第十五話 迷惑極まる
自室に戻ってすぐに洗面所に向かう。歩いている最中にはらりはらりと面積の狭い布が一枚、また一枚と落ちて彼女の足跡となる。スレンダーな肢体を露わにしながら、シャワー室に入って海水でベトベトになった体を洗い流す。
その目は虚空を見つめ、体に伝う冷たい水の感覚に酔いしれる。蛇口を閉めると流水は止まり、シャワーヘッドに溜まった水が名残惜しそうに一滴ずつ滴を垂らした。
「見えない……」
ポツリと呟く。あの姿形、あの言動、その全てがまるで子供。最強にして無敵とまで言われた魔王の姿では無い。あれは本当に戦うべき相手なのか?あれよりも周りに居た魔族達の方がよっぽど危険だとも思えた。
バスタオルで体を拭きながらナタリアはベッドルームに歩く。そこでコンッコンッと扉がノックされる。彼女は特に急ぐこともなくガウンを羽織るとのんびり扉を開いた。扉の前には誰も居なかった。しかしノックの主が中々出てこない彼女に痺れを切らして帰ったわけでは無い。
「それで、どうだったのだ?ナターシャ」
その声にため息を吐きながら肩を落とした。扉を開けたまま踵を返す。扉のすぐ横で壁にもたれていたアロンツォは招かれたわけでもないのに部屋に入ってくる。
「はぁ……ロン、今から着替えるんだけど?」
「見てきたのであろう?あの怪物を……そなたにはどう映った?」
扉を閉め、扉にもたれかかりながら話を続ける。こちらの話は無視して出ていかないことを悟ると、窓際に立って返答した。
「分からない。敵意のまるでない相手を前に、その真意は推し量れないわ。わたくし達が葬ってきた魔族共と比べても、首を傾げたくなるくらいにね。やはり何らかのアプローチをしなければ探りきれない……」
「はははっ!その通りよ!余とてあの無邪気さには騙される。……だが絶対にあれには触れるな」
アロンツォの高笑いからの落ち着いた声には、然しものナタリアも困惑する。テンションに高低差があり過ぎて風邪を引きそうだ。ナタリアは思わずアロンツォの目を見る。
「余はカサブリアで鏖の片鱗を見た。余の槍術を軽々と往なした銀爪を、たったのひと睨みで屈服させた魔王の中の魔王。魔獣人共の最期の抵抗であるアンデッド軍団の長を消滅させた時は心が痺れたものだ。あれほどの力、誰でも一度は振るってみたいと思うはず。それゆえに誰も勝てぬ」
アロンツォの見立てでは、その絶対なる力の前に全てが無意味と警鐘を鳴らすほど危険な相手の様だ。目を数回パチクリさせた後、ナタリアはくすりと笑った。
「ふっ、どれほど強き者にもその余裕を崩さなかったわたくしの兄上が、よもや子供と見まごう魔族の女を前にこれほどの警戒心を持っているとは……過去あれだけの魔族を土に返して来たというのに、あんな小娘が怖いの?」
「恐怖。それもある。本当の力を前にすれば、そなたも気が変わる。事実というのは往々にして思いも寄らぬ驚きを、この眼前に見せつけてくるものよな……」
思い出す様に、噛みしめる様にしみじみと語った。ナルシストで他者を見下す兄が、ある種心酔の眼差しで虚空を見つめている。ナタリアは鼻で笑ってクローゼットの扉を開けた。
「そんなことより例の件は進んでいるの?早い所終わらせて、とっととあの薄汚い魔族共を国外へ出さなければ土地が汚れるんだけど」
「案ずるな、殿下と話し合ってその辺りの調整は抜かりなく済んでおる。後は愚かな魔族共が釣り針に引っかかるのみよ」
「この地が魅力的なのは重々承知しているけど、毎回毎回よく飽きないと思うよ。あの蔓草」
クローゼットから服を何着か引っ張り出す。ベッドに放り投げながら着る服に悩んでいる様だ。
「ここが孤島である以上、奴は苦手な海水の上で戦わねばならない。今まではそれでどうとでもなったが、今回は今まで通りとはいかないと確信している。それはあの者達が居る居ないに関わらず、かの魔王が本気でやって来る事が分かっているからだ」
「あの書状の話?ただの脅しでは無いの?」
「甘いな。あれは奴が気まぐれに決めたわけでは無い。黒の円卓で魔族と人の境界を失くそうとしているのだと推測している。鏖を殺す為にどれだけ必死なのかは知らんがいい迷惑だ」
眉を欹てて怒りの感情を振りまく。その様子に、ナタリアは腕を組みながら冷ややかな目でアロンツォを見た。
「その意見には大いに賛成するわ。ここに来るならば、必ず痛い目を見せる。隙があれば確実に殺すことを約束する。だけど、ちょっと良い?ロン」
「ん?何か?」
「いつまでそこに居るつもり?わたくしをこんな姿で過ごさせて……先ずは自分を省みたらどう?いい迷惑よ」
ナタリアはガウン姿の自分を差して主張する。アロンツォは「……うむ、確かに」と言って部屋を出て行った。
*
魔鳥が上空を飛び回る。その足には書状が括り付けられ、操られているかの様にピタッと目的地に着いた。書状を受け取ったのは、黒の円卓にて第九魔王の称号を得た植物の化け物、その名は撫子。
人族と魔族には通信機の類は無い。その為、こうして古い手法が使われるのだが、魔鳥が魔族に手塩に掛けて育てられた為か、かなり正確に渡すべき相手を見極め、任務を成功させるほどの知能を持った特別な鳥へと進化している。途中で死ななければ確実に届けるほど精度が良い。
そんな魔鳥の功績など何のその。魔鳥の活躍を尻目に書状に目を通し、撫子の手に力が入った。
クシャッ
紙を丸める音。よっぽど気に食わないことが書かれていたのか、それとも和解案の質問に対する否定文を渡されたのか……いずれにせよ怒るということは碌でも無いことの前触れ。背中越しにポイッと丸めた書状を放る。
「やっぱ駄目かぁ……まぁいいや。それなら徹底的に狩るだけだし……」
撫子は不敵に笑う。こうなることは目に見えていた。円卓会議で決まった魔族からの提案を無視、あるいは否定した人族を見せしめに殺して壊滅させ、脅し上げる手法。上手くやれば、自分が欲しかったホルス島を手に入れることも可能。
全てが推測通りに、思い通りに動いている。撫子にとっての忌まわしいバードの支配は終わりを告げるだろう。
「皆、良いか?かの鳥共を、亡き者にしてくれようぞ!全軍出撃!!」




