探偵業をこなす夫の妻は、好奇心が好物の猫でございます。
8話で完結しています
ある日の黄昏時。私は裏手のよもぎを摘みに出た折、八重桜を眺めに来た大家さんの娘さんに出会ました。井戸があり洗い場が設えてあるアパートの裏手、八重桜が満開を迎えた日の事。
「こんばんは。先生の奥さん」
私にはホームズ好きの父親から名付けてもらった、沙都子という名前があります。私はどちらかといえば、明智小五郎の方が好みなのですが。それかモリアティ教授ですわね。父娘して探偵物が好きな私が、夫さんの元へと鍋下げて越しできた先では。
先生の奥さん
と字名がつきました。うふ♡慣れなくて照れくさい。でも甘く良い心持ちで娘さんと話を交わしました。髪を軽く結い上げ、耳に小粒のパールのイヤリングをあしらった彼女の出で立ちは、高価な一斤染めのお振り袖。どちらも娘さんの母親の遺品だと、前に聞いたことがありました。
白く散らした桜の花弁の文様と、帯締めの飾りの白のビーズ。耳元のひと粒のパールが揃い、センスよくまとまっていました。
「こんばんは」
「よもぎ摘みですか?」
「はい。お団子が食べたくって」
「私も今日作って実家に届けたんです。季節物は母が好きだったから」
「ああ、一周忌の法要をされたのですね」
「はい……。でももう、お供えには行きません」
「どうしてですか?お母さまが寂しがられると思いますが」
「ご存知の通り、私は兄嫁と仲が悪くて。父もようやく踏ん切りがついたようですから」
手のひらを赤くし、ポリポリ掻く娘さんはとても悲しそうに話すので、私はどうしてと聞きたかったのですが、彼女の視線、眼の光、声のトーンから張り詰める空気が産まれ他者の介入を拒んで来た様な気がして……
「これからは……、父と一緒にお墓へ持っていこうと思います」
言葉をかけづらくなっていた私に、一方的にそう言うと、頭を下げ去って行きました。
さわさわと翡翠色と桃色の八重の桜が嗤う様に揺れた。暮れ行く空に小鳥が黒く影色に染まり、チチチと鳴いていた、あの黄昏時。
夕飯の支度。私は少しばかりむしゃくしゃ。つい先程表に根っこを埋め込んでいた鉢植えから、伸びたネギを数本、取りに出た時にいけ好かない女に出会ってしまったからです。
「ふぅん。貧乏くさいわね。家賃の滞納は許さない!即刻、出てってもらいますからね!ようやく夫婦2人で暮らせることになったし、長男だもの。当然よね!」
私より随分年上だと聞いている大家さんの宅の、息子さんのお嫁さんは、時折用もないのにアパートの周辺を彷徨いています。出会うとすぐこの常套句をまくし立ててきます。残念ながらアパートの住民の中で、彼女に遭遇する確率が一番高いのは、私。
「はいはい。わかりました。ということは大家さんは娘さんの元へ引っ越されるのですか?」
「そうよ。やっと出ていってくれるの。本当でしょうねぇ……。お宅の先生。どう見てもお金の匂いが無い!ああ!もう。ここ虫が凄いから嫌い!」
羽虫が彼女の周りをくるくる。それを手で必死に払う奥さんを、いい気味だと思うのは秘密です。
「大丈夫です。私も働いてますし。裏手が草むらですから、虫は多いですね」
「んもう!虫嫌い!ああら。そうだったわね。結婚をしてからも外に出て働くなんて、薄給なのねぇ、有名な先生と聞いているのに、オーホホホ」
私を見下し高笑いはいつもの事。そして私は何時も彼女のでっぷりとした肉が纏う装いに、盛大な疑問符が点灯してしまいます。
今日の御召しものも、義妹にあたる娘さんのものでは?珊瑚色に染めた生地に枝垂れの八重桜の図案。とてもお似合いでしたので、褒めた記憶が残っています。ええ。きっとそうです。なぜなら身幅が細身に仕立てられているのでしょう。女の成りは……、
襟の合わせもきちきち。着丈袖丈も帯垂れも短くて、全体にぱっつんぱっつんに見えますもの。確かあの時娘さんは……
「母の形見です。八重桜の季節はまだ少し先ですが、やっと着こなせる年齢になって、嬉しくって着てしまいました」
と話していたもの。どういう事やらとつい、じっと奥さんを見てしまって。
すると彼女は意味有りげに、上から下までちろちろと成りを値踏みをするように、いやらしい視線をぶつけて来ました。こちらの気分は最低最悪。二度と来るなと塩を撒いてやりたい。
とんとんとん。1玉のキャベツ。心を鎮め緑濃い外葉をめくって刻む。
部屋の前に自転車のキキキ、ギ。ブレーキ音と、『と~ふ~♪』
豆腐屋が来たのでぺちゃんこのがま口を開けて確認をしたあと、今日は大きな油揚げを1枚。
