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36話

 ジャックスが一歩一歩とこちらに迫ってくる。

その時、懐に微かな熱を感じた。最初は気のせいかと思った。体中が痛みで麻痺している。感覚がおかしくなっているだけかもしれない。

 でも、熱は確かにそこにあった。じわりと、胸の奥から広がるように。


 聖剣のコアだ。


 ティーエさんから託された、母さんの遺品。あの灰色の石ころが、懐の中で脈打つように熱を放っていた。


 そして――光が、流れ込んできた。


 コアから溢れた白銀の光が、僕の体に染み渡っていく。指先から、腕へ、胸へ、全身へ。冷えきっていた体が、内側から温められていく。


「温かい」


 この感覚を、知っている。

 幼い頃、夜中に泣いていた僕を抱き上げてくれた、あの温もり。


「……母さん」


 声にならない声が漏れた。

 光は止まらなかった。コアから溢れ続ける白銀の光が、僕の中を満たしていく。その時、気づいた。


この光は、白魔法だ。


 白魔法は、他者の潜在能力を引き出す魔法。僕はそれをずっと、他者にかけてきた。ずっと、他者にだけ。


 でも——自分にも、かけられるんじゃないか。


 僕は残りわずかな魔力を、コアの光に重ねるようにして、自分の体に注ぎ込んだ。


 瞬間——。


 体の奥底で、何かが弾けた。

 細胞の一つ一つが目を覚ますような感覚。血が沸き立ち、筋肉に力が漲り、視界が鮮明になっていく。さっきまで動かなかった体が、嘘のように軽くなった。


 いや、軽いなんてものじゃない。

 体の中から、とめどなく力が湧き上がってくる。今まで感じたことのない、圧倒的な力が。


「……なんだ?」


 ジャックスの足が止まった。

 とどめを刺そうと近づいていたジャックスが、僕を見て目を見開いている。


「お前……何をした……」


 僕は答えなかった。答える必要がなかった。

 ジャックスの拳が飛んできた。

 さっきまでなら、避けることもできなかった一撃。

 僕は片手で、それを受け止めた。


「——っ!?」


 ジャックスの顔が驚愕に歪む。拳を握ったまま、力を込めて押し込もうとしてくる。だが、僕の手はびくともしなかった。


 反撃に、右の拳を振り抜いた。

 その拳には赤い炎が纏っていた。


「なっ——」


 炎を纏った拳が、ジャックスの腹に突き刺さった。

 轟音。ジャックスの体が、まるで弾丸のように吹き飛んだ。結界の壁に激突し、黒い壁にひびが走る。殴られた箇所から、黒い力が剥がれ落ちていく。


 僕は自分の拳を見た。

 燃えている。指の隙間から、赤い炎が揺らめいていた。


「……炎?」


 白魔法しか使えなかったはずの僕の拳に、炎が宿っている。こんなことは、今まで一度もなかった。

 考える暇はなかった。

 ジャックスが壁から剥がれ、咆哮とともに突っ込んでくる。


「ふざけるなぁぁっ!」


 振り下ろされる拳。僕は身を沈めて避けた。体が勝手に動く。反撃の拳を、ジャックスの顎に突き上げる。


 今度の拳には、水の力が纏っていた。

 冷たく澄んだ水の奔流がジャックスの顔面を捉え、その体を仰け反らせる。黒い力が、さらに剥がれていく。


「がっ……! くそ……くそっ……!」


 ジャックスがよろめきながらも、なおも拳を振るってくる。右。左。右。執念じみた連打。だが、そのすべてが見えていた。さっきまで避けられなかった攻撃が、今はまるでゆっくりに見える。


