㉝
ゆっくりと目を開くと、知らない天井が見えた。
……いや、あれは天井ではない。
だって、木ではなく布でできている。
どうやら、ここは建物の中ではなく、天幕かなにかの中のようだ。
それから、体が温かいものに覆われているのに気がついた。
レアンドルだ。
レアンドルが、私を抱きしめたまま眠っている。
その胸に顔を埋めて、肌に馴染んだ体温とすっかり慣れ親しんだ匂いに包まれ幸せに浸っていると、ぎゅっと抱きしめられた。
「ジョゼ。起きたのか」
寝起きの掠れた声。
「ええ……ここは」
どこ?と言いかけて、はっとした。
意識を失う直前にあったことを思い出したのだ。
「レアンドル!傷は!?お腹は!?大丈夫なの!?」
がばっと飛び起きて、二人で包まっていた毛布を捲った。
レアンドルは上半身裸で寝ていたので、すぐに腹部が露わになった。
きれいに割れた腹筋には、いくつか古い傷跡がある。
どれも見覚えのある傷跡ばかりで、とっくに完治して塞がっている。
血を流しているような、真新しい傷はどこにもない。
「あんたのおかげで、痕すら残らなかったよ」
傷があったはずの場所にそっと触れてみると、温かくて滑らかな肌の感触。
「レアンドル……生きてる」
「ああ、生きてるよ」
「私、今度こそ守れたのね」
「そうだ。あんたは、俺を守ってくれた。
ありがとうな、ジョゼ」
大きな手が私の頬の涙をそっと拭った。
それから、私たちの顔が近づいて……
「キュルルルッ!」
『ジョゼ!おはよう!』
唇が触れ合う寸前に、天幕の入口から頭を突っ込んだノエが賑やかな声を上げ、
「くそっ!またかよ……」
レアンドルはがっくりと肩を落した。
魔力切れを起こして気を失った私は、丸一日眠っていたのだそうだ。
「ジョゼが気を失った後、大変だったんだ……」
おじ様は疲れた顔で、あの後のことを教えてくれた。
体を張って救ったはずのデュラクの人間にレアンドルが重傷を負わされたことで、まずリディが怒りの咆哮を上げた。
それから私まで倒れ、イヴェットや他の竜たちも揃って怒りを露わにした。
大暴れを始めそうな竜たちにおじ様たちが青くなったところで、私の魔法により回復したレアンドルが、
「止めろ!誰も殺すな!そんなことしたら、ジョゼが悲しむだろ!」
と言ってなんとか竜たちを宥め、辛くもデュラクは壊滅の危機を免れた。
私が寝ていた天幕は広場の中央に張られていて、その天幕を守るように竜たちが周りを取り囲んでいた。
デュラクの人間は信用できないからと、眠っている私と重傷を負ったばかりレアンドルの側を竜たちは離れたがらなかったので、苦肉の策としてこうなったのだそうだ。
『姉さん!』
イヴェットが金色の瞳を輝かせて顔を寄せてきた。
「おはよう、イヴェット。心配かけてごめんね」
『もう大丈夫なの?』
「ええ、もう大丈夫。ただの魔力切れだったのよ」
私はイヴェットの美しいエメラルドの鱗を撫でた。
イヴェットたちも、皆生きている。
竜騎士団は誰も死なずに、スタンピードを生き延びたのだ。
よかった。
今度は、誰も失わずに済んだ。
私は寄ってくる竜たちを次々に抱きしめて、喜びを噛みしめた。
「この度は……誠に、申し訳ないことを……」
デュラクの領主様たちが、土気色の顔で竜騎士団の前に跪いている。
領主様は、髪と髭がより白くなって体が薄くなったようにすら見える。
「我ら竜騎士団に救われたにも関わらず、その恩を仇で返したのだ。
どういうわけか説明してもらおう」
静かな怒りを滲ませるおじ様。
私はレアンドルに肩を抱かれ、成り行きを見守っていた。
「竜騎士様を害した女は、少し前に王都から送られてきた囚人です。
いつもは牢に入れてあるのですが、緊急事態だからと、女子供と一緒に地下の貯蔵庫に避難させておりました。
