37話
「アルトぉぉぉぉーーー!!」
ジャックスの魔族の力は完全に消えている。体はボロボロで立っているのが不思議なほどだった。それでも、ジャックスは一歩を踏み出した。
僕に向かって。
「……っ!」
三人の聖戦士が、それぞれの武器を持ち身構えた。
まだ戦う気なのか。あれだけの攻撃を受けて、闇を打ち払われてなお——。
だが、僕は動かなかった。
ジャックスの目に、闇はなかったから。憎悪も、嘲笑も、狂気も。何一つ残っていない。
ただ——幼い頃に見た、幼馴染の目があった。
ジャックスが二歩目を踏み出す。三歩目。体が大きく揺れる。四歩目で、膝が折れた。五歩目は、なかった。
ジャックスの体が、僕の目の前に崩れ落ちた。
地面に伏したまま、ジャックスはしばらく動かなかった。荒い呼吸だけが、瓦礫の散らばる地面に響いている。
僕はジャックスのそばに膝をついた。
しばらくして、ジャックスの口が動いた。地面に顔を押しつけたまま、絞り出すような声だった。
「……すまなかった」
その一言は、あまりにも小さかった。
でも、確かに聞こえた。プライドの塊のようなこの男の口から出た、初めての謝罪。
ジャックスの声が、震えていた。
「お前を追い出したのは……お前が弱かったからじゃない」
「……」
「わかってたんだ。ずっと」
ジャックスが、歯を食いしばる音が聞こえた。
「俺が強かったんじゃない。お前の支援があったから……俺は強かっただけだ」
「……」
「でも、それを認めたくなかった。認めたら……俺が惨めになるから」
ジャックスの拳が、地面を叩いた。弱々しい音が、瓦礫の間に消えていく。
「お前の力を認めたら、俺には何も残らないと思った。だから……お荷物だって、足手まといだって、後ろでコソコソしてるだけだって……」
声が、詰まった。
「……全部、俺が弱かったからだ」
長い沈黙が落ちた。
夜風が、瓦礫の間を吹き抜けていく。
ジャックスがもう一度、口を開いた。今度はさらに声が小さくなっていた。
「……あの時」
「お前の母親のことを……言った」
僕の体が、一瞬だけ強張った。
酒場での記憶が蘇る。「まぁ勇者っていうのもたかが知れているか。結局、魔王を倒せずに途中で死ん——」。あの時、僕は机にグラスを叩きつけた。それ以上言ったら絶対に許さないと。
「……取り返しのつかないことを言った」
ジャックスの声が、さらに震えた。
「……言った瞬間に、わかっていた。越えちゃいけない線を越えたって」
「でも、謝れなかった。謝ったら……俺は全部認めることになるから」
ジャックスの体から、力が抜けていくのがわかった。声がどんどん小さくなっていく。
「王都のことも……全部、俺がやったことだ……」
それだけ言って、ジャックスは言葉を切った。もう、長く話す力が残っていないのだ。
僕はジャックスの顔を見た。
初めて気づいた。ジャックスの体が、内側から崩れようとしている。魔族の力を無理やり取り込んだ代償。闇を剥がされた今、体がその反動に耐えきれなくなっていた。
「ジャックス……!」
僕は両手をジャックスの体に当て、白魔法を流し込んだ。治癒の光。エルフの里で魔導師たちの傷を癒し、戦場で三人の聖戦士を支え続けてきた、あの白い光。
だが——光が、通らない。
ジャックスの体に染み込んでいかない。魔族の力に侵された体は、もう白魔法では修復できないところまで壊れていた。
「頼む……!」
もう一度。さらに強く。ありったけの魔力を込めて、白魔法を注ぎ込む。
しかし、何度やっても、通らなかった。
「なんで……なんでだよ……!」
声が震えた。さっき、シャイディーンまで使えるようになった。あらゆる属性を引き出せるようになった。こんなに力を手に入れたのに——たった一人の幼馴染を治すことすらできない。
「……やめろ、アルト」
ジャックスの声が聞こえた。静かな声だった。
「……もう、いいんだ」
「よくない! まだ……まだ治せるはずだ……!」
「いいんだよ」
ジャックスが、笑った。
嘲笑じゃない。自嘲でもない。穏やかで、どこか清々しい笑みだった。その顔を見たのは——いつ以来だろう。子供の頃、二人で裏山を駆け回っていた時以来かもしれない。
「お前は……変わらないな」
「……」
「お前を追い出しても。お前の母親を侮辱しても。魔族になって、お前を殺そうとしても」
「……それでも、俺を助けようとするのか」
答えられなかった。答える前に、涙が溢れた。
「……バカだよ、お前は。昔から」
ジャックスの手が、ゆっくりと持ち上がった。震える手が、僕の胸を軽く叩いた。
「なぁ……。ガキの頃に……約束しただろ」
「……」
「勇者パーティーを組んで……魔王を倒すって」
覚えている。忘れるわけがない。
隣同士の家で育った二人の少年が、夕焼けに染まる丘の上で交わした、子供の約束。いつか一緒に、魔王を倒そうと。世界を救おうと。
「……覚えてるよ」
「そうか」
ジャックスの手が、僕の胸から滑り落ちた。
「……俺は、お前と一緒には行けなくなっちまったけどよ」
声が、さらに小さくなる。
「絶対に……魔王を倒せよ」
その言葉を最後に、ジャックスの目が閉じた。
苦しそうな表情はなかった。
穏やかで、どこか安心したような——そんな顔だった。
「……ジャックス」
返事はなかった。
膝の上にある体から、温もりがゆっくりと消えていった。
空には、星が瞬いていた。何事もなかったかのように、静かに。




