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27話

 その日のティーエさんは、特別に激しかった。


 朝食の最中から僕の箸を横から奪って「アルトたんに食べさせてあげまちゅ」と言い張り、ギルドへの報告のついでに出た王都の散策では僕の手を握って一切放さなかった。夕方に宿へ戻るなり「アルトたんの部屋でお話がしたいでしゅ」と当然のように押しかけてきて、夜になってもなかなか帰らない。


 そんな一部始終を、ルナフレアさんはずっとエールを飲みながら眺めていた。


「アルト、お前の顔が段々死んでいくのが面白いな」


「笑ってないで助けてください」


「嫌だよ。これ最高に面白いもん」


 にやにやと笑うルナフレアさんは、まったく助けてくれる気がなかった。


 ようやくティーエさんが「また明日でしゅ」と去り、ルナフレアさんもエールの瓶を抱えて「おやすみ、アルト。いい夢、見ろよ」とにやけたまま引き上げた頃には、僕はすっかり消耗していた。


 ベッドに倒れ込んで天井を見つめる。体が重い。頭がじんわりと熱を持っている。


「……疲れた」


 誰に言うわけでもなく、ぽつりと呟いた。


 こんこん、と控えめなノックが響いた。


「アルトちゃん、起きてる?」


 ローザさんの声だった。


「……はい、どうぞ」


 扉が静かに開く。ローザさんは小さな木箱を抱えて入ってきた。夕食のエプロンをまだ外していない。


「疲れた顔してるわね」


 部屋に入るなり、僕の顔を見てそう言った。声に咎める色はなく、ただ心配そうだった。


「……ちょっと」


「ふふ、ちょっとじゃないわよ、その顔」


 ローザさんは木箱をそっとテーブルに置き、ベッドの縁に腰を下ろした。


「おばさんがお耳の掃除をしてあげましょうか」


「……え?」


「嫌?」


「嫌じゃないですけど……」


 子供扱いされているような気恥ずかしさがあった。でも、正直なところ、断る気力がなかった。


「おいで」


 ローザさんがそっとベッドに腰を落ち着け、膝を叩いた。


 僕はおずおずと横になり、ローザさんの膝に頭を預けた。


 温かかった。


 ルナフレアさんの温もりとは違う。ティーエさんのひんやりとした体温とも違う。じわりと、体の芯から力が抜けていくような、そういう温かさだった。


「じゃあ始めるわね」


 木箱から耳かきを取り出し、ローザさんが静かに作業を始める。


 穏やかな手つきだった。急がず、乱暴にもせず、ただ丁寧に。


 天井を見つめていると、さっきまでの疲れが、するすると溶けていく気がした。


「アルトちゃん、小さい頃ね」


 ローザさんが、静かに話し始めた。


「よく泣く子だったのよ。夜中に目が覚めるたびに大声で泣いて、ルビスを困らせてたわ」


「……そうなんですか」


「ええ。でもね、おばさんが抱っこするとすぐ泣き止んでくれたの」


 ローザさんの声が、少し柔らかくなった。


「不思議だったわ。ルビスが抱いても泣き続けるのに、おばさんが抱くと五秒と経たないうちにすやすや寝てしまって。ルビスが悔しそうな顔してたのが、今でも忘れられないわね」


「……母さんが?」


「そう。あの子、泣いてるアルトちゃんを抱っこしながら、『ローザに負けた』ってむくれてたのよ」


 想像したら、胸の奥がじわりと温かくなった。


「……知らなかった」


「あなたはまだ赤ちゃんだったもの。覚えてないのが当然よ」


 しばらく沈黙が流れた。耳かきの柔らかい感触だけが続く。


 気づいたら、目が重くなっていた。


「ローザさん」


「なあに?」


「……ローザさんって、なんでそんなに自分のことをおばさんって言うんですか」


 手が、ほんの一瞬だけ止まった。


「そう聞こえる?」


「聞こえるんじゃなくて、毎回言ってます」


 ローザさんが小さく笑った。でもその笑いは、どこか寂しそうだった。


「……おばさんだもの。事実でしょ」


「事実かもしれないけど」


 眠気の中で、言葉が自然に出てきた。


「ローザさんって……僕が何もできなくても、何も言わずにそばにいてくれますよね。ご飯を作ってくれて、服を繕ってくれて、ただ……僕のことを心配してくれる」


「……」


「母さんがいたら、こんな感じだったのかなって」


 ローザさんの手が止まった。


「だから、僕にとってローザさんは特別な人です。おばさんなんかじゃない」


 静寂が落ちた。


 ローザさんは何も言わなかった。


「……アルトちゃん、それ本気で言ってるの?」


 少し間があってから、そう聞こえた。声が、かすかに震えていた。


「本気です。ローザさんみたいな人がそばにいてくれて、僕は嬉しい」


 ローザさんが何かを言おうとした気配がした。でもその言葉は出てこなかった。


 代わりに、小さなため息が聞こえた。


「……本当に、ルビスの息子ね」


 それだけ言って、ローザさんはまた耳かきを動かし始めた。さっきより、少しだけ優しい手つきで。


 しばらくして、ローザさんがまたぽつりと言った。


「でも私……いつまでアルトちゃんの傍にいられるかしら」


「……え?」


「おばさんだから。足手まといになる前に、身を引かないといけないかなって、たまに思うのよ」


 その言葉が、眠気の底に沈みかけていた意識を引っ張り上げた。


 足手まとい。


 あのローザさんが。


 A級魔物を鎌で両断した、あのローザさんが。


「……そんなこと」


 言葉が、夢と現の境目からこぼれ落ちてきた。


「……僕が守ります。ローザさんのこと」


 静寂。


 ローザさんの手が、完全に止まった。


「……アルトちゃん?」


 返事はなかった。


 アルトはもう、眠りに落ちていた。


 ローザはしばらく動けなかった。


 膝の上で、穏やかな寝息が聞こえる。少し開いた口元。長い睫毛。戦場でも魔法でも輝くその子が、今は何の力も持たない、ただの少年の顔をしていた。


「……まったく」


 ローザは目元を指でそっと拭った。


「そんなこと言われたら、おばさん、泣いちゃうじゃない」


 静かに微笑んで、アルトの頭をそっと撫でた。


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