誰が卵を置いたのか。その5
グツグツ、グツグツ。卵が茹だる茹だる。ゆでたまご。
コッチコッチコッチ。時計の短針で時間の確認。
コッチコッチコッチ。部屋の中は奇妙に明るい。
「よし!5分経ったわ!」
私は小鍋を火から下ろすと、湯を洗い桶の中に流します。熱湯だからついでに布巾を洗おうとの算段。熱い卵に水をジョボジョボ。皮を剝くために冷やして。
どうにも寝付けず……。布団の中で転々と寝返りばかりしていました。あれだけ食べたのに小腹が空く始末。布団を頭の上迄引きあげ、潜っていると。
途中。
足音。あ!あけみさんが戻って来たのかしら?
ほら、戸が開きました。あらおかしい、大家さんかもしれません。荷物を置きに来たのでしょうか。
トトトと!トトトトトト。鼠が何処が屋根裏を走り回る音がします。
その後はお腹の虫がぐうと鳴き始めて。
仕方がないので、夜更けに巾着袋の中の卵を茹でる事にしました。
ふふふん。3つも食べれば、ご飯もお味噌汁も無くてもお腹いっぱいは間違いなし!昨夜はご飯を炊いていませんから、我が家で簡単調理で食べられる食材といえば。
実家から貰った生卵しかありません。温もりが黄身に残る出来立てにお塩をちょいちょい付けもって食べるのが、好物のひとつです。
ボーンボーン。柱時計が2回打ちました。
丑三つ時にゆで卵、ひとり喰む新妻。
うふふ。なんだか日常生活とかけ離れた今……。
何か起らないかしらん。と少しばかり思ったり。
例えば。夫さんがいきなり帰って来たとか。ああ、交通手段は。そうですね、向こうで知り合った名家の車を拝借して。その時に夫さんはアパートの玄関前で転がる死体に遭遇をして……
そこから始まる、八重桜荘殺人事件!
きゃぁぁ♡す、て、き。なんて考えつつ、流しに向かい黙々とつるつるつるりん。卵の殻を剥いていると。
玄関ドアの隣の壁、天井に上が沿う窓ガラスの向こう側がやけに明るい事に気が付きました。
「あれ?1号室の方がやけに明るい気がする」
玄関脇の水場の上の窓が全面、明るいのです。私の思い違いのせいでしょうか。元々、こんな時刻に茶の間の灯りをこうこうと、つけているのが珍しいのですから、視覚がおかしくなっているのかもしれません。
「やっぱり先程の騒動のあとにでも、1号室に大家さんが来て付けっぱなしで帰られたのかしらん」
気になります。ついでに割れ鍋に綴じ蓋夫婦の行く末も、気になります。
何かやらかしていないかしら。
すると事件の始まりでしてよ。
ドキドキしながら手を止めて、灯の有無の確認をすることにしました。好奇心は猫を殺すというのに。私は未だかつてないほど無鉄砲になっている気がします。
猫になりますわ!夫さん、何かあれば謎解きをお願いします。外の確認ですわよね!ドキドキしながら土間に゙下りようとしたとき。
「え…、1号室から物音がする」
コトコト、ミシミシ、と、てしてしてしてし。
「大家さん?まだいらっしゃるのかしらん」
ガチャリガチャリ……と鍵を回します。そろそろと音を殺すように引き戸を開けると。そこには意外な2人の姿がありました。知らぬ間に雨が降っていた様子のか、私の目の前には相合い傘の柳田さんとあけみさんが、いました。
「あれ?先生の奥さん。何してるの?てかどうして全部ついてるの?大家さんボケたのかしらん。柳田さん」
「あれ?出たときは、いつも通りだったけど」
「本当に?」
「うん。消しとこう」
背の高い柳田さんが傘を閉じると1号室の玄関框に上がると、ヒョイと手を伸ばしスイッチを捻りました。庇の下に入って眺めるあけみさん。
私は丁度良いと、柳田さんに゙話します
「何か中にいません?大家さんかもしれませんが」
「え!そうなんですか……でも鍵はかかってますが」
柳田さんは戸口に手をかけるとガタガタゆらした後、ガラス戸に耳を当てましたが……。
