が走っている。
「「「…………」」」
再び、沈黙。
「……お前に料理の繊細さを求めた私が間違いだった」
ルナフレアが、遠い目で呟いた。
「黙れ。次はうまくやる」
「もう私がやる」
ルナフレアがティーエから場所を奪い、鍋を取り出した。
「さっきは直火がまずかった。鍋を使えばいい」
今度は弱火で。慎重に。ルナフレアが鍋に肉を入れ、火炎魔法をごく小さく灯した。いい感じだ。
と思った瞬間、肉から出た油に引火し、鍋の中で炎が噴き上がった。
「うわっ!」
慌てて魔法の出力を上げたのが致命的だった。鍋が赤熱し、底が溶け始めた。
「ばっ……溶かすな! 鍋を溶かすやつがあるか!」
ティーエが叫ぶ。
「うるさい! お前はまな板を三枚割った女だろうが!」
「それとこれとは話が違う!」
「どこが違うんだよ!」
二人の怒鳴り声が厨房中に響き渡る。煤が舞い、煙が充満し、溶けた鍋から異臭が立ちこめる。
その惨状を見かねたローザが、おずおずと声をかけた。
「……あの、手伝おうか?」
「「手を出すな!」」
二人の声が、見事にハモった。
ローザは椅子に座り直し、静かに目を閉じた。
その後も戦いは続いた。
ルナフレアが火力の調整に失敗するたびにティーエが毒舌を吐き、ティーエが食材を破壊するたびにルナフレアが呆れ顔をする。互いに罵り合いながらも、意地になって引き下がらない。
最終的に——厨房は壊滅した。
煤だらけのルナフレア。割れたまな板が三枚。溶けた鍋が二つ。食材は全滅。天井には黒い焦げ跡が残り、テーブルには包丁の刺さった穴が並んでいる。
「…………」
ローザは長い長い溜息をつくと、静かに立ち上がった。
棚から新しい食材を取り出し、エプロンの紐を結び直す。
「やっぱり、私が作るわね」
二人は何も言えなかった。
◆ ◆ ◆
昼過ぎ。
墓参りから戻ったアルトが食堂の扉を開けると、テーブルの上に豪華な肉料理が並んでいた。
こんがりと焼き色のついたクレイボアのロースト。付け合わせの野菜。香ばしいスープ。どれもローザさんの腕前が光る、完璧な料理だった。
「……これは?」
アルトが目を丸くする。
その前に立っていたのは、なぜか煤だらけのルナフレアさんと、髪の先まで焦げ臭いティーエさん。そしてその後ろで、エプロン姿のローザさんが呆れた顔をしていた。
「おかえり、アルト。三人で作ったぞ」
ルナフレアさんが、煤だらけの顔で堂々と胸を張った。
「……ルナフレアさん、なんでそんなに煤だらけなんですか」
「気にするな」
「ティーエさんも、なんかまな板の破片が髪についてますけど……」
「気にするなでしゅ」
ティーエさんが、冷徹な族長の顔で言い切った。
「……ローザさん、これは一体」
アルトが助けを求めるようにローザさんを見た。
「えっとね、二人がアルトちゃんのために料理を作ろうとしてくれたの」
「作ろうと『した』のね……」
「ええ。それはもう、すごかったわ。厨房が戦場になってたもの」
ローザさんが遠い目をした。
「肉は炭になるし、まな板は三枚割れるし、鍋は溶けるし……」
「おいローザ、余計なことを言うな」
「全部事実だ。黙れ、ルナフレア」
「お前が言うなよ、まな板クラッシャー」
「誰がまな板クラッシャーだ」
二人がまた言い争いを始める。ローザさんが「はいはい」と二人をなだめようとするが、火に油を注ぐだけだった。
アルトは、三人の姿を見ていた。
煤だらけで言い争うルナフレアさんとティーエさん。その間に割って入ろうとして巻き込まれるローザさん。
賢聖。弓聖。剣聖。
大陸最強の三人が、僕のために料理を作ろうとしてくれた。結果はひどいものだったらしいけど。
胸の奥で、何かが温かくなった。
ここ数日、ずっと胸の真ん中に居座っていた重たいものが、少しだけ、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
「ぷっ」
笑いが漏れた。
自分でも驚いた。ここ数日、笑えなかった。笑い方を忘れたのかと思っていた。
「あはは……あはははは」
止まらなかった。三人の姿がおかしくて、嬉しくて、温かくて。涙が出るほど笑った。
三人が、きょとんとした顔でこちらを見ている。
「……アルトが笑った」
ルナフレアさんが、煤だらけの顔のまま、少しだけ口元を緩めた。
「ありがとうございます」
アルトは笑いながら、目元を拭った。
「僕は、大丈夫です」
「大丈夫じゃなくてもいいんだぞ」
ルナフレアさんが、静かに言った。
「……でも、腹は減ってるだろ? ローザの飯が冷める前に食え」
「はい」
四人でテーブルを囲んだ。ローザさんの作ったクレイボアのローストは、絶品だった。
「美味しい……」
「そう? よかったわ」
ローザさんが嬉しそうに微笑む。
「アルトたん、もっと食べてくだちゃい」
ティーエさんがアルトの皿に肉を盛り付ける。族長モードから一転、甘々モード全開だ。
「食え食え。ローザの飯はいくらでも入る」
ルナフレアさんがエールを傾けながら豪快に笑う。
温かい食事。温かい声。温かい時間が流れていた。
食事が進む中、アルトはふと自分の手を見た。
炎。水。土。そして、光。あの戦いで発現した力。白魔法に内包された、あらゆる属性の力。
まだ、わからないことだらけだ。
なぜ自分に白魔法が使えるのか。この力の本当の意味は何なのか。母さんが言っていた「特別な子」とは、何を指していたのか。
答えは、まだ見つかっていない。
「さて」
ルナフレアさんがエールを飲み干し、ジョッキをテーブルに置いた。
「腹も膨れたし、そろそろ本格的に動くか」
その言葉に、食堂の空気がふっと変わった。
「魔王討伐。ここからが、本番だ」
ティーエさんとローザさんが、静かに頷いた。
僕は、拳を握りしめた。
ジャックスとの約束が、胸の中で響いている。
――絶対に、魔王を倒せよ。
「……行きましょう」
僕は立ち上がった。
ルナフレアさんが、にやりと笑った。
「いい顔になったじゃねーか、アルト」
ティーエさんが弓を手に取り、ローザさんが剣を腰に差した。
窓の外では、王都の復興が進んでいる。人々が、前を向いて歩いている。
僕たちも、歩き出す。
魔王ヴァンデルが待つ、その先へ。
こちらにて第一部完!となります。最後までお付き合いいただきありがとうございました!!




