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誰が卵を置いたのか。その4

 ……グツグツ、グツグツ、グツグツ。


 卵、たまご、タマゴ、玉子、生卵。


 どうしてこの様な時に、よりもよって私の前に、生卵が満載された籠が出てきますの?でも丁度、良いですわね……。


「せっかくの牛鍋なのに先生、お留守だとはなぁ。仕方ない。お前、先生の分まで食べろ。生卵担当は4つだ」

「ええ!お父さんお馬鹿?4つって、どういう計算なのです?」

「お前が1個、先生が3個だぁぁ!高尚なる文学を執筆しつつぅ!難解な事件を解明に導くその頭脳!タンパク源は必須……。新婚だしな。お父さんは、先生にそっくりな賢い孫を見たい。早く産め」


 グツグツ、グツグツ、グツグツ……


「もう!お義父さんたら……沙都子ちゃんはまだ新婚さんなのよ。そんなに急かしちゃ、かわいそうですよ」


 兄嫁さんがクスクス笑いながら、笑えない父親の冗談を諌めてくださいます。ああん。菩薩にしか見えません、お義姉さま。


「さあ、下らない話は捨て置いて、早く食べましょ。沙都子、お肉持って帰ってもいいように取り分けてあるけれど。そっち、冷蔵庫がないし、婿殿は何時帰って来るかわからないんでしょう?どうする?」

「んー。卵、貰える?それでいいわ」


 いいわよ。と母。牛鍋と聞いていた兄も番頭さんを誘い、食卓に着いています。姪っ子は仕事から戻った兄嫁さんに甘えていて、とてもかわいい。


 グツグツ、グツグツ、グツグツ。


 卵、たまご、タマゴ、玉子、生卵。


 私はお腹いっぱい食べて生卵を分けてもらい、ついでに内風呂がある実家でお風呂も済ませるよう勧められた時に、うっかり着替えや手ぬぐい、石鹸入れを持ってきていない事に、気が付きました。湯おけは無料のを借りる事が出来ますので構いませんが、手ぶらで向かうと……。


 手ぬぐい代に石鹸代を別途で支払わなくちゃぁなりません。無駄です。勿体無いです。夫さん不在の時は、帰り道に寄ろうと思いついたのに……今朝、手にしたのは巾着袋ひとつ。生卵に思考回路を乗っ取られていたので、すっかり忘れていました。


 私は着替えがない事を話し、戻ってから花の湯に向かうと告げると。


「こんな事もあろうかと用意をしてあるから、着てお帰り。あんたにワンピース着せたくてさ、そこの洋品店で買っちゃった。下着もあるし入って帰りなさい」


 そう母に言われてしまいましたから、断れば何かと角が立ちそうなので素直に従うしかありません。せっかくの機会なので、ひとつをもうすぐ迎える姪っ子と一緒に、入りました。舌が回らぬ喋り方の幼子と、湯船に浸かり童謡を歌う事はとても楽しい。


