32話
その日の昼下がりも、宿の食堂は穏やかだった。
ローザさんが厨房から運んできたスープの匂いが漂い、ティーエさんが僕の椅子にぴったりと張り付いている。ルナフレアさんはいつものようにエールを傾けながら、僕のことをにやにやと眺めていた。
「アルトたん、今日のお昼はティーたんが食べさせてあげましゅ」
「自分で食べられますって」
「えー」
「ほら見ろアルト、諦めた方が早いぞ」
ルナフレアさんがにやけたまま言う。
「ルナフレアさんも助けてくれないんですか」
「嫌だよ。これが面白いんだから」
ローザさんが苦笑しながらスープを並べる。
「あらあら。アルトちゃん、諦めてティーエに食べてもらいなさいな」
「ローザさんまで」
のんびりとした空気が、食堂に満ちていた。
その時だった。
遠くから、重く低い鐘の音が響いた。
一度。二度。三度。
四人の動きが、一瞬で止まった。
「……これは?」
ルナフレアさんがエールのジョッキを置いた。ティーエさんの手が、静かに僕の肩から離れた。ローザさんが窓の外を見た。
「魔族の襲撃だ」
ルナフレアさんが立ち上がった。その声に、いつものがさつさはなかった。
「しかも鐘が三つ。ただの魔族の襲撃じゃない——王都全域への大規模侵攻だ」
僕も窓の外を見た。
空の端が、赤く染まり始めていた。
◆ ◆ ◆
王都の西側城壁付近は、すでに混乱していた。
魔族の第一陣が城壁を越え、冒険者たちが必死に食い止めている。剣戟の音、魔法の爆発音、怒号が入り混じっていた。
「押されてるぞ! 後退するな!」
「数が多すぎる! きりがない!」
冒険者たちの顔に、焦りが滲んでいた。
その時、前線の後方に一人の女が現れた。
普段は酒瓶を手放さないその女が、今は両手を空けていた。目はいつもと違い、静かな光をたたえている。
「どけ」
ルナフレアさんが、短く言った。
冒険者たちが思わず左右に割れる。
ルナフレアさんが両手を前に伸ばした。指先に、三色の光が同時に灯る。赤、青、白。それは炎、氷、雷属性の魔法が発する光だった。
それが、同時に放たれた。
三本の魔法が、それぞれ別の軌道で魔族の群れに走る。爆発が三箇所で同時に起きた。土煙が上がり、魔族が次々と倒れていく。
静寂。
「……一人で、何種類の魔法を」
冒険者の一人が、呆然と呟いた。
「別属性の魔法を同時展開……そんなこと、できるやつがいるのか」
ルナフレアさんは自分の手を見た。三色の残光がまだ指先に揺れている。
「……3つ同時か」
小さく、独り言のように呟いた。
「アルトの魔力があると、自分でも思わぬことができるな」
◆ ◆ ◆
王都の東区画では、冒険者たちが第一陣の魔族をなんとか退けていた。
荒い息をつきながら、一人の冒険者が遠くを見た。
「……第二陣だ」
遠く、城門の向こうに魔族の群れが見える。まだ距離がある。到達するまでに、少し時間がある。
「体勢を整えろ! 次に備えろ!」
冒険者たちが傷を確かめ、体制を整えようとした。
その時――。
遠くの魔族が、一斉に倒れた。
冒険者たちが顔を見合わせた。
「……自爆か?」
「罠か何かか?」
「待て、よく見ろ」
一人が目を細めた。遠く倒れた魔族の体に、細い矢が刺さっていた。一体一体、全員に。
「矢……だと?」
誰かが高台を見上げた。
そこに、銀髪の女が立っていた。静かに弓を下ろしている。その表情に、何の感情も浮かんでいない。
「あの距離を……全員……一人で?」
冒険者が、声を失った。
高台で、ティーエさんが次の矢を番えながら、小さく呟いた。
「……アルトたんの魔力、今日も安定してる」
◆ ◆ ◆
王都の中央広場には、最も数の多い魔族の群れが押し寄せていた。
冒険者たちが後退を余儀なくされている。大型の魔族が前線を突破し、王都の広場に入り込もうとしていた。
「まずい、広間まで入り込まれた。市民が危ない――」
と、歯ぎしりする一人の冒険者が広場に視線を向けると、広場の中心には、一人の女が立っていた。
白いエプロンをし、穏やかな微笑みを浮かべている。どこからどう見ても、台所に立つお母さんといった風貌で、戦場に立つ人間ではなかった。
大型の魔族が、その女に向かって突進した。
白いエプロンの女性は、静かに剣に手をかけた。
鞘から剣を、抜き、剣を、納めた。
それは一瞬の出来事だった。
次の瞬間――広場に入り込んだ大型魔族が、崩れ落ちた。
誰も動いていなかった。誰も声を上げていなかった。ただ、魔族が倒れた。
「……今、何が」
「剣を、抜いて……納めただけ、だったよな?」
「あの人、何者だ」
冒険者たちが、声を震わせた。
ローザさんは倒れた魔族を静かに見渡し、聖母のような笑顔で、小さく呟いた。
「アルトちゃんがいてくれると、体が思い通りに動くわ」
◆ ◆ ◆
僕は王都の中心で、三人に支援魔法をかけ続けていた。
白魔法を通じて、三方向の戦場が感じ取れる。ルナフレアさんの魔力が流れる感覚。ティーエさんの集中が研ぎ澄まされていく感覚。ローザさんの剣が迷いなく動く感覚。
三人の力が、白魔法を通じて繋がっている。
僕自身は、何もできない。ただここに立って、魔力を流し続けるだけだ。
でも――三人が戦えている。
それでいい、と思おうとした。
その時――。
背後から、気配がした。
魔族の気配だ。でも――何かが違う。魔族の群れとは違う、一点に凝縮されたような、重い殺気。
振り返る。
王都の内部――三人が守る防衛線のさらに奥、本来なら魔族が来るはずのない場所なのに。
(……単独で、防衛線を突破してきたのか)
煙の中から、気配の正体が姿を現した。
僕は息を飲んだ。
魔族の気配をまとっていながら――その姿は、人間だった。しかも、見覚えのある人物だった。
「……ジャックス」
その男は、僕を見て口元を歪めた。
「よう、アルト」
低く、かつて聞いたことのない声だった。
「久しぶりだな」