スタンピードが終わって、皆が浮かれて目を離してしまった隙に、あんなことをしでかしたのです」
領主様が合図を送ると、縄でぐるぐる巻きに縛られた女がおじ様の前に引きずり出された。
私に明確な殺意を向けた、あの女だ。
「他にも同じような女がおりますが、この女はいつまでもうるさく喚くので、声を封じてあります」
女の首には、よく見ると細い首輪がつけられている。
あれが声を封じる魔法具なのだろう。
「会話もできませんので、我々もこの女がなぜあんなことをしたのかは、わかりません。
ご希望とあれば、声を出せるようにいたしますが」
おじ様はじっと女を見て、それから私を振り返った。
「ジョゼ。これ、きみの妹じゃないか?」
「え?」
そう言われて改めてよく見て、やっと気がついた。
石畳に転がされたまま私を睨むその瞳は、若葉のような緑。
確かに、見覚えがある。
「……本当だ。ベアトリスですね」
そういえば、辺境の領主の妾になったとかなんとかいう話だった。
ここでは妾は囚人扱いなのだろうか。
かつては丁寧に手入れをされて艶やかだった髪も、今は肩より上で切られてボサボサになっている。
毎日きれいなドレスで美しく着飾っていたのに、見る影もない。
以前のフランセットより酷い有様だ。
「どうしたい?話を聞いてみるか?」
ベアトリスが顔を歪めながら口をパクパクしている。
その表情から、反省の弁ではなく恨み言を叫んでいるのは明らかだった。
私は首を横に振った。
「……いいえ。聞いたところで、どうにもなりません。
その人と私は、もう赤の他人ですから」
ベアトリスはフランセットの妹であって、私の妹という感覚はない。
私には関係がない人間だ。
私を殺そうとした理由はなんとなく想像がつくし、恨み言を聞いてやる義理などない。
「そうか。きみがそれでいいなら、そうしよう」
ベアトリスの処遇は、デュラクに一任されることになった。
デュラクはメサジュと同じように、かつては独立した小国だったのがアングラードに併合された地域だ。
寒さが厳しく作物が育ちにくい土地柄で、たまにランドン山からそこそこ強力な魔物が下ってくる。
デュラクの人々は魔物を狩って魔石や素材を集め、それと引き換えにアングラードから安定した食料支援を得ているのだ。
アングラードからしても、デュラクがないと他の地域に魔物が広がり危険なので、持ちつ持たれつの関係になっている。
アングラードの一部になりはしたが、独特の文化を持つデュラクはどちらかといえば自治区のような扱いで、デュラク内での犯罪はデュラクの法律が適用される。
ベアトリスはその法に従って裁かれることになるわけだ。
竜騎士団に損害を与えたということで、デュラクを罰することもできたそうだが、それはできるだけ軽いものになるようおじ様にお願いした。
ベアトリスは囚人で、デュラクの住人とは言えないと思ったからだ。
デュラクの人々は、竜騎士団のことを敬ってくれている。
たくさんお礼も言われたし、皆いい人たちだと思う。
それに、こうなったのはフランセットがベアトリスに憎まれていたことが原因なのであって、そこにはデュラクは一切関係していない。
この件に関しては、デュラクはむしろとばっちりを受けた側なのだ。
領主様にそう伝えると、拝み倒されそうな勢いで感謝された。
スタンピードの終息から二日後、竜騎士団は王都へと帰還した。
王都では、気を揉みつつ待ち構えていたお義母様にレアンドルと二人揃ってぎゅうぎゅうに抱きしめられ、心が温かくなった。
それからは凱旋パレードやら表彰やらと忙しくなり、本来なら結婚式の翌日からのはずだった結婚休暇は二か月も先延ばしになってしまった。
ブツブツ文句を言っていたレアンドルだったが、
「その代わりに、休暇を十日追加してやるから!」
とおじ様に言われ、やっと機嫌を直した。