誰が卵を置いたのか。その1
早めの食事を終え、旅ごしらえの夫さんと『花の湯』に向かうのが結婚をしてからの私達の決まり。その夜も何時もの通り、私は湯おけを2つ重ね、中に石鹸やら手ぬぐいを2人分、用意をしたものを手に持ちます。
「僕の分は向こうで借りるよ。手ぬぐいだけでいいのに」
「勿体ないですよ。私が持っていけば良いだけですからね」
「やりくり上手の奥さんを貰って僕は幸せですよ、沙都子さん」
「ありがとうございます」
「大家さんに言われた通り、僕が留守の間に長男さん夫婦さんがなにか言って来ても、知らない顔をしていてくださいね」
「はい。わかりました」
「何かあったら……ここに電話をかけてください。宿の番号です」
四角いメモ用紙を渡されました。大事に押しいただくと。
「用がなくてもかけていてもいいですよ」
「電話代が勿体ないからかけませんよ?」
家を空けるに置いて、連絡事項的な話をしつつ先に土間に下りて今朝方、私がぴかぴかに磨いた靴を履く夫さんの後ろ姿を見ながら、もう寂しさが込み上げてくる私。夫さんに続き下駄を履くと外に出ました。鍵をガチャガチャ回していると、
部屋の中から時計が7回、打つ音。
お隣の3号室の戸がカラリと開きました。
「あら、相変わらずなかよしね。羨ましいわぁ♡」
私達が住むアパートは1号室から、2,3,6,号室迄が横並びに5部屋の長屋タイプ。角部屋の1号室は空きで、夫さんが借りている2号室から先が詰まっています。
「あら。あけみさん、おはよう御座います」
「これからご出勤ですか?」
髪先をうねうねとカール。ビスク・ドールのような白い肌、真っ赤な口紅は艶々。艶々なハイヒールも真っ赤。そして今日は薄紫のアイシャドゥ、黒地に芥子の花が鮮やかに染め抜かれた、ロング丈のワンピース、テイラードジャケットを羽織っています。
夜の歌姫になるべくご出勤のあけみさんです。
もっと清楚な装いをすれば、名家のお嬢さんに見える容姿に、つけつけとした喋りの彼女。身ごなしや言葉遣いの端々に、良いお育ちをしている感じがあります。
そんなあけみさんは、ちょいと高級なバーを数件掛け持ちで主に、ジャズを歌っていると夫さんが教えてくれました。
「そうよ。うふふでも明日はお休みだから、今日は張り切っちゃうわ」
「木曜日にお休みということは、ラジオドラマを聴くためですか?」
「あら、先生、やっぱりご存知なのね。そうそう、そうなの。ああいう運命の人って憧れるわよねえ♡先生の奥さんもそう思わない?ああ、新婚さんに聞くだけ野暮ね」
にやにや笑いながら言われると、思わず真っ赤になってしまいます。返す言葉が出てこなくて、夫さんの背に隠れもじもじしていると。
「そろそろ行くわ。通り迄タクシーがつく頃だから。じゃ、お二人さん、今度、歌を聴きに来てね。あけみさんは聴き終えてからの花束、贈り物は誰でもウェルカムですからね、うふふ」
優雅に戸の前に設えてある、玄関框から地面に降り立ちます。私達も出るので、一緒にと誘ったのですが。
「しばらくの間、離れ離れなのでしょう。しっかりと、お手てつないで。何なら腕に絡んで歩きなさいな。オーホホホ!」
振り返りそう言うと高笑い。そして……
♪お手て〜、〜、つないで♪ふろおやぁにぃ、いけえばぁ♪
ハスキーボイスをお披露目しつつ、先に歩いて行ってしまいました。お手てつないで、風呂屋に行けば……、何ですか、その替え歌は。しかも私達に゙向けてなので、その先の歌詞はどう考えても、大人展開になる予感しかありません。