 夫さんとの間に早く赤ちゃんが来ないかしらん。


 姪っ子が湯冷ましを美味しそうに飲み、すぅすぅ夢の中に向かった頃、兄嫁さんに礼を述べ帰りの挨拶をしました。すると……、


「ねぇ、飲んでいないのだから、沙都子ちゃん送っていって」

「うぃーす。帰ってから飲ませてよ」

「いいわよお義姉さん。平気よ。途中からはお風呂からの帰り道だもの。夫さんが留守の時は、独りで歩いているわよ」


 少しばかり虚勢を張ります。


「駄目よ!木の芽立ちの頃は変なのが増えるって言うし、バスも終わっているし、何かあったら先生に顔向けできないわ!」


「そうだ!沙都子。お前に何かあれば先生が悲しむ!」


「そうよ、沙都子。新妻が夜遅くに歩きで帰るだなんて、うさぎちゃんがオオカミさんに、どうぞお味見をおひとつ♡状態じゃない」


「そうですよお嬢さん。それにもっと遅い時間ですよ?もう。風呂屋もそろそろ店じまいの時間ですし」


 はぁぁ……。寄ってたかって疲れます。疲れるので、私のために晩酌が哀れにも、お預けとなっていた兄に送ってもらう事にしました。


 帰り際の巾着袋の中には生卵。持ってきたパラソル。それに風呂敷包みが増えました。なので良かったかも。



 ゴトゴト、ゴトゴト。車で揺られて数分後、アパートに入る込む路地に近づき、異変に気がついた私と運転席の兄。


「げげげ!こんなところに車を停めんなよな。入れないし。どうする?戻るか。泊まってけよ」

「ここまで来たら大丈夫よ。目を瞑っても帰れるし」

「まぁ、路地に灯りもあるしな。真っ暗じゃぁないか」


 歩いても、しれている距離の路地には入口と中程に、電信柱がありそこには常夜灯がひとつ、薄らぼんやりと傘の下で灯っています。


「アパートの玄関上にも大家さんが外灯を付けてくれてるし、真っ暗じゃないから平気」

「そうか?うー。ならここでいいか?」


 早く帰って晩酌をしたい兄の様子を見て取った私は、路地の入口を少しばかり通り過ぎた場所で降りました。


 夏虫の声もまだ早く、近くのお宅の生け垣の向こうから、池が有るのでしょうか。蛙の声がケロケロ、ケロロ……。


 し、ン。みっしりと。夜の密度が濃くなり深まっているのが、車外に出た途端私にのしかかって来ました。


 怖い。というより不気味ですわね……。誰か乗っているのか居ないのか。その車の脇を抜けて行かなくてはなりませんから。


 袋小路の路地の先に、ぽっかりとアパートの敷地があります。左右には生け垣。入口と途中に電信柱が一本づつ。アパートまでの灯りはそこの常夜灯のみ。


 はぁぁ……いけません。


 私は今、胸がドキドキと高まっています。

 私は今、何か事件が起こる予感に取り憑かれています。


「やっぱり送るよ。傘とそれ、持ってやる」  


 路地を塞ぐ様に駐車をしている車を、警戒するように見る私を案じたのか、兄が降りてきました。


 昔。縁日に向かった時のように並んで歩きます。サンダルを履いて帰ればと、兄嫁さんの申し出は有り難くお言葉だけ、頂戴しました。日中ならともかく、夜ですから足元など長靴でもズックでも構いません。


 スタスタと兄の靴の音。

 カラコロと私の下駄の音。

 ケロロケロケロ、背後で蛙の声。

 少し膨らんだ巾着は軽い重さがあり。


 卵、たまご、タマゴ、玉子、生卵。


 スタスタと兄の靴の音。

 カラコロと私の下駄の音。

 ケロロケロケロ、背後で蛙の声。

 少し膨らんだ巾着は軽い重さがあり。


 卵、たまご、タマゴ、玉子、生卵。


 もう時刻はそろそろお伽噺の姫の魔法が解ける時刻。卵を置く犯人に遭遇をする確率は限りなくゼロ。なのに……。


 もしかすると戻ってきた時に彼女に生卵を踏むよう、仕掛ける為に、この時間に来ているやもしれません。


 私は今、胸がドキドキと高まっています。

 私は今、何か事件が起こる予感に取り憑かれています。


 常夜灯の下で寝ている様な車に近づきました。中に人がいるのか居ないのか。覗き込まないと分かりません。


 幸いにして兄が側に居ますし、すり抜けながら見てみようと試みましたが、不幸にも兄が側に居たので出来ませんでした。前後になり大人しく路地へと入ります。


 再び横並びになり数歩、進んだ時。


 バン!大きな音が背後で!自動車のドアを開けて閉めた音。


「クソぉ!このアマァ!下手に出てりゃぁ、人をコケにしやがってぇぇぇ!」


 聞き覚えのある男の声は、大家さんのいけ好かない嫁の旦那さまです。剣呑な声音に思わず立ち止まります。


 すわ!事件ですわ!しかも狙われているのは私?昼間の対応が悪かったのかしらん。振り返るとやはり大家さんの長男さん、灯りを背負う中で見えました。兄は咄嗟に私を背中に隠しました。


