④
私は第三王子殿下の婚約者だったが、お茶会にも夜会にも連れて行ってもらえなかったので、ほとんど王宮に来たことがない。
どこを見てもきれいに整えられている王宮は、とても広くて迷子になりそうだ。
そんなことを思いながら大人しくついていくと、やがて大きな厩舎が見えてきた。
そして、厩舎の前には、エメラルドの鱗をした大きな竜。
竜は金色の瞳を私に向けると、一声大きく鳴いた。
「ギュオオオオ!」
『姉さん!』
思わず私は立ち止まった。
竜の声に怯えたわけでも、竜の言葉が理解できたことに驚いたからでもない。
エメラルド色の竜が、私を姉さんと呼んだからだ。
「イヴェット……?もしかして、イヴェットなの……?」
「ああ、あれはイヴェットという名だが」
よく知っているな、という王弟殿下の声は私の耳に入らなかった。
私はイヴェットに向かって全力で駆け出し、そのままの勢いで大きな顔に抱きついた。
「イヴェット!イヴェット!よかった、生きていたのね!こんなに大きくなって!」
『姉さん、会いたかった!会いたかったわ!』
イヴェットにしがみついて歓喜の涙を流す私と、キュンキュンと鼻を鳴らすイヴェットに王弟殿下や周りの騎士たちが唖然としていた。
「イヴェットは、前の私が保護していた竜なのです。
まだ幼体の時に、魔物に襲われそうになっていたところを助けて、それから世話をしていました。
竜は互いの魔力の気配を感じることができます。
私に魔力が戻った時、イヴェットはそれを感じて私を呼んで、他の竜たちもそれに呼応したのです」
「なるほど……だからあの時あんなに騒いでたのか」
「呼んだのに、近くにいるのに、いつまでも姿を見せない私をイヴェットは心配していたと言っています。落ち着かなかったのはそのせいですね」
イヴェットの前脚に座って通訳をする私に、王弟殿下は難しい顔をしている。
イヴェットは王弟殿下と心を通わせている竜なので、王弟殿下にはイヴェットが思っていることが伝わる。
それでも、なにを言っているかがはっきりとわかるわけではない。
竜と言葉を交わすことができる私が異常なのだ。
『姉さん、人間になっちゃったのね。あんなに大きくてきれいだったのに』
「そうなの。自分でもびっくりよ」
『でも、魔力は前のままね。そのおかげで姉さんだってすぐにわかったのよ』
「私は、竜の気配がわからなくなってしまったわ」
『しかたないわよ、人間だもん。人間でも、姉さんにまた会えて嬉しいわ!」
「私もよ、イヴェット。生きててくれて本当によかったわ」
私が頬のあたりを撫でると、イヴェットは大きな黄金の瞳を細めた。
「会話が成立しているようだな……」
王弟殿下は腕組みして私たちを眺めている。
「イヴェットがこんなに懐くなんて信じられない。
俺ですら甘えられたことがないのに」
「この子は、私を母のように慕ってくれていましたから」
記憶の中のイヴェットは、馬くらいの大きさしかなかった。
それが今やアングラード竜騎士団で一番大きく強い竜になっている。
「ねぇ、あれからどれくらいの時が過ぎたの?」
『三百年くらいよ』
そうか。あれはそんなに前のことなのか……
『あのスタンピードが起きた時、私はまだ小さくて戦えなかった。
でも飛ぶのは得意だったでしょ?