そして夫さんの横に並ぶと。
「お手てつないで歩きましょう、花の湯迄、歩きましょう!沙都子さん」
至極真剣に、目をキラキラさせた夫さんから申し入れがありました。荷物があるからと断っても、片手が空くと言うでしょうねぇ……。
そして。行きは2人で、帰りは1人。
「お留守番をお願いしますね。沙都子さん」
プラットフォームの別れは、一度味わい二度と要らねぇとお互い思ったので、花の湯の前でやり取りをしています。
大家さんが激安価格で突貫工事をして設置をした、戸上のブリキの傘を被る、五濁の電球は首元のスイッチを捻ら無いと灯りは付きませんが、こまめな大家さんが朝夕に敷地の掃除に来た折、付けて、消してをしてくれています。
夫さんが留守がちな我が家なので、踏み台が無いと届かない為、とても有難いお心遣いなのです。
鍵を取り出しガチャガチャ回して開け、部屋の中に。コチコチと時計の音が出迎えです。濡れた物を干しに茶の間を通り抜け、隣の和室に。
ボーンボーン、ボーン……時計が9時を打ちました。
布団を敷いて、明かりを消して……、もう寝る事にします。結婚をしてから私は寂しがりやになり、夫さんの寝巻きを抱えて布団に潜りました。
闇の中でじっとしていると。
トトトと!トトトトトト。鼠が何処からか入り込んでしまい、屋根裏を走り回る音がします。闇の中で聞くその足音は、酷く不安を誘い気味悪く感じます。
カラリ。離れた部屋の戸が開く音。
「それじゃぁ、大奥様。失礼いたします」
何時もの挨拶の声。6号室の通いのメイドさんですわね。ここに越してきてから、向う三軒両隣りの皆様の事を、大家さんや夫さん、親しくなったあけみさんに゙聞いた私。
月、水、金に近所の子ども達が、お習字を習いにカバンを下げて通ってくる6号室には、お上品な年配の女性が住まわれています。
「牧野様はね。そろそろお迎えが来るから、それまでに一度でいいから、庶民の暮らしを満喫したいと、ここに来ているらしいよ」
夫さんがそう、教えてくれました。ここから車で1時間程離れた大きな御屋敷に、現当主である息子さんとその御家族がいらっしゃるそうです。
コチコチコチコチ。時計が時を刻みます。
うつらうつらとしていると。
ザッザッ、ガチャガチャ……カラリ。
近づく音と鍵を回す音、戸が開く音。
5号室の柳田さんが、お勤め先から戻られた様です。柳田さんは独身の男性で、隣町にある大きな商社にお勤めだとか。毎朝、出会えばきちんと挨拶を返して下さいます。
ふぁぁ。独りだとこのあたりで眠くなってきます。あけみさんが戻るのはもっとずっと夜更けの頃。
1号室は空室、3号室はお留守。
探偵小説ならば何事か起こりそうなものですが、現実は平和そのもの。一度、裏庭で猫の喧嘩が始まった事ぐらいが私が越してきてからの、大きな事件です。
だけどその夜は違いました。すごく中途半端な時間に、シタシタシタと、忍ぶような足音が聴こえた気がしたのです。
ボーンボーン、ボーンボーン……途中から数えたので、はっきりと分かりませんが、感覚からすると12時でしょうか。勿論、私はひと息に目が覚めたのは当たり前。夫さんに、
「好奇心は猫を殺すとも言う。夜に外で物音がしても出ては行けないよ。このアパートは袋小路のどん詰まりに有るから、住民以外は敷地に入ってこないからね」
と言い含められていますが、気がついてしまったからには!
