35話
白い光が、ジャックスの体に触れた。
その時だった――。
彼の全身を覆っていた黒い靄が、触れた場所からゆっくりと剥がれていく。
「……なんだ、これは」
ジャックスの動きが止まる。
自らの手を見ると黒い力が白い光に侵され、光と闇がせめぎ合っていた。
そして一瞬だけ、剥がれた闇の隙間から、ジャックスの素顔が覗いた。
怒りでも、嘲笑でもない。迷子のように揺れる、怯えた目。
「俺の力が……消えて……」
それは、ただの戸惑う少年のような声だった。
その隙を、三人の聖戦士は逃すわけはなかった。
「今よ!」
ルナフレアさんの声が戦場に響いた。
限界寸前の体で杖を掲げ、残りわずかな魔力を無理やり一点に集めて火炎魔法を放つ。放たれた炎は、揺らぐジャックスに直撃した。
「ぐっ……!」
ジャックスの喉から、初めて苦悶の声が漏れた。
すかさず、ティーエさんが矢を番える。弦を限界まで引き絞り、矢先に、冷気が凝縮していく。
「この一射に、すべてを賭ける。」
氷の矢が一直線に飛び、ジャックスの肩を貫いた。
二人の攻撃を受け、態勢を崩したジャックスめがけて、ローザさんが踏み込む。
信じられない速さで間合いを詰め、剣を振り抜いた。
刃がジャックスの胸を薙ぐ。
浅いが――確かにジャックスの体に傷をつけた。
「がはっ……!」
三人の聖戦士の攻撃が、ついにジャックスに通った。
黒い力が不安定に揺らぐ。
さっきまでの圧倒的な力が、明らかに弱まっていた。
だが――
「……お前、よくも……よくも俺の力を……!」
ジャックスの視線が、三人を越えて後方にいた僕に向いた。
その目に浮かんでいたのは激しい怒りだった。
聖戦士たちの攻撃を無理やり振り払い、僕めがけて突進してきた。
「アルト! 逃げろ!」
ルナフレアさんの叫びが飛ぶ。
だが、ジャックスの速度は凄まじかった。
弱体化しているはずなのに、怒りが体を突き動かしている。
「お前を……潰す!」
僕は――動けなかった。
動かなかったわけじゃない、動けなかったのだ。
ジャックスの殺気に、体が竦んでいた。
足が、まるで地面に縫い付けられたみたいに動かない。
◆ ◆ ◆
戦場から離れた建物の屋上で、レンは、黙って戦いを見下ろしていた。
夜風に細身の体をさらし、感情の読めない目で戦況を追っていた。しかし、やがて戦場の一点に視線が集中する。
その視線の先には白い光が輝いていた。
「あれは……」
レンの表情が、わずかに動いた。人間の魔法で、魔族の力を浄化する。
そんなことは、あり得ない。あり得ないはずだった。
だが現実に起きている。
ジャックスを覆う闇が、あの光に触れるたび崩れていく。
「……あの魔法は危険だ」
目を細めて静かな声でいう。
「放置するわけにはいかない」
右手を持ち上げ、指先に、黒い魔力が凝縮していった。
眼下では、ジャックスが聖戦士たちを振り切り、少年へ突進している。
怒りに我を忘れたまま。
二人の距離が縮まったとき、レンの唇が、わずかに動いた。
「――閉じろ」
◆ ◆ ◆
ジャックスの拳が、僕に届く寸前だった。
突然、視界が暗くなる。
足元から黒い光が噴き上がり、僕を囲むように漆黒の壁が立ち上がる。
四方を囲むように瞬く間に黒い光がドーム状に覆った。
「なっ!?」
振り返る。すぐ背後に壁。前にも、左右にも。
僕は黒い結界の中に閉じ込められていた。
そして――
その中には、ジャックスもいる。
二人の距離は、数歩。
結界の外から叫び声が届く。
「アルトー!」
ルナフレアさんだ。
炎が結界に叩きつけられる。
だが、表面で弾けるだけだった。
「この結界……!」
ティーエさんの氷矢が突き刺さり――砕け散る。