 ジャックスの右拳をかわし、がら空きの脇腹に拳を叩き込んだ。

 今度は、土の力だった。

 重く、硬い衝撃がジャックスの体を貫く。地面がひび割れ、ジャックスの足がめり込んだ。黒い力が、大きく剥がれ落ちる。


 殴るたびに、属性が変わる。


「な……んで……」


 ジャックスが、血を吐きながら呟いた。


「なんで、お前が……こんな力を……」


 その問いに、僕は答えを持っていなかった。自分でも分からない。ただ、体が覚えている。白魔法が導いてくれている。それだけは、確かだった。


   ◆ ◆ ◆


 結界の外からアルトの行く末を見つめていた三人の聖戦士は、信じられないものを見るような顔つきになっていた。


 黒い結界の内側から、光が漏れている。一色ではない。赤、青、茶——次々と色を変えながら、結界の壁を透かして外にまで溢れ出している。


「……あれは」


 ルナフレアが、息を呑んだ。

 炎の光。水の光。土の光。あの結界の中で、アルトが異なる属性の魔法を使っている。白魔法しか使えなかったはずの少年が。


「まさか……白魔法は……あらゆる属性を内包する魔法だったのか……」


 白は、すべての色を含んでいる。


 炎も、水も、土も——すべてが、白魔法の中にあった。他者の力を引き出すだけではない。自分自身にかけることで、白魔法に内包されたあらゆる属性を引き出すことができる。

 だからこそ、初代魔王は自らの命と引き換えにしてまでも、白魔法を封印した。


そこでルナフレアはある可能性に気が付いた。


「ということは……」


その声は、震えていた。


「あらゆる属性を内包するなら……」


 隣で、ティーエとローザが息を呑む音が聞こえた。


   ◆ ◆ ◆


 ジャックスが膝をついていた。

 黒い力はほとんど剥がれ、体中に傷を負っている。それでもなお、憎悪に満ちた目で僕を見上げていた。

 僕は自分の拳を見下ろした。

 炎。水。土。殴るたびに、違う力が宿った。自分でも説明できない。ただ、白魔法が導いてくれるままに拳を振るってきた。

 その拳に——今度は、これまでとは違う光が宿り始めていた。温かくて、眩しい光。


 見覚えがある。


 幼い頃の記憶。おぼろげで、霞がかった記憶の中にある光。母さんが僕を抱き上げてくれた時、その手から溢れていた光。


「……これが」


 声が、自然とこぼれた。


「母さんの、魔法……」


   ◆ ◆ ◆


 結界の外。

 三人が同時に、息を止めた。

 結界の内側から溢れる光の色が変わった。赤でも、青でも、茶色でもない。白と金が入り混じった、温かく、圧倒的な輝き。


 その光を、三人は知っていた。


「ルビスの……光だ……」


 ルナフレアの声が、かすれた。

 ティーエの手が、口元を覆った。銀色の瞳から、何かが頬を伝い落ちた。

 ローザが、剣を握ったまま、その場に膝をついた。

「ルビス……あなたの光が……アルトちゃんの中に……」


   ◆ ◆ ◆


 僕の両手に、光が集まっていく。

 白と金が溶け合った、眩い光。体の奥底から、際限なく力が湧いてくる。

 これが母さんの魔法。光魔法の最上級——シャイディーン。

 白魔法が内包する、あらゆる属性の中の一つ。母さんが命を懸けて振るった光。

 ジャックスが、膝をついたまま僕を見上げていた。その目には、もう闇の色はほとんど残っていない——どこか安堵にも似た光が浮かんでいた。


 僕は、両手を前に突き出した。


「——シャイディーン」


 白と金の奔流が結界の中を満たし、ジャックスの体を包み込んだ。黒い力の残滓が、光の中で塵のように消えていく。闇が、消えていく。

 闇で編まれた壁に、無数の亀裂が走る。内側から溢れ出す光に耐えきれず、黒い結界がガラスのように砕け散った。


 光が収まった時——僕の目の前に広がっていたのは、星空だった。


 結界はなくなっていた。


 三人の聖戦士が、少し離れた場所で呆然と立ち尽くしている。


 そして、ジャックスは——倒れているかと、思った。

 

だが、ジャックスはまだ立っていた。

 

ボロボロの体。魔族の力は、完全に消えている。黒い靄も、禍々しい気配も、何一つ残っていない。ただの人間の体が、そこにあった。


 それでも、ジャックスはゆっくりと顔を上げた。


「アルトぉぉぉぉぉーーー!!」


 ジャックスが、叫んだ。

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