もう遅い。
私は好奇心という好物を、目の前にぶら下げられた猫になりました。布団の中で頭に、情報収集のための猫耳がピッと生え立った如く、私の両耳は外の気配が気になってたまりません。
布団を出ようかとも考えたのですが、動けばその物音で聴こえなるくらいの微かな気配。なのでそのまま、息を殺してじっとしていると……。
シタシタシタ……やっぱり足音です。まさかの泥棒さんの下見とか?それとも。ん……、大家さんが見回りに来たとか?あれこれ考えていると。
カチャカチャ……
え?鍵を開ける音。
トトトと!トトトトトト。鼠が屋根裏を走り回る音。
空室の筈のお隣に、奇妙な気配を感じたのです。ここは茶の間に移動をすべきなのでしょうか。残念無念な事に今寝ている部屋の、1号室と接する壁は押入れの中なんですもの。
数秒、考えると素直に己の欲望に従いました。
抜き足差し足……猫の様に足音を立てずに移動をします。閉めていた最大難関の襖戸を、そろそろと開けて……気分は泥棒です。そして壁に耳を当ててみました。
コトン。ミシミシ……
ひぃ!誰かいる。
明らかに人の気配をうっすらと耳にしました。
すわ!事件でしてよ。泥棒!泥棒……
「空室に泥棒なんて入ってもねぇ……」
カラリ。カチャカチャ。シタシタシタ……
鍵の音と立ち去る足音。私は畳にぺたんと座っていますが、胸はトキドキ、目はランラン。ここは外を確認をせねば。いざ行かん!とは思ったのですが……。
夫さんが居るならともかく、居ないときに不用心な行動は駄目なような気がして……、大声を上げたら柳田さんが出て来て下さるとは思いますが、明日もお仕事の他人様に、私の身勝手でご迷惑をおかけするのは、どうかと……。なのでその日はそのままに゙して明日の朝、確認しようと時間の確認をしました。
コッチコッチコッチコッチ
午前1時前ですわね。諦めのため息と共に猫耳もしゅんと音立て消えました。もそもそと布団に戻ります。そして眠ろうとすると、私はあることに気が付きました。
「あけみさんが戻ってこられるじゃない!」
そうです。日付が変わってから数時間後、時間はまちまちなのですが、お隣さんが帰ってきます。お店が終わった後で、友人やお誘いをしていたお客様と、食事に行ったりお酒を飲みに行ったりして戻ると聞いています。
なので、何時になるかは分かりませんが。 もしかすると朝帰りかも知れませんが……。とにかく戻られたら、何か気がついたことが、あったかと聞きたい。
コッチコッチコッチコッチ
聞きたいけど眠い……起きていてあけみさんの帰りを出迎え無いと……。と頑張っていたのですが。
コッチコッチコッチコッチ
いつの間にやら寝入っていました。
トトトと!トトトトトト。鼠が走る音。うつらうつら夢現の中で、ザッザッと近づき、ザッザッザッザッと離れる足音も聴こえた気がしたのですが……。
コッチコッチコッチコッチ、ボーンボーンボーン……
「もう!いやあん!」
「ふええ?なに、あ。あけみひゃん?」
3時を打った時、耳に届いたのはあけみさんの驚く声。
慌てて布団から出ると何も羽織らず、寝間着のままで外に出ました。もう、何があったのか知りたくて、わくわくしています。
「どうしたのですか!」
「何かあったのですか!」
ガラリ!戸が開け放たれたのは5号室。柳田さんも寝間着のままで飛び出して来ました。
「んもう!ここ見てよ!最低!」
あけみさんは自室の前の玄関框の上で片足で立っています。手にはハイヒールを片方、ぶら下げて。私は怪訝に思いつつも言わわれるがままに、私はその場から指し示された場に目を凝らすと。
灯りはろくすっぽ届かず。かなり暗いのでよくはわかりませんが、土がドロリとしているような。白い何かが、散らばっている様に見えます。
「何かこぼしたんですか?」
「違う!卵よ!な、ま、た、ま、ご!ふんじゃったの」
「卵を落として踏んだ?なんてもったいない!」
私は思わず大声を出してしまい、柳田さんは部屋へと引っ込むと懐中電灯を手にて出てこられました。
商店街の鳥屋さんで、ひとつから買える卵、我が家では月にここぞ!の日にしか買えない高級品。あとは実家から沢山ある折にひとつふたつ、お裾分けに預かる代物なのだから大きな声は当然な反応なのです。
