泣き崩れて。
離婚のための書状に自分の分だけサインをし、あたしはあの人の執務室の机に置いた。
黙って出て行くのはこれ以上あの人と言い合いをしたく無かったから。
そもそも浮気をしたのはあちらなのだ。それなのにそれがどうかしたのかとかどうせお前の気のせいだとかそんなことは関係ないお前はちゃんと妻の役割を果たせばいいのだ、とか、都合のいいことばかりしか言わないそんな夫。
浮気。
それに、今度のあれが浮気なのかどうかも疑わしい。
だって、あたしは彼に愛されてなどいなかったのだしそれに、相手はあたしの妹マリアンネだったのだから。
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「旦那様、これはどういうことなのでしょうか?」
「寝室には勝手に入るなといつも言っているだろう? お前はそんなことも守れないのか?」
「そこに寝ているのは妹のマリアンネではありませんか! 昨夜彼女が屋敷を訪ねてきたのは存じておりました。父の名代で書状を携えて参ったとのことでしたけれど。それでもまさか。このようなことを……」
「なに、彼女は昨夜の雷が怖かったそうだ。眠れないからと訪ねてきた彼女を招き入れたまで。まさか深夜に一人で客室まで戻れと追い出すわけにもいくまい?」
寝室で抱き合って眠っている男女。
もう言い訳もできないほどの現場を目撃されたというのに開き直る彼。
「ああ、パトリック様。もう朝ですの? わたくしまだ眠いですわ」
寝ぼけたように目を擦り彼に擦り寄る妹。
はだけたお布団の下に見えたのは可愛らしいピンクの夜着だった。
裸でなかっただけマシだったと思うものの、こんな状況でまだ浮気でないとシラをきる彼に。
「わたくし、今まで一生懸命にパトリック様に尽くしてきたつもりでしたのに……」
思わずそんな弱音がこぼれる。
「何を勘違いしているのか知らないが、お前は今まで通りこの私の妻の役割を果たせば良いのだ。お前には公爵夫人という役割があるのだからな」
あたしの弱音が聞こえたのだろうに、冷たい声でそう言い放つ彼。
「もう、知りません!」
あたしは彼の視線から逃げるように背を向けて、涙が出そうになるのを堪えて寝室の外へと飛び出した。
あたしは……。本当に彼が好きだった。
親同士が決めた許嫁ではあったけれどそれでも、彼に会える日がいつも楽しみで。
去年婚姻披露を執り行った時には感極まって涙した。もう、こんなに幸せでいいのかと、そう感慨に耽ったものだったのに。
それがずれてしまっているように感じたのは最初の夜だった。
「私は君を愛することができない」
初夜のベッドの中でそう吐き捨てるようにして。
「しかし、君はもう私の妻だ。その役割はしっかりと果たして欲しい」
そう続け、あたしに背をむけ寝てしまった彼。
パトリック・フォン・アルシェード公爵は弱冠二十歳で公爵位を継いだ若きプリンスだ。
父が王弟であったがため王位継承権も保持する彼はその容姿もとても素敵で、若い貴族の子女の間では男女問わず人気がある。
そんな彼の婚約者として選ばれたあたしは……。
それはもう色々と頑張った。
妃教育。
王位継承権を持つ公爵パトリック様にふさわしい妻となるために、格式のある宮廷マナーと装い、そして社交のための知識に他の貴族に対する振る舞い方まで厳しく教育をうけ。
もちろんそれだけではなく領地経営のノウハウから経理の数字のいろはまで。学ぶことはほんと多くてその点では優秀な家庭教師をつけてくださったお父様にとても感謝している。
もともと、うちも由緒ある筆頭公爵家、リンデンバーグ家という名家であったから、年齢の釣り合う王太子がいらっしゃったのならそちらに嫁がせられることになっていたんだろうけどあいにくと現在の王太子様は30代。もうすでに妃も御子もいらっしゃる。
そういう意味でもパトリック様はあたしの方にとっても家格の釣り合う男性の中では最高の家柄のお方で、お父様がまだ幼いあたしを強引に彼の婚約者にと押し込んだのも理解はできた。
でも彼に一目惚れをしていたあたしの方はともかくパトリック様にとっては断ることのできなかった名ばかりの婚約者としてしかこちらを見てくださらなかったんだろうということも、悲しいけど納得はしていたのだ。
だけれど。
心を込めてお支えしていればいつかは穏やかな夫婦として過ごせるようになるのではないか。
そう思ってきたのに。
婚姻を機に、パトリック様は変わってしまった。
それまではそれでも婚約者としてたててくださり優しい言葉をかけていただいたことも多かった。
並いる令嬢方のお誘いにも、自分には婚約者がいるから、と、断ってくださっていた。
だけれど。
先代アルシェード公爵が病の床につき、パトリック様の結婚を急がれてからというもの、彼はこれみよがしに数多な令嬢と浮き名を流すようになった。
あたしが尋ねてもそれがどうかしたのかとかどうせお前の気のせいだとかそんなことは関係ないお前はちゃんと妻の役割を果たせばいいのだ、とか、都合のいいことばかりしか言わないようになった。
それもこれも、ある程度は仕方がないと諦めてはいたけれど。
それでも。
これは、ない。
マリアンネは寝ぼけた真似をしてあたしに気がつかないふりをしていた。
だけど、その目が勝ち誇ったように一瞬だけこちらを見たのを、あたしは見逃さなかった。
マリアンネとあたしは腹違いの姉妹だった。
母が帝国皇女であったあたしと、普通に男爵家令嬢であったマリアンネの母。
早くから妃教育を仕込まれていたあたしと、勉強を嫌い自由奔放に振る舞っていたマリアンネ。
お父様が母より側室であったマリアンネのお母様を好いていたのは知っていた。
だからかな。同じ娘であるのにあたしよりマリアンネの方を甘やかしているようにも見えて。
もしかして。
パトリック様も、お父様と同じだったのだろうか。
あたしよりも、マリアンネを愛しているのだろうか。
マリアンネであればあたしと同じリンデンバーグ公爵家の令嬢であるのだから、家柄にも何にも問題はないもの。
ああ、いやだ。
もう耐えられない。
こんなにも好きなのに。ううん、好きだからこそ、妹マリアンネと愛し合うあの人をこれ以上見たくない。
パトリック様もパトリック様だ。
そんなにあたしとの婚姻がいやなら断ってくださればよかったのに。
いや、今からでも離縁をしてくださってもいいのに。
だいたいマリアンネが相手なら婚約者のすげ替えくらいどうということも無かったでしょう。
彼女が妃教育を受けていないことくらい、あとからどうとでもなること。
王位継承権があるとはいえパトリック様は王太子ではないもの。
順当にいけばまだ7歳ではあるけれど現在の王太子様の御子が次の王太子となるだろう。
であれば妃教育なんてそこまで重要でも無いのだし。
自分の部屋に戻りベッドに倒れ込み泣き伏した。
枕が涙で濡れてしまうのも、もう構っていられなかった。
「どうして……」
そう声が漏れる。
泣いて泣いて泣いて、泣き崩れるまま寝てしまったのだろう。
そのまま、なんだか不思議な夢を見ていたらしい。見たことも聞いたこともない世界の、それもその世界の少女として生きた記憶を——