「なんだ?お前は!沙都子の知り合いか?」

「大家さんの長男さんよ。ほら店でごちゃごちゃうるさくした、お客様よ!」

「はあ?メッセージカードのふざけたお客か!」


 そうそう。とやり取りをしている内に逆上をしている長男さんが勢いのままに、お酒の匂いをぷんぷんとさせ、兄の胸ぐらを掴もうとしましたが……。


 ベシコン!兄が手にしていた私の日傘で、思いっきり横っ面を叩き込んだのです。酔っていた事もあったのでしょう。抵抗もなくあっさりと長男さんは地面に転がる羽目に。


 ですが私はそれどころではありません。


「嘘ぉぉ!ちょっと人のパラソルで何してくれていますの!骨が折れてるぅう!」


 私は大ショック。お気に入りの日傘が壊れてしまいましたもの。夜目にでもひしゃげてしまったのが、はっきりわかります。


「あ、すまん。思いっきりやっちまった……」

「弁償してくれますわよね、してくれますわよね!」

「あー。でもお前を守る為に?だぞ。不可抗力だ」 


「夫さんならきっと、素手でボコって下さいましたわ!ああ見えて組手は凄いのです!はぁぁ……。壊れてしまいました。このパラソルとても似合うって、夫さんが散歩の折に褒め称えてくださるのに……」


「あー、はいはいはいはい」

「はい?何よ!絶対に!弁償してもらいますから!」

「ええー。来月迄待ってくれや。飲み過ぎで今月、小遣いスッカラカン」

「来月迄待てません!明日中に弁償してほしい!」


「うっせえ妹だなぁ!」

「ドケチな兄でしてよ!」

「はあ?お前にだけは言われたくない!」

「私はケチではありません!節約を極めている最中なだけです!」


 地面にだらしなくのびている長男さんを放置して、兄妹喧嘩に大発展してしまいました。戻るべき我が家に背を向け、やいのやいのとやっていましたら……。


「このぉおぉ!泥棒猫がぁぁ!浮気者ぉぉ!金返せぇぇ!」


 なんと!アパートの方から女が怒声を上げこちらに近づいて来ます!声の感じからすると、地面にのびている長男さんの奥さんのような気がします。


 もう少し、こちらに近づいて来れば中程の常夜灯の下で顔がさらされ、確認が出来ますが……。


「旦那にたかりやがってぇぇ!貢いだ代物を返せぇぇ!アレは、あ、た、し、が、死んだ姑から貰ったんだ!泥棒!泥棒、どろぼうぅぅ!」


 あら。やっぱり長男さんの奥さんです。しかし泥棒猫とは一体。私は夫さんを心の底から愛していますし、たとえ世界が滅びようとも足元に転がる、大家さんの長男さんだけは、ノーサンキューですわ。


