誰が卵を置いたのか。その6
猫ならばきっと耳がピッ!と立っている事でしょう。まさにそういう興奮状態ほ私が外に出ると。
まぁ!なんということでしょう~。戸が開けっ放しなった1号室の前で、いけ好かない大家の息子の奥さんが仰向けでだらしなく倒れているではありませんか!
彼女の側には棒切れと、折り曲げられた針金がポトリと落ちています。話に聞くこそ泥さんの仕事道具のようです。
「まあ!どうされたのですか!」
「ええ!何があったのです!」
私と同時に1つ向こうの柳田さんも顔を出し、驚いています。さらに、カラカラとそのお隣、角部屋の戸が開きました。
「全く。春はあけぼのと言いますが、今は初夏……。あら。大変ね」
胸までの長さ、白髪混じりの三つ編みをひとつ前に垂らし、まだ冷える日も有るので、ネルのお寝巻きの上に、若竹色の単の羽織り姿の牧野様迄、顔を出して来ました。
「ちょっと、大家をお呼びなさい」
「あ。はい」
柳田さんが阿吽の呼吸で応じると、部屋の中へ引っ込みます。
こいつがやった!と騒ぐのは新聞配達の人、そのお方に、俺が来たときにはゴニョゴニョ……、倒れてたと喚く大家の息子さんという構図が、私と牧野様の目の前で広がっています。
「先生の奥さん。そこなのは、死んでいますの?」
「いえ。目を回しているだけですわ」
「ならば放っておいてもいいわね。幸いにそこなのはガタイも良いし、医者を呼ぶまでも無い」
牧野様が静かにたずねて来られたので、私は見たままに答えました。
「あらそう。確かそこなのは、アレの嫁でしょう?」
「ええ。そうですわ」
違う!倒れていた!その、ゴニョゴニョ倒れてて……お前が来たんだと、必死に話す息子さんを顎で示す牧野様。
「貴方、お隣ですわよね。何かお聞きになりませんでしたの?」
「うとうとしていましたから。あ、夢の中で聴こえた気もしますが」
「事実を目の当たりにしていないのは不確かですから、証言にはなりませんわね」
「そうでしょうねぇ」
のんびりとやり取りをしていると。う、うーんと倒れていた長男さんの奥さんが目を覚ました。
「はっ……イテテテ、くぅぅ!」
ヨロロ……と起き上がると、辺りを見渡しながら、大きな市松模様と薔薇の花を組み合わせた柄の銘仙に、ずりずりと、手についた汚れをなすりつけています。
「汚いものね。嗜みも何もあったものじゃない。みやこの御召しが勿体なくてよ」
「牧野様、みやこさまとは?」
「大家の亡くなった妻よ。私とは古い馴染みなのよ。その縁に導かれるかのようにここに越してきたの」
いや!やっていない!嘘だろ!のやり取りを、ポカンと見ている息子さんの奥さんは。
たんこぶがあるご様子のひたいをソロリとさすり、落ちている棒切れを眺め、ツバを飛ばし喚く、昨夜ブタ呼ばわりしてきた旦那さんを眺めを数回、繰り返した後。
「にげやがってえぇ!クソ野郎!」
たんこぶは大した怪我ではなかったのでしょう。怪我人とは思えぬ動きで立ち上り棒切れを拾うと握りしめ、配達員と揉める旦那さんに襲いかかるべく、行動を起こしました。
「んな!お、おま!」
「裏切り者ぉぉ!」
「ち、違う!!」
「そうだろおがぁぁ!」
「あ。やっぱりコイツが犯人ッスね」
棒切れをブンブン振り回す奥さんを避ける長男さん。
新聞配達の彼は巻き込まれちゃ、かなわんとその場から離れると、新聞を私達に手渡し。
ガチャン、ジャァ!キコキコキコキコキコキコキコキコ!
