第四十八話 忘却
それは突然の出来事だった。
ミーシャはアルテミスを攻撃しようと魔力を手に貯めて、その機を窺っていた。アルテミスはそれを警戒し、パルスは興味津々でその光景を見ていた。ラルフの上げた缶詰を映画のお供のポップコーン代わりに啄ばむパルスの姿は見た目通りの子供だった。ラルフもパルスに負けず劣らず、野球観戦に来たしがないオヤジのようにミーシャとアルテミスの行く末を見ていた。
すると空から彗星の如く物体がミーシャに向けて去来する。ミーシャも頭を掴まれるその瞬間まで何がやって来たのか分からなかった。
「……蒼玉!?お前……っ!?」
ミーシャはその手を振り払うために攻撃を仕掛けようとする。一番簡単なのは魔力砲をぶっ放すことだ。だが、面倒なことにその射線にラルフが座っていた。ならば振り向きざまに手刀で蒼玉を真っ二つにすれば良いではないかと思い至る。その判断の瞬きの間、それがミーシャ最大の隙となった。
「萬道順・逆向」
蒼玉はその言葉と共に自身の特異能力を発動させた。蒼玉のミーシャを掴んだ手が光り輝く。目が眩むほどの眩しさは瞼を貫通するほどだった。ラルフたちは急いで腕などの遮られるもので光から目を守る。
「ああああぁあっぁぁぁぁああっ……!!?」
そんな中に聞こえるミーシャの苦しむ声はラルフの心を焦らせた。
「ミ、ミーシャァッ!!」
声を張り上げたところでミーシャの叫び声にかき消される。ラルフは見えないながらも立ち上がってミーシャのいる方に行こうとする。しかし進もうとすると、グッと何かにジャケットが挟まったような抵抗を感じる。パルスに摘み止められたのだ。
「なっ……!?は、離せっ!!」
今起こっていることを止めないと絶対に悪いことになる。最悪ミーシャが死ぬことを思って動き出したというのに、パルスは阿鼻の陰で首を振って拒否する。
梃子でも動かない意志を感じたラルフは、腰に下げたダガーナイフを抜いてジャケットを切り裂く。摘まれた布はパルスの指に残ってラルフは自由を得た。しかしそんなイザコザをしている内に、あれだけ眩しかった光は徐々に弱まり、光によって見えなくなっていた二人の姿が見えるほどになっていた。
「ミーシャ!!」
その瞬間にも声を荒げて名前を呼ぶ。放心状態となったミーシャにはその声は届いていないようだ。ミーシャの頭を掴んでいた蒼玉はカクンと体の力が抜けるように地面に膝を落とした。大広間では全てを見下し、床に手すらついたことのないような特権階級を思わせる雅な顔をしていたのに、今の蒼玉は全てがみすぼらしく見える。
服や、身につけている装備は豪華だというのに、何というか醸し出す雰囲気が元の蒼玉とは違う。よく見ると、美しかった顔はしわくちゃになり、肌の張りを忘れたかのように皮が垂れ下がる。心なしか真っ白に近い肌は灰色がかったように、少々黒ずんで見えた。
体全身で息をして、生きているだけでもやっとという雰囲気は、死を目前に控えた老犬のように弱々しい。
「な……何だ?何が……起こっている?」
固唾を飲んで見守る。すぐ側に寄って行って様子が知りたいが、理解不能な状況とパルスのさっきの行動が相まって動けずにいた。
「はぁ……はぁ……ぐっ、うぅぅ……」
蒼玉は必死に魔力を全身に駆け巡らせる。ビキビキと音を立てて肌の張りが戻っていく。だが、その効果も途中で切れたのか、それともそれ以上はどうしようもなかったのか完全回復には至らず、途中までの回復で止まった。何というか、拒食症の女性のように痩せ衰えた姿で何とか立ち上がった。
そんな蒼玉は肩越しにラルフを見る。着物がブカブカで大事なところも見えそうなほどの貧相な体。そんな弱々しい蒼玉は確かに笑ってこちらを見ていた。そしてその目はミーシャに向かう。
「……ミーシャ、起きなさいミーシャ」
早朝、子供を起こしてあげる母のように優しく語りかける。しばらく白目を向いていたミーシャは、ハッとして気絶から復活する。
生きている。
その様子にラルフは一瞬安堵したが、すぐに緊張感が走った。ミーシャの様子がおかしい。
キョロキョロと辺りを見渡し、怪訝な顔をしている。その表情を読み解くなら「何処だここは?」だ。
「ん?え?蒼……玉?どうしたんだお前?」
さっきまでの敵意殺意がない。これはパルス以上に異常なことだ。ミーシャの性格を知り尽くしていると豪語出来るラルフにはこのようなミーシャはあり得ない。何らかの攻撃を仕掛けられたのだから、反撃するのが当然の行動。しかも攻撃は攻撃でも、痛みを伴うものだっただろう叫び声まで上げたのだ。ぶん殴って蒼玉を消滅させるくらいには苛立っても良いはず。
「あぁっ良かった……ようやく戻られたのですねミーシャ様。あなたのお目覚めをお待ちしておりました」
蒼玉は目に一杯の涙を浮かべながら縋るようにミーシャに与する。ミーシャは訳が分からずに疑問符をひたすら浮かべていた。
「……もしかしてここまでの記憶が混濁されているのでしょうか?あなた様が最後に覚えていることは何でしょうか?」
「え?……その、えっと……あれだ。古代種を倒しに行くように黒雲の奴が……」
ラルフの肝が冷える。
(これはまさか……記憶喪失?)