「……?静かですよ」
「でも何か中にいたような音がして……。灯りはきっと大家さんですよ。荷物を入れに来たのかもしれません」
「ああ、なんか荷物をまとめていたら、嫁に漁られ大変とか聞いたわ。ならやっぱりその時に付けっぱなしで帰ったのね」
「多分ね。じゃあ遅いし部屋に戻ろうか」
柳田さんも同意。
「ありがとう御座いました。助かったわ」
「いいよ。持ち帰りで仕事をしていたら雨が降ってきて……、なんとなく君のことが気になったんだ」
「あら♡嬉しいこと言ってくれるわね。うふふ、これくらいだったら靴持って走るから平気よ」
私の目の前で、あけみさんと柳田さんが、二人の世界を創り上げているのですが。そのままあけみさんは3号室へ、柳田さんは5号室へと別れました。
「ありがとう。ではごきげんよう」
「いえいえ……、おやすみなさい」
はい。おやすみなさいませ。と挨拶を終えると、鍵を挿しガチャリと回すと部屋へ入った、あけみさん。
どういうことなのでしょうか……どうして灯りが1号室にも点灯してあったと言う事よりも、3号室と5号室の関係性がものすごく!気になります。ポッケを弄る柳田さんに近づくと、どういうご関係でしょうかと小声で聞きました。
慌てたのでしょうか。不意打ちな質問に思わず、ありのままを話した様子の柳田さん。
「え。あのその。牧野様から、いや。正確には大家さんが娘さんから騒ぎのことを聞いた後、牧野様に電話が入って、その。お隣のよしみで迎えに行くよう頼まれただけでして……」
「どういう事なのです?柳田さんは牧野様と懇意なのですか?それとあけみさんと牧野様の間柄って?」
「え!あ、ああ……。その。うーん……。正確には亡くなった、大家さんの奥さんと牧野様とが懇意な間柄だったのです……だから大家さんの申し出を牧野様も今回、快く承知をしたと聞いてますが」
それ以上はここでは話しにくい内容なのか、困り顔の柳田さん。でも私は好奇心という槍を心の臓に突きつけられた猫なのですから、引き下がる気は毛頭ございません。
「牧野様が持ち主になられると主人に粗方、聞いてはいますが。ご長男さんにこれ以上、脛を毟られたくないとかなんとか」
夫さんから聞いた事をそのままに返してみます。
「随分長い間、面倒をみてこられてましたから。大家さんも本職に専念をしたいようですね」
話題が入れ換わり、ホッとしたような柳田さんに、私は執念深く、してご関係は?と食い下がりました。
「あの。その……、先生の奥さんはた、あけみさんと仲が良いのかな?」
「はい?まぁ……お隣さんですし、女同士そこそこに仲良しですわ」
「どの程度なのですか?さっきのやり取りを見ていたら、その。ご近所さんでお茶を嗜むくらいに?」
「はあ。まぁ、おかずのやり取りや、到来物のお裾分けが行き交う程度に仲良しでしてよ」
話をしつつ、あれ?私が布団の中で聞いた音は、ひとつ向こうの柳田さんだったのかしら?あけみさんを心配してうろついていたとか。潜っていたからよくわかりませんが……。曖昧な記憶に少しばかりガックリきます。
「そうですか……」
私の答えを受け取り、ふむ……と考え込む柳田さん。そして鍵を挿し込みガチャリと回しながら、
「明日のご予定は?」
「いえ。明日は休んで良いと兄に言われましたから、部屋に居ますわ」
「なら……、明日使いの者がお宅をご訪問いたしますから、その者に従ってください」
「はあ?従ってどうなるのです?」
「聞きたいことが判りますよ。ここで説明をしても良いのですが、もう休まないといけません」
あら……。私ったら今を何時だと思っていたのでしょうか。明日は私は休日ですが、カレンダーは平日。柳田さんはお仕事だというのに……。
「あら。申し訳ございませんでした。わかりました。ではその後、お話出来まして?」