猛スピードで去って行きました。残されたのは夫婦の修羅場。
「わたくし、こういう庶民の夫婦のやり取りは拝見したことがありませんの。ですから後学のために見物をしていてよろしくって?」
「まあ。構いませんが、僕が何を見せていると後できっと、従兄弟から叱られますよ。それで……」
そうぼやきつつ、柳田さんが出てきました。そして牧野様の耳元で何やらひそり。
「あらそう」
平然と頷く牧野様です。私はもう、うずうずが止めることができず……、失礼は承知の上で唐突に聞きました。
「あの。こんな時に何なのですが、お二人のご関係を少々、お聞きしたいのですが」
棒切れを振り回し詰め寄る長男さんの奥さんは周囲は全く見えていないご様子。ソレは旦那さんである長男さんも同じなのか……。
「ハァハァ、お前がここに金目の物を隠しているっていうから!ハァハァ」
「ハァハァ、だから来たんじゃねぇかぁ!せっかく鍵を開けて入ったらぁぁ!ゼエゼエ」」
物騒な話ですわね。すると牧野様が。
「あら。わたくしの持ち物に不法侵入したと言っておりますわね。晴彦、どうします?」
「取り敢えず大家さんに相談をするのが最善かと。警察に連絡をすると、戻る事になりますよ」
その言葉にそれは困るわねぇ、せっかくお小遣いでここの名義を買い取ったのにと、修羅場を前にのんびりとしたやり取りをされています。柳田さんを見るとため息をひとつ。肩が上下に動きます。そして愉快そうに修羅場を眺める牧野様を見ますと、
「ああ。晴彦さんは産まれた時から、珠子さんの婚約者で私は2人の身内なの」
「その。晴彦様とやらは、こちらの柳田さんと思われますが、珠子様とはどちら様なのでしょう」
視線を受け取った牧野様が教えてくださいます。
「珠子さんはうちの遠縁の娘よ。えっと。『あけみ』でしたかしら。あの子の芸名は。昔から珠子さんは歌手になりたくて。ここなわたくしの甥っ子の晴彦さんと、本格的に顔合わせをする前に、『槙野』の家を出たらしくて。申し訳ございませんが、婚約を破棄したい。と書き置きをしたと聞いたわ」
牧野様は空に『槙野』と書きつつ説明を。はぁ。そのようなご事情が。柳田さんが後に続きます。
「僕が初等部に通う年に一度、本邸で会ってはいるんですが。その時は珠子さんは、3歳でした。なのでうろ覚えだったようで……。彼女から婚約は破棄との報せを受け、本家のお力を借り探しました。どうしても諦めきれなくて。歌手になりたいのなら、それでもいい。そうしてここを見つけて……。用心棒の代わりなるやもと思い、越してきたのです」
「そこで暇を持て余していたわたくしが、丁度良いとしゃしゃり出ましたの。どうしても結婚をしたいと泣きついてきたものだから。本家の隠居のわたくしなら、1年に1度会うか会わないかですからね。面が割れてませんもの。おほほほほ、でもまさか買い取りになるとは、夢にも思いませんでしたわ」
「そうなのですか。でも柳田さんですよね。槙野ではないのですか?そして牧野様もわざわざ名字を変えて?」
私が小さな疑問を投げると。防犯対策でここで暮らす間は『牧野』を掲げる事が、現当主を務める牧野様の御子息からの条件。柳田さんも似たりよったりで、それに加え、
「もしも。珠子さんが気づいて、警戒されたくなかったんです。できれば……その。恋仲に発展するのを、目指して越してきたんです。すると伯母上がいて。従兄弟に連絡を取るとちょうど良いから無茶をしないように、お目付役を命ぜられたのです」
なので、曾祖母のご実家の名字をお借りしたとのこと。
「やんごとなき一族は大変ですわねぇ……」
外の騒ぎに気づかず眠る3号室をちらり。以前、良いお育ちよね。となった私の勘も、なかなかね!と少しだけ嬉しくなります。すると以外な人が1号室から出てきましたの。
「(スゥゥゥ)お前ら!何やっとるぅぅ!」
「はっ!」「ヒ!」
それは大家さん。その一喝で、ある意味2人の世界を創っていた、いけ好かない長男夫婦が動きを止めました。恐る恐る……、声の主を確認をして……へにゃへにゃと地面に座り込みました。
あら……、大家さん。もしかしてひと晩お隣にいたのかしら。夢の中で聞いた声は、やっぱりそうかと納得したのですが、
『フシャャァァァ!』
猫はどこに行った?
2人共に、ハァハァゼエゼエで、事の次第を話せる様子じゃないと見越した牧野様が、修羅場後の夫婦に対して代わり仁王立ちの大家さんに、手短に説明をしました。
「ごきげんよう。1号室に忍び込んだこそ泥夫婦が仲間割れしたそうよ」
「はいさいで。愚息が鍵を開けてコソコソと入ってきましたな」
「ハァハァ、俺は、お前がしろといった!ハァハァ」
「ゼエゼエ、嘘だ!お前が盗めと言ったろ、ハァハァ」
否定をする夫婦ですが、昨夜の顛末も有るし中にいたのですから当然、全てを知っているご様子の大家さん。
「やれやれ。夫婦喧嘩は犬も食わないというけれど、これは餓鬼でも喰わないわねぇ。困ったこと。さあ。後はご家族でお話しなさいな。ふう。これにて終りにしましょう。そろそろ食事の支度にメイドが来ますから、これにてごきげんよう」
チュンチュン、小鳥の囀りが空に響きます。勝手に話をまとめると、牧野様が部屋へと戻られます。
「僕も仕事がありますから」
柳田さんもそれに乗り戻られます。さて、私もご飯を炊かないと。へたり込む息子夫婦を立たそうと、激を飛ばしている大家さんに、知っているとは思いますが、卵を置いたのは誰かを明かしてから戻りましょうか。
「大家さんご苦労さまです。あけみさんの部屋の前に、生卵を置いたのは、長男さんの奥さんですよ。昨晩は私に汚水をぶっかけようとして来ましたし、そのような事も言っていましたし」
「はあ……さとこから聞いています。全く……他人の建物にこそ泥をしようとするなんて。もう置いてはおけねぇ!幸いにして名義はまだ俺だ。家も売っ払うからそのつもりでいろ!」
「ふっ!」「へっ?」
「ああ!ここじゃあ何だから、ちょっと来い!」
叱責と腑抜けた返事に送られ、戸口に手をかけました。まだまだ終わりそうもない外の騒ぎですが、大家さんは1号室へと向かっているご様子。これから説教かしらん、これにて長男さんの奥さん襲撃事件もどうやら解決なのか。いささか物足りなさを感じつつ、カラリと開くと……。
「ほぉぉぉぉぉぉう!勿体ないぃぃ!」
電気を付けっぱなしにしていた現実に直面をして、私はその場に硬直、思わず情けない悲鳴を上げてしまいました。