だから、隣の国の王様までお手紙を届けたの。
隣の国の王様は、すぐに助けを送ってくれたんだけど、その時すでに姉さんは死んじゃってた。
悲しかった……私がもっと大きかったら一緒に戦えたのに、って何度も思ったわ』
「そうだったのね……ごめんなさい、あなたを残して死んでしまって」
イヴェットは私にとても懐いていた。
私が死んでしまって、どれだけ悲しかったことだろう。
『でもね、姉さんたちのおかげで、たくさんの人間が助かったのよ。
あの国の名前、覚えてる?』
「確か……メサジュ」
メサジュ。フランセットも知っている地名だ。
「アングラードの西方の山の中にある町……最初の竜騎士がうまれた場所」
メサジュは竜騎士発祥の地として知られており、史上初の竜騎士は竜と共に魔物と戦って散った……
令嬢として教育を受ける中で、そう習った。
その竜は、私のことだ。
そして、史上初の竜騎士とは、私の愛しい子のことだ。
フランセットの知識と、前世の記憶が繋がった。
イヴェットが手紙を届けたのは、当時のアングラードの王だ。
アングラードはメサジュに救いの手を差し伸べ、メサジュはアングラードに併合されることで復興を遂げた。
イヴェットはアングラードの王子と心を通わせ、二人目の竜騎士とした。
それがアングラード竜騎士団の始まりだった。
「メサジュの人々は、助かったのね。
あの子と私が命を投げ出したのは、無駄ではなかったのね」
それを知ることができただけで、私たちのあの痛みも苦しみも報われるような気がして、涙が滲んだ。
『姉さんたちがいたから、今の竜騎士団があるのよ。
全部、姉さんたちのおかげなのよ』
よかった。よかった……
それなら、私は。
「王弟殿下。私の前世の話を信じていただけますか?」
『パトリック!姉さんは、私の姉さんなのよ!』
王弟殿下は、イヴェットの首を撫でた。
「イヴェット。この娘が言ってることは、真実なんだな」
『当たり前でしょ!』
「そうか……イヴェットもきみを信じているようだな。
こうなったら、信じられなくても信じるしかない」
「ありがとうございます!
では、王弟殿下。その上で、私のお願いをきいてくださいませんか?」
「無茶なお願いじゃなければ、できる限りのことはするよ」
「私を、竜騎士団で働かせてください」
王弟殿下は青紫の瞳を瞠った。
「私はオクレール公爵家に戻りたくありません。
第三王子殿下にも関わりたくありません。
どちらも私のことなど心配するどころか、忌々しく思っているくらいでしょうから」
殿下が痛まし気に眉を寄せた。
私が最後に言ったことが本当だと知っているからだろう。
「私は竜のことには誰よりも詳しいのです。
私の記憶は、ここでは役に立つはずです。
厩舎の掃除係でも構いませんから、ここで働かせてください」
「しかしなぁ、きみは公爵家の令嬢なんだぞ?
掃除なんてできるのか?」
「今までも自分の部屋は自分で掃除していました。
やり方さえ教えていただけたら、掃除でもなんでもできます」
公爵家では、私の身の回りを整えるメイドなどいなかった。
だから、掃除もなにもかも自分でするしかなかったのだ。
「私はもう、普通の貴族の令嬢には戻れません。
お願いします!私に居場所をください!」
『パトリック、姉さんのお願いを聞いてあげて!』
頭を下げる私を、イヴェットは庇うように翼で包んでクルクルと小さく鳴いた。
「元々、きみをオクレール公爵家に戻すつもりはなかった。
俺が後見人になって、どうにかしてやろうと思ってたんだ。
他国に留学させるとか、マシな嫁ぎ先を探すとかそういうことになるかな、と予想してたんだが……
どちらにしろ、きみが希望するようにしてやるつもりだった。
竜騎士団で働きたいというのなら、それでもいいだろう」
「やった!ありがとうございます!」
『ありがとうパトリック!』
私とイヴェットは抱き合って喜んだ。
そんな私たちに、殿下は人差し指をびしっとつきつけた。
「その代わり!一つ条件がある」
なにを言われるのかと緊張する私たちに、殿下はニヤリと笑って見せた。
「これからは、俺のことは王弟殿下ではなく、おじ様と呼ぶように」
「お、おじ様ですか!?」
「元々親戚になる予定だったんだから、構わないだろう?」
それはそうなのだが……それなら。
「わかりました。おじ様とお呼びします。
では、私のことはフランセットではなくジョゼとお呼びください」
「ジョゼ?」
「前世の私の名です。
フランセット・オクレールという名は捨てます。
家族も婚約者も公爵令嬢としての身分も、フランセットのものはなにもいりません。
私はただのジョゼとして、今後生きていきたいのです」
どうでもいい両親がつけた名より、私の愛しい子がくれた名の方が愛着があるのだ。
「……いいだろう。今日からきみはジョゼということにしよう」
『ジョゼ!懐かしい名前ね!』
イヴェットも喜んでいる。
こうして私はフランセット・オクレールから、ジョゼになった。
久しぶりにジョゼと呼ばれるのは、最高にいい気分だった。