「アルトちゃん!」
ローザさんの剣が結界を叩く。
甲高い音が響くが、壁はびくともしない。
声は聞こえるが、手は届かない。
僕は三人の声を背に、目の前のジャックスを見た。
結界の中の空気は、外とは違う。
黒い霧のようなものが満ちている。
息を吸うだけで、肺が重くなる。
ジャックスをみると、さっき剥がれたはずの黒い力が、戻っていた。
いや、それだけじゃない。
結界の闇を吸い込むように、さらに濃くなっていた。
「……ふふ」
こちらを見る目にさっきの怯えや怒りは、もうない。
闇に満ちた瞳が、僕を見下ろしていた。
「どうやら、俺たちは閉じ込められたようだな」
僕は白魔法を手に集め、ジャックスに向けて放つ。ジャックスに白魔法をかければ、黒い力を剥がせる。さっきはそれが効いた。
だが——。
黒い力が、一瞬だけ揺らいだ。ほんの一瞬。それだけだった。
揺らいだ闇は、すぐに結界内の黒い霧を吸い込んで元に戻った。白い光が、黒に塗り潰されていく。
「……効かない」
ジャックスが冷ややかに笑った。
「さっきと同じ手が通じると思ったか?」
もう一度。
白い光が放たれる。触れる。揺らぐ。だが——すぐに塗り潰される。結界の中に満ちる闇が、白魔法の浄化を上回っていた。
ジャックスが一歩、近づいてくる。
「何度やっても同じだ。お前のちんけな魔法は通じない」
「……っ」
もう一度だ。今度はありったけの魔力を込めた。両手から溢れるほどの白い光が、ジャックスの全身を包む。
黒い力が——揺らいだ。さっきより長く。二秒、三秒——。
だが、結界の闇が奔流のように押し寄せ、白い光を飲み込んだ。
「……は、ぁ……」
膝から力が抜けそうになった。魔力が、一気に削られた。
「一人じゃ何もできないお前が、俺に何ができる」
ジャックスが、僕の目の前に立った。
「お前はいつもそうだった。誰かの後ろに隠れて、誰かに守ってもらって。自分じゃ何もできない」
「……」
「聖戦士がお前を大事にしてくれるのは、勇者の息子だからだ。お前自身に価値なんてない」
その言葉が、胸に突き刺さった。
ずっと、自分でも思っていたことだった。
ジャックスの拳が、僕の腹を打った。
「がっ……!」
吹き飛ばされ、結界の壁に叩きつけられる。背中に走る衝撃。口の中に血の味が広がった。
結界の外から、声が聞こえる。
「アルトー!!」
ルナフレアさんが結界に拳を叩きつけている。
「やめなさい! アルトに手を出すな!」
ティーエさんの悲痛な叫びが響く。
「アルトちゃん……! こんな結界……私の剣で……!」
ローザさんが剣を何度も何度も結界に叩きつける音が聞こえる。
僕はなんとか立ち上がろうとしたが、足が震えている。魔力がほとんど残っていない。
「まだ立つのか」
ジャックスが、感情のない声で言った。
「お前のそういうところが、昔から気に入らなかった」
拳が飛んできた。避けられなかった。
頬を打たれ、地面に転がる。石畳が頬を擦り、じわりと痛みが広がった。
「……っ」
それでも、立とうとした。
手をついて、膝をついて、体を持ち上げようとする。
だが——もう、体が言うことを聞かなかった。
腕が震え、力が入らない。そのまま、地面に崩れ落ちた。
「アルトぉぉぉぉぉ!」
ルナフレアさんの絶叫が、結界越しに響いた。三人の聖戦士はいまにも泣き出しそうな顔でこちらを見ている。
三人の声が、遠くに聞こえる。
僕は地面に伏したまま、ジャックスの足音が近づいてくるのを聞いていた。
体が動かない。魔力もない。
白魔法は、この結界の中ではジャックスには効かない。
支援魔法しか使えない僕には、もう何も——。