蒼玉の特異能力。それは時を戻す力。直近の時間を戻す程度であるなら何のリスクも抱えないこの能力は、言わば神の如き力であると言って良い。ただし効果範囲が狭すぎて実践にあまり向かず、味方の不運な欠損部分を再生させるのに重用していた。
大規模な時間の逆流は自身の寿命を削る。魔力を消費しない特異能力に基本的に代償はない。しかし時間の逆向という逸脱した能力は自身を破滅の方向へと進ませるのだ。
「ああ、可哀想に……あれから半年以上の時間が流れているというのに、それを全て忘れているのですね?」
「は、半年?」
驚き戸惑うミーシャ。色々聞きたいことがあったのに、この一言で頭が真っ白になるほどの衝撃を受ける。
何だか頭が重い。クラっと立ち眩みの症状を見せて踏み留まる。蒼玉は心配そうにオロオロとミーシャに手を差し伸べている。
(いや、お前のせいだろうが!!)
ラルフは心の中で苛立ちを募らせる。わざとらしい言動に蒼玉の姑息さを感じた。
自分が仲間であると誘導し、認識させようとしている今の状況は非常に不愉快だ。
「ミーシャ!!そいつの言葉を信じるな!!」
大声で蒼玉の計画を潰そうと試みる。ミーシャはラルフを見て眉を吊り上げた。
「人……間。何だあいつ……私の名前を気安く……」
その瞬間にクラっと又しても眩暈を感じて一歩下がる。頭を振りながらよくよくラルフを見た。
「何だ……?私はあの男を知っている?いや、そんな訳ない……」
一瞬蒼玉の肝も冷えたが、ミーシャの思い直しにホッと安堵のため息をつく。
「ミーシャ様、よくお聞きください。ここはペルタルク丘陵。あなた様が好きだった青の大地です」
頭を抱えていたミーシャの顔がバッと上がる。目を丸くしてその光景を今一度見直す。
「何があったんだ!!」
焦り気味にミーシャは蒼玉に詰め寄る。蒼玉は「良いですか?」と肩を掴んで耳打ちする。
「……逃げた方が良いよ」
パルスはポツリと呟いた。その言葉にラルフは背筋の寒気を拭い切れずに後ずさりする。
ミーシャに発した「信じるな」の一言。現在の蒼玉への対応を見るに、全く効果がなかったと考えざるを得ない。
(ヤバい……)
ミーシャは素直で良い子だ。出会った当初からそれは分かっていた。自分が裏切られたことに深く傷つき、憎しみと恨みこそあったが、それ以上に悲しんでいた。その大きな心の穴を埋めたのは全くの偶然だった。ラルフの言動がクリティカルに作用し、ミーシャの新たな一歩を後押し出来たのだ。
それら旅の記憶を全て忘れ、イミーナに裏切られる前に記憶が遡ってしまったとしたら、それは人族の敵に逆戻りということ。つまりこの瞬間、ラルフはミーシャにとって邪魔な虫となった。
藤堂の炭鉱内で行っていた虫の駆除。その虫一匹程度の存在と成り下がった。
「……あの男が……私を?」
コクリと蒼玉は頷いた。何を吹き込んだか、この距離では聞き取ることなど不可能だが、何となく雰囲気で気づく。
(洗脳路線か……無理があるけど、ミーシャなら信じそう……)
「そうか……私に何をしたか定かではないが、それなら話は早い」
ミーシャはフワッと浮き上がる。
「あの男を殺せば万事解決だろう?」
出た。ミーシャの十八番「とりあえず殺す」。
「辞めろミーシャ!!話し合いで解決出来ることもあるだろう!?」
「無い。私を操ったんだ。話し合いの中にお前の能力を忍ばせないとは到底思えん。ということでもう喋るな」
ペキッペキッ
ミーシャは指を鳴らしてラルフに牽制する。
「俺はラルフ!!」
「ん?」
突然の自己紹介に首を傾げた。
「ラルフだ。覚えておいてくれ」
「ラルフ……そうか、確かに私を操ったほどの男を覚えるのは大事だろうな。後世に名を残してやる気もないが、私は覚えていてやろう」
ニッとラルフに笑いかけた。