「はい。その後でしたら……」
というやり取りを交わし、私はむくむく膨らむだけ膨らんだ、はち切れそうな好奇心を抱え込み、朝を待つことになりました。
部屋に戻りましたが眠れそうにありません。さめたゆで卵を黙々と食べ終えると。
ボーンボーンボーンボーン。4回。4時の合図です。
もう少しすると夜明けの時に……。眠るのを諦め、とっときのお茶っ葉を使う事にします。実家でお裾分けに預かった茶筒を出します。甘いものはありませんが、黒糖がほんの少し有るので、それでも齧りましょうか。
そして頭の中にある疑問を、夫さんの真似をして紙に書き出してみましょう。あけみさんの部屋の前に生卵を置いたのは、長男さんの奥さんでしょうね。
動機は嫉妬ですわね。はぁぁ……。所詮こうなる。もっと大事件を思い描いていましたのに。
でもどうして卵を置けば、あけみさんを追い出す事が出来ると、思ったのかしら。コレが最初でこれから何回も繰り返す手筈だったとか。それがその証拠に汚水をバケツに汲んで、持ってきていたのですね。
茶葉を温めた急須に匙に2杯、湯を注ぎ蒸らします。盆の上に夫さんと私の湯呑み。急須も載せてちゃぶ台へ。その前に黒砂糖の欠片を壺から取り出すと、口に放り込み、レロレロ舐めながら盆を運びました。
夫さんの座る場所に、お茶をそそいだ湯呑みを置いて、私にも注いで。ゆるゆると啜ります。
はうん。さみしいです。夫さんは今、お布団の中かしら。それとも起きていて?考え事がまとまると、夜夜中でもごそごそ起き出すから。
「はぁぁ……夫さんがお留守の間に、つまんない事件が起こりましたわ」
目の前の座布団を眺めていると、つまんないとは、一体?と夫さんの声が聞こえてくる様です。
「物騒な夫婦喧嘩を目の当たりにしました」
……、うんうん。沙都子さんは何か引っかかるの?
「そうですねぇ。大家さんの奥様はきっと華族のお産まれか、お金持ちのお育ち」
……、うんうん。遺産云々。牧野様と懇意だったと柳田さんだね。
「やっぱり長男さん夫婦は、お金が欲しいんでしょうねぇ」
……、そんな感じがしましたね。
「卵を置いたのは、つまんなそうな嫌がらせね。出かける前に踏んだら気持ち悪いって、あけみさんが言っていた」
……、うんうん。そうだね。さぞや気持ち悪いと思うよ。
「ふう。まさかの姑イビリの告白とか。大家さんは大丈夫かしらん。この先突けば、人間不信になりそうです」
……、うんうん。好奇心は猫を殺すと云うから大人しくしていなさい。
妄想力を全力で駆使。夫さんとの架空のやり取り。
ボーンとひとつ打つ音は4時半の合図が、ぼんやりと遠くから……、
聴こえた気がします。濃い茶を啜りつつあれこれ考えているうちに、ちゃぶ台に突っ伏してうとうとしていた様です。
変な夢を見ました。
――、ガチャ……ガチャ、カチ……カチ……、。カチャン。奇妙に回す音、引き戸がカラリと開く音がして
「ギャァァァ!出たァァ!」
兄が出て来て私のパラソルを振り回しています。いけ好かない奥さんのような悲鳴が。
しゃぁぁぁ!猫の声が……
うぎゃっ!衝撃を受けたかのような悲鳴が。
キィコ、キィコ、キィコ、キィコ、キィコ、キィコ
「あら。いけない。こんなとこで……て、さっき、悲鳴が聞こえたような」
自転車の近づく音のところで、薄く目が開きました。夢見の悪さからぼんやりと、そのままに突っ伏していると……。
「う、ウワァァァ!」
「いや!違う!」
「いや、オッサンそこの棒でやったんか!」
おおおおおお?
私の中の猫がミャウと鳴き声を立てて、ぱっちり目が開きましたわよ!私は慌てて立ち上ります。夢は正夢?
「事件ですわ!夫さん!」
ええ、ええ。今度こそきっと、外で何かが起こっているのです!大急ぎで、先ずは顔を洗う為に、洗面所も兼ねている台所の流し台へと向かいました!