「……くっ。アハハ!も、もったいない!卵ひとつが、もったいない!アハハ。卵なんか持って帰って来ないわよ。即座にもったいないが出るんだから、あなたじゃないわね」
「どういう事なのです?」
ひーひー笑われてしまった私は、なんか憮然としながらあけみさんに問いかけました。地面を照らして確認をしている柳田さんが、卵ですよと言っています。
「ここに置いてあったのよ!おかげでグシャっと、ふんだの!気持ち悪くない?この靴お気に入りだったのに」
「はあ?置いてあったって生卵がここに?」
「そうよ。もう。誰のいたずらなのよ!」
「私が夫さんと共に出かける時には、そんなもの置いてなかったと思いますけれど。あったら夫さんが興味津々になるでしょうし……。あけみさん、豆腐屋さんのとき、確かご一緒しましたよね」
「ああ、そういやお豆腐を買いに行ったわね」
「私は油揚げを買って……、それが午後4時」
「ん。部屋にお豆腐を置いてから、しばらくしてから、お総裁を買いに、そこのよろず屋に出たわ。」
「ええ。なんて贅沢な。自分で作ったほうがお安いですよ?でもその時は何も無かったですよね」
私は話をしながら記憶を逆算し始めます。アパートに訪れる豆腐屋さんは2件、大きな油揚げを扱っている豆腐屋さんは午後4時に来て、私の大好きな銀杏入りのがんもどきを扱っている豆腐屋さんは、昼過ぎに来ます。
「それから夕食を作り始めて……、途中、ネギを取りに出たら大家さんの息子さんの奥さんに出会って……食べ始めたのが午後5時過ぎ。色々あってお味噌汁を温めている時に6時の時計の音を夫さんと台所で聞いたから……」
「ああ、長男嫁、色々な面でほんと嫌いだわぁ。年甲斐もなく若作りしちゃってさ!で……、ふうん……、時間かけてご飯を食べるのねぇ……。ほぉん♡味噌汁冷める位、時間がかかるの……味噌汁を温めに行くにも、先生ついてくるんだ、へぇぇ♡台所で6時の音を聞いたのぉ♡ふぅぅん♡」
「喋っていたら長くなっただけです!」
「まあ。そういうことにしておきましょうね」
ニヤニヤしながら聞いてきます。ヤダわぁ……、押入れの壁に耳をつけて聞かれてるかもしれない気も……。でも幸い?にしてか、夜はあけみさんは部屋には居ないから良かったけれど。
「コホン。間に合いましたもの。それで出たのが7時、その時は何もありませんでしたが……、お風呂屋さんで長湯をして……、戻ってきたときも何もありませんでしたよ?」
「そうだね。僕もいつもの時間に戻ってきたけれど、あったら気づく気がするけれど。無かったような……」
柳田さんも見ていないと話します。
誰が卵を置いたのか。私は今、好奇心がむくむく頭をもたげてきているのです。
「誰が置いたのかしら、柳田さんは物音、聞きませんでした?私はうっすらと聞いたような……」
「誰!じゃぁそいつが犯人よ!」
私の言葉にあけみさんが食いついてきました。
「顔は見たの?」
「いいえ。布団の中で物音がしたかな?程度ですよ」
あけみさんに応じつつ、どれもこれも確認をしていない事に大後悔。
「んもう!駄目じゃない。ちゃんと確認をしないと」
「いや、夜中に危ない事は首を突っ込んではだめだよ。先生も居ないし、僕だけだと対応がちょっとね、で。僕は寝込んでいたから、悪いけど知らないなぁ……」
「あら、そうなの」
話がそこで止まりました。どうしようかと3人で立ち尽くしていると。
「ふぁぁ。じゃぁ。終わりにしましょ。眠いし」
あけみさんの大きなあくびで、この時は終了となりました。そうだね。明日も仕事だし……と柳田さんも、私達に戸締まりをするように話すとそれぞれに部屋へと入って行きました。
私は。1号室を見やります。角部屋のそこは常夜灯の明かりが無い為、闇に程よく溶けて真っ暗闇。
とてもながら離れて見る分には、中に人がいる気配は全くありません。近づけば何か判るかも知れませんが……。
「誰か来たのよね……それはともかく確かだわ」
ほんのちょっと、確認するだけよ……。好奇心が止められない私が、玄関框から降り、そちらに向かおうとしたとき。
「ひゃっ!」
黒い影がシュッ!と、建物脇から飛び出してきてびっくりです。
んなぁぁお……
「あ、あー。驚いた。猫だったの。大人しく帰ろう」
出鼻をくじかれた私はくるりと踵を返すと、2号室へと戻りました。