とんとんとん。大きな油揚げを4分の1、使う事に。片手鍋に油を少し、外葉を炒めて水を注ぐ。本当なら実家ぐらしの時のように、前もって取っておいた出汁を入れて、きちんと作りたいのだけど、いりこも大切なタンパク源なので取り出したりはしません。
缶の中から、頭と腸を取ったいりこを数匹取り出すと、鍋の中に油揚げと共に入れて軽く煮立たせた。頃合いを見計らい、味噌で味付け。火を止め再生ネギを刻んで彩り。
次に嫁入りに持ってきたぬか床を出すと、割烹着の袖をたくし上げ中身を探ります。
ぬちゃぬちゃぬちゃぬちゃぬちゃぬちゃ……、いりこの頭と腸はここで大活躍中。いいお出汁がでている様子。床にしゃがんで仕込んでおいた瓶の中、キャベツの芯を探っていると……。
「さとこぉぉおさぁぁぁん!沙都子、沙都子、沙都子さんんんん~!」
感極まった声に私は慌てて振り返ります。そこには真新しい藍鼠色の生地で仕立てた、真新しい背広を着込んだ夫さんの姿。
うるうる瞳は実家で飼っていた犬のポチみたい。わふわふ感も出してるし、今にも抱きつこうとしている気配が満載。
「ああ、駄目よ。今ぬか床を探っているから近づかないで!汚れちゃうでしょう」
「でも!でも!どうしたの?こんなの!僕のために?!僕の為に用意をしてくれたの?」
「そうよ。だって身なりは気をつければならないでしょう?それにあなたの仕事は、本業も副業も足元を見られるから。それよりトランクの用意は大丈夫なの?忘れ物は無い?原稿と違うの。届けになんかいけなくてよ」
「あ!うん。そういや着替えのシャツも靴下も新しいよ。もう嬉しくって、君に早く見せたくて……ありがとうね。うん!確認してくるよ」
素直に戻る茶の間の奥へ。木造建築、2kの間取りの風呂無しアパートは古びてはいるけれど、柱は太く立派。井戸端の野草が摘める裏手には夫さんが惚れ込んだという、翡翠色と薄紅色の八重桜の古木があります。
花の時期はとても艶やかで妖艶。染井吉野とは違う趣きがあって素敵。アパートの敷地の裏手なため、見事なそれは知る人ぞ知る穴場的な存在。
夫婦の寝室に姿を消した夫さん。私は夕飯の支度を急ぐ。夫さんが使う夜行列車に間に合うように、彼を荷物と共に送り出さないといけないから。
キャベツの外葉の炒め汁、油揚げの隙間にいりこが泳いでいる。キャベツの芯のぬか漬けには炒り胡麻をあしらってみました。あとは白いご飯。なんともまぁ、質素な献立。我ながら驚いてしまうが夫さんは……。
「美味しそうだね。ご馳走だ!何時もありがとう沙都子さん。いただきます」
ニコニコと機嫌よく。いや……、何時も機嫌よく、食事を前にすると更に機嫌が良い夫さんの表情。尻尾が彼の尾てい骨から生えてりゃ、ブンブン振り回しているに違いない。
「はい。召し上がれ、いただきます」
差し向かい、手を合わせて軽く頭を下げると箸を取ります。
「旨いよぉぉ!沙都子さんは、料理が本当に上手です」
「大げさですよ。お味噌汁とお漬物だけじゃないですか」
「本当ですよ。美味しいから美味しいと言うのです」
ニコニコニコニコニコニコ♡
夫さんの笑顔の大判振る舞いを目の前にすると、もっとお肉や魚を使いかわゆい夫さんの為に、腕によりをかけてご馳走を作りたいと欲が出てくるからいけない。私は慌てて気を引き締めます。
財布の紐もきりりと締めます。
そうなると、つい……。
「キャベツの外葉にキャベツの芯、こんなのお献立てと言えるのかしらん」
ツンケンと始まってしまう。漬物の小皿に箸を伸ばす私。
「沙都子さんが作れば何でもご馳走ですよ」
ぐぁぁぁ!味噌汁を啜るポチにほだされるぅぅ!気を確かに持つのよ。電気代にガス代、水道料に汲み取り代に、夫さんがお仕事に使う電話代。立地にしてみたらお安いはずのお家賃さえも滞る!と、叱咤をかけた私の口から出るのは辛辣な言葉。
「あ!あなたがきちんと副業の方からもせめて必要経費程度のお足を頂いて、活計を持って帰って来てくださったらお野菜も、もっと買って、バターも買って、お肉やお魚や卵も買って……!、ご馳走が作れるんです!それに冷蔵庫がほしい。でも置いたら狭くなるからどうしようかと悩んでいるんです!」
シャクシャクとキャベツの芯を咀嚼をしたあと、そう言うと。ポチは、しゅん……。
「くぅ……。ん。すみません。僕は物書きが本職だから、ついそっちの方から謝礼を頂くのは気が引けて……、沙都子さんには家事もこなしながら留守がちな僕の代わりに家を護ってくれて、昼間は働きにも出てくれて。結婚前に新居もきちんとしていなかった僕が悪くて。でも時代があるここが不便だけど、気に入っているんです。ごめんなさいです。はい」
箸を持つ手を止めて項垂れるポチ!
あぁぁぁぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙!こんな事を言いたくないのに言ってしまう自分が憎いわ!何を隠そう、私も裏手の八重桜に惚れてしまったの。風呂無しで何かと不便だけどこの趣き満載な木造アパートを、とても気に入ってしまったの。冷蔵庫だってなんとか工夫をしたら置けそうだし……、
私は慌ててかわゆい夫さんに取り繕う。
「い!いいの。あなたの探偵業はいわば『慈善事業』ですものね。本業は小説家。だけどどうしてか、災厄のような事件に見舞われた憐れな人々と巡り合ってしまうのですわよね。そして事件をスッキリ解決、新たなる未来へとご遺族様を導くお役目が周り回ってくるだけですものね。分かっています。いいのです。家を護るとか、2部屋風呂無し、手狭アパートに守るものなんてどこのお宅も無いですし、働く先も実家ですから、お給与と共にあれこれと支援物資を補給できますし。キャベツや大根白菜の芯まで食べきるお献立を考えるのは、それはもう楽しくってよ!あなた!」
精一杯、落ち込んだ夫さんの気をもり立てようとしたはずが……。うるうる瞳が更にうるうる……。
「補給、支援物資、芯まで食べきる……。ごめんなさい。薄給な僕のためにそんな苦労を。ふがいなくてすみません。スンスン……」
ひぃぃぃぃぃ!出立の夜に私ったらなんてことをしでかすの!泣かしたら駄目じゃない!本当は嫁入り道具が、夫さんが住まうアパートに収まらないので。と……、金銭で持たせてくれた、とらの子貯金があるのだけど。
できればね。それは置いておきたいの。この先何があるか分からないし、夫さんが引っ越しをしたいと言い出したらそちらに回せるもの。できたら小さくてもいいから、書斎がある物件がいいなぁ。夫さんの為に欲しいの。
なので私が勝手に、目指せ貯蓄!を掲げた私の節約生活が、少々行き過ぎている為に引き起こした貧乏生活なので、夫さんの責任なんて無いのに……。
それに、夫さんが取材先で何故か事件に巻き込まれるのも、そしてそれを探偵小説好きな私の父親が惚れ込んだ、賢い頭で謎解きをしちゃうのも最早、神様の敷かれたレールの上を走るかのように決まってて、仕方がないことなのに!
「お!お味噌汁が冷めましたわ!温めてきますわね。沢山お召しあがりになって下さいませ。あ!焼きおにぎりも用意をいたしましたわ、列車で食して下さいましね」
私はスンスン鼻を鳴らす夫さんにいたたまれず、鍋を手に歩いて数歩の台所へと向かいます。マッチを擦りガスに点火。そのまま火に向かっていると……。
あら。ポチが立ち上がるとこそこそと、後ろから近づいてきましたわ。
「沙都子さん」
あら。そろそろと抱きすくめるだなんて。
「早く取材を終わらせて帰ってきますね」
頭ひとつ分高い夫さんの甘い言葉が、ぽっぽと熱を含み始めた私の耳に入り込んで来ます。
「はい。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
くつくつ……。鍋の中から音が産まれ始めています。火を止める私でしたが、身体の中でぽっぽと産まれたそれは、消えてくれるかしらん。夫さんも多分そうだけど……。
「うんと、早く、早く帰って来てくださいね」
「うんと、早く戻ってくるから、待ってて下さい」
ボーンボーン、ボーンボーンと時計の音が6時を打ちます。時間が無いのでほんの少し、御互いの装いが乱れぬ程度に、新婚夫婦らしい事をちょっぴり味わいましたわ。