「下品な場末の歌手が調子に乗るんじゃないよ!これでも喰らえぇ!」


 中程の灯りの下を駆け抜けた奥さんは、かなり逆上されているのでしょう。どうやらあけみさんと私を取り違えているご様子。どういうわけか手にはバケツを抱えています。


「え、まさかとは思いますが」 

「逃げよう!」


 中身をかけられる事を察した私達は、取り敢えず回れ右をして逃げました。が。当然ながら、私達と奥さんとの間には地面に転がる長男さん。


「うぎゃぁぁ!」

 ガッシャーン  

「ぬ?ぐ……?」

 ガラガラガラガラ


 丸太に躓く様に自分の旦那に足を取られ、バケツもろとも奥さんは覆いかぶさる様に倒れてしましました。


 その衝撃で気がついた長男さん。


「はぁぁ?重いぃ!コロス気か!どけぇぇ!」

「な、なんであんたがこんなところで転んでるんだぃ!」


 どけ!と再び強く言われた奥さんが、よろよろと立ち上がると、長男さんもふらふらと立ち上ります。そして私たちを見るなり。


「はあぁ!?お前、文房具屋の先生の奥さんだよな!なんで、なにをした!びちゃびちゃだぞ!おい!くっせぇ!くっせぇぇぇ」


「あああ?あの女じゃない!なんでそんな格好してんだよ!紛らわしいじゃねえか!どう責任取るんだい!くさいくさい、くさいぃ」


 ああ……、何だかややこしくなりそうなので、私達はとりあえず、臭い臭いと騒ぎつつ、これはなんだぁぁ!と取り乱している長男さんに事実の説明をしました。


「奥さんが私にバケツの中身をぶっかけようとしたので、逃げたのです」

「はぁ?てか……。文房具屋の先生の嫁じゃねえか……てか!お前、何時もはそんな成りしてねえよな?」 


「はい。左様で。夫婦揃ってお間違いになられています」  

「てか!なんでバケツにくっせぇ水……」

「先程、奥さんがつまづき転ばれて、辺りに撒かれましたけど」


「やれやれ、女に貢いで嫁にバレたっけか?ハハハ!上手くやれよ。オッサン」


 兄がせせら笑います。私達の言葉に逆上をした長男さんは、酔っているせいでよろよろしながら、自分の妻に対峙をします。



「クソぉ!おま!一体どういうことでい!説明をしろ!」

「あ!あんたこそ!あたしゃ調べたんだ!あけみって誰なんだ!あたしのモノ!女にみつぎやがってぇぇ!女に渡した帯留めや指輪!質に入れた着物を返しやれ!」 


 目の前でのどうでもいい痴話喧嘩が始まりました。特に浅はかな人間の場合、逆上をすると自ら抱える闇を暴露をしがちと、夫さんが話してた事を思い出しましたから、程よい頃まで立ち会う事に。


「はあ?ありゃ、俺に遺してくれたモノでい!金に困ったら売るようにって、きっと母さんが置いておいたんだ!ソレをお前や、さとこときたら勝手に持ち出すのはどういう了見かぁぁ?家の中スッカラカンだろうが!」


「はぁぁ?そりゃ違う!アレは姑の世話をした嫁のア・タ・シに!遺してくれたモンだよ!ソレをあんたら兄妹は、勝手に持ち出して女に貢ぐやら、質草にするやら、義妹は持って帰るやら……そっちこそどういう了見?」


「はぁぁ?お前に?クククク!そんな訳ねえだろ。お前、さとこや父さんの居ないところで、何にも出来ない大人しい母さんをイビっていただろ!それに、鏡を見たことがあるのか?母さんそっくりな、細っこいさとこはともかく、身幅も着丈もパンパンなお前が、母さんの着物を着るのは無理!そのうち縫い目が裂けてくらぁ!」


「キィィィ!言わせておけば!姑にイビられていたのは、あたしさ!お嬢さん育ちだか知らないけど、お義父さんもまるで腫れ物のように大事にしやがって!わざわざ嫁に来てやったあたしの事は、家政婦位にしか思ってない!」


「黙れ!ごうつくばりのブタ!言わせて貰うけどな!家事をしていたのは、さとこだろ!お前は手が荒れるやら持病が……とかで、食っちゃ寝のくせして少しは動けや!」


「何さ!家政婦ひとり雇えない、甲斐性なしのすねかじり!今度ようやく全部が物になると思ったのに!蓋を開けたらろくすっぽ、残っちゃいねぇじゃんか!」


「はぁぁ?ど、どういう事でい!厄介者もめでたくさとこの家に行くことになったろう!家もここも俺たちのモンになったはずだろうが!」


「家しか残っちゃいないよ!金目の物はあのオヤジがこっそり運び出していやがった!さとこの家かと乗り込んでも、そこには無い!あの女、調べたければどうぞと言いやがってぇぇ。探したけど着物や小物だけしか無かったよ!」


「なら、どこに運び出したんだぁぁ!ココの権利書も無かったのか!」


「無い!なんにも無い!これもそれもあけみとやらにのぼせてお前がしっかりと、親の身勝手を見張っていなかったからだろうがぁぁ!」


「はぁぁ……?で!なんでお前はバケツなんかぶら下げて、ここに来てた?」

「家にいてもイライラするし、あの女をヤッてやろうと思い立ったら来ていただけさ!何さ!流行りの服ばかり着やがって、泥水かけて汚してやろうと来たんだよ!」


 あらやっぱり大家さんは小金持ちみたいですわね。売り言葉に買い言葉の痴話喧嘩程、下らない物はありませんわね。それにしても……。


 卵の謎解きは終了みたいですわね。気になる事を喚いていますが、十中八九。


 嫌がらせに、卵を置いたのは長男さんの奥さんでしょうねぇ。あけみさんは靴を台無しにしたと憤慨していましたし。


 呆気ない幕引きにガックリとし、まだまだ終わりそうもない割れ鍋に綴じ蓋夫婦を見限り、退屈そうにしていた兄と共に部屋へと向かおうとした時。路地に入り近づいて来る足音に気が付き振り返りました。


「あの……。ご近所さんからうちの入居者らしい人達が喧嘩をしていると苦情が来て……。兄さんそれにお義姉さん。こんなところでこんな時間に、何をしているの?」


 そこには大家さんの娘さんであり、長男さんの妹と、初めて会う、護身用なのか、竹刀を片手に呆れた顔をしている旦那さんらしい、ひょろりと背高のっぽの男の人がいたのです。

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