第三十四話 逆流
灰燼はラルフの皮膚を貫いた瞬間に飛び出した血を舐める。これ程旨いものを口に出来たのは今は昔。舐めとるだけでここまで気分の高揚するものはアンデッドになる前を思い出しても初めての事だった。
この様な草臥れた男の血がここまで旨いなら、他の生き物の血はどれ程旨いのか気になって仕方が無い。こんなことならゴブリンを逃がさなければ良かったと後悔したが、いずれ味わえるだろうと自分を慰める。色々思うところもあったが、この味をとにかく味わうのだ。そこに思考の余地など必要ない。
満を持して吸い上げる準備に入った時、ある違和感を感じる。噛み付いたまでは良かったが、血を吸う事が出来ないのだ。
「……ハッ……ハッ……」
アンデッドになって息の吸い方を忘れたというのか?そんなわけがない。心臓を取り込んでから体の動作確認は済ませた。その結果は頗る良好。出来なかった事など無かった筈だ。勿論呼吸に関しても……。
噛み付いてからピタリと止まって動かない灰燼に違和感を持ったのはデスウィッチだ。すぐにでも逃げなければならない状況だが、一体どうしたというのか?感動に打ち震えているのなら急かしては不味い気もするが、鏖が来てからでは全てご破算。老婆は意を決して声をかける。
「……灰燼様、お早くお願い致します……このままでは危険でございまする……」
老婆に急かされて気付く。周りが違和感を覚えるほど自分が動いていない事に。
(くっ……仕方がない……ここで一旦諦めて、移動を先にするべきじゃな。もしかしたら吸血鬼には特別な吸血方法があるのやも知れぬ……)
名残惜しいがここまでだ。どうにも血を飲む事が出来ない。諦めて口を離そうとした時、更なる違和感に気付く。
(何じゃ?!か、体が動かん……!!)
体を動かそうともがくと、関節がビキビキと悲鳴を上げる。
「あだだ……お前、吸うのか吸わねぇのかハッキリしろよ……!」
ラルフも首筋に穴を二つも開けられて、じっと何もされないのは流石に辛かった。その上、ガタガタ震えられては傷口が広がってしまう。一応覚悟を決めて首を差し出したのだから、やるならひと思いにやってくれと思って口を出した。そんな時メキメキという音が灰燼の口元から聞こえてくる。ようやく何らかの覚悟が決まったようだがこの不穏な音は一体何なのか?
(ま、まさか首を食い千切るつもりなのか?!)
恐怖で体が強張る。噛まれた以上どうにかして欲しかったのは確かだが、吸われると思っていたのにブチッといかれるのは予想外すぎて怖すぎる。だが、食い千切られる事はなかった。メキメキといっていたのは灰燼の顎で間違いないが、閉まるのとは逆で段々開いていった。ギギギ……と首の筋肉が軋む音と共に徐々に牙が首から抜けていく。
「……か、灰燼様……?」
デスウィッチもこの行動に困惑を感じざるを得ない。まるで何かに操られているのを拒んでいる傀儡人形のような変な動きだった。灰燼がラルフの顔をブルブル震えながら見る。ラルフも何が何だか分からなくて困惑と恐怖で表情が固まっているが、灰燼は灰燼で何かに怯えるように歯をガチガチ鳴らしている。
「……な、何が起こって……何が起こっているんじゃ!!」
(いや、そりゃこっちのセリフ……)と思っていると灰燼の目がグリンと上に回った。
「ガ、ガアァァ……!!」
灰燼はラルフから手を離して後ろに下がる。ラルフは腰が抜けていたので尻餅をつくほどストンと床にヘタリ込む。灰燼は頭を抱え込むと髪を振り乱しながら叫び声を上げた。
「!?……灰燼様が苦しまれて……まさかこの男、聖なる血を宿して……?」
アンデッド属性に特効があると言われている聖水の如き清らかな血。眉唾と思われていたそれがまさかここで……しかしそうでないなら灰燼のこの苦しみ様や、アレルギーに近い拒絶反応も理解出来ない。ラルフの血は聖水と同じ効能を持っていると結論付けざるを得まい。
「ど……どんな確率でございましょうか……こんな事が……」
老婆は驚愕に顔を染め上げているが、事態はそれとは程遠い所にあった。灰燼の体内にある心臓から何かが逆流してくる。心臓に溜め込んでると思われる血かとも思ったがそうではない。それは形ではなく、それは事象ではなく、観測した事もない得体の知れない何か。
『ふふふ……ふははっ♪』
妙に嬉しそうな声が頭に反響する。この声はどこかで聞いた事がある。ごく最近……いや、ついさっきだ。
「ち、違う……!!こいつは死んだ!死んだんじゃ!!儂が……儂が取り込んで……!!」
頭を振り乱して頭上に叫ぶ。頭の声は気のせいだと思うように。
『外界に対すル強さと反比例して随分矮小な心じゃノぅ。ふふ……こんな事で取り乱すヨうでは、妾ノこれからすル事に付いてゆけぬぞ?』
頭に響く声は気のせいではない。ここまでハッキリと言葉を綴られると勘違いで済ませられない。突如起こった頭痛と寒気、その前に起こった体の異変。全てこの心臓から溢れ出るベルフィアの潜在意識の仕業だと今分かった。
「あぁ……!やめろ、やめろ……消えろ……消えろ!!」
その何とも言えない雰囲気に老婆も気付く。これを引き起こしたのはラルフではない。体の中で何か副作用のような物が出ている。心臓を取り込んだのが間違いだったようだ。早く次のステージに上がる為に無理をしたのは早計に過ぎたと言えよう。とはいえ、今すぐ心臓を取り出すのは何が起こるか分からない。万が一既に定着していたら灰燼を自分の手で殺してしまう事も考えられるからだ。
老婆もオロオロしながら手を出せずにいる。灰燼と背後の老婆の様子からラルフもベルフィアが未だ体の中で暴れているのが推察できた。
「は、ははは……やっぱ、ただじゃ転ばねぇなぁベルフィアは……」




