十七話 取引
ドラキュラ城の二階。廊下でラルフは一匹の人狼に対して交渉していた。
「……約束できるか?」
ジュリアは測りかねていた。ラルフという人物はジュリアに深刻なダメージを与えた張本人であり復讐すべき対象である。そんな奴からの提案は承諾しかねる。
「……オ前ニ、コノ鼻ヲ治セルトイウノカ?」
しかし弱き心の本音は出来るなら治してほしい。よく考えてみれば現状を打破できる術など持ち合わせていないし、破れかぶれの攻撃でラルフを殺した所で、他の敵には結局対処出来ない。
「まず約束だジュリア。俺を殺さないと約束してくれ」
ラルフにとっても時間はなかった。閃光弾の目眩まし効果は一定の物だ。たとえ目が潰れる程近くにいても、瞳孔は焼けないよう要らぬ配慮がしてあるのだ。万が一動物に使った時、生態系を崩さないようにとの事らしい。購入の際に説明を受けた。
単なる閃光弾では任意での爆破が難しかった為、こちらを愛用している。現に任意での爆破が成功しなければ身動きが出来なかったのはラルフだ。魔法とは便利だが短所もやはり存在する。
ジュリアは俯き加減で少し黙って思案を巡らせる。時間にして五秒くらいで口を開く。
「……ワカッタ……約束スル。私ノ鼻ヲ治シテクレ……」
鼻に固執するジュリア。それもそのはず人狼にとって鼻は命そのものであり、いの一番に直してもらいたい。贅沢を言えば目も体毛も何もかも治してもらいたいが、とにかく藁にも縋る思いで最悪鼻だけでもと懇願する。
ラルフはその言葉を聞くや否や超回復材を取り出す。ジュリアの視力が回復するのはもうすぐだ。液体型の回復材を直接注入して回復させる事を考える。噛まれる事を恐れて左手で口をガッと掴んだ。
「!」
ビックリしたジュリアは手を払おうとラルフの左手首を掴むが、
「我慢しろよ?」
ラルフのこの言葉で一瞬硬直し、諦めたように手を放す。試験管型の入れ物のコルク栓を抜いて鼻に流し込む。ジュリアは溺れる感覚に陥り、踠いて手を振ってしまう。息をする為にラルフの左手を引きはがした。
ボギィッ
その時、左手を思いきり払われた為に折れてしまった。
「うがぁっ!!!」
手がビクンと跳ねて回復材をジュリアの顔にかけてしまう。ラルフはそのまま突き飛ばされて壁に激突する。一瞬、肺が圧迫され息が出来ない。ラルフは咳をしながらジュリアを見る。
ジュリアは鼻が焼けるような感覚を覚える。液体が顔にかかった場所も熱い。しばらくして顔にあった熱がとれる。目を開けるとさっきまであった白んだ視界が取れ、先程まで感じなかったかび臭い香りが鼻を刺す。鼻が通る。何度も臭いを嗅ぎ、鼻頭を触ってみたりする。
本当に鼻が復活した。歓喜して小躍りでもしたい気分に見舞われたが、ラルフの存在を思い出してそちらに目をやる。折れた手を握り締めて苦しそうにこちらを見るラルフの姿を見とめる。
「……治ったか?」
ラルフはニヤリと脂汗をかきながらも余裕を見せようと笑った。ジュリアはカッと頭に血が上るのを感じる。途端に体は動いていた。一気に距離を詰めてジャギッという音とともに壁に爪を立てる。ラルフのいる壁に両手をついてラルフを囲う様に逃がさないようにしている。ジュリアは凄い形相で睨みつけていた。先程まで爛れていた鼻先も何事もなかったように毛も生えそろい、綺麗になっている。今年一番の痛みに耐えながらラルフは殺意の下に晒されていた。
「……何故ダ?」
それは腹の底から絞り出すような声だった。続く言葉はなぜ助けたのか?だが、その言葉は出ない。困惑と憎悪、歓喜と怒り、焦燥と興奮、形容しがたい感情が渦巻きどうしようもなかったからだ。
「………」
ラルフは本当の事を言ってもいいかどうか判断しかねる。殺せないから回復させましたなんて馬鹿すぎる。しかし答えないわけにもいかず、恐る恐る
「……約束だぜ?殺さないでくれよ……」
ジュリアは「喝ッ」と牙を剥き出しにして威嚇する。聞きたかった言葉じゃなかったようだ。
その時、
「アギャァァァァ!!」「ヤメテクレェ!」
「助ケテクレェ!!」
「隊長!!タイチョオォォォォ!!!」
人狼の命乞いが聞こえる。仲間の声だとすぐには分からなかった。これほど怯え切った声を聴いた事がなかったからだ。ラルフから離れ、すぐに二階の窓から顔を出す。そこには縮小していく、うす紫がかった球体に閉じ込められた仲間たちが血まみれで命乞いをしていた。球体の壁に触れるたびに傷ついていく仲間達。皮膚がめくれ、爪が割れ、目から涙を流している。
あの屈強で知られた特殊部隊のメンバーが、ひと固まりで無様に吠え散らかしている姿は、絶望を形にしたオブジェだった。ジュリアは呆気にとられその様をただ傍観する。その時、副長と目が合った。
ドキッとする。状況が全く分からないのに突如死にかけている仲間たち。魔獣の口の中に半分くらい入ってる状況なら目でも狙おう。死人の群れなら音でも出して気を引こう。檻の中なら鍵でも探そう。傷だらけで死にかけなら治療しよう。
じゃあ、うす紫色の球体に閉じ込められた仲間は?見た事も聞いた事もない、対処のしようがない光景に助けを求められたら?ジュリアは副長から目を離すことはできなかった。その目には確かな怯えが含まれていたが、「逃ゲロ」とあの騒ぎの中で微かに聞こえた。
それを最後にうす紫の球体内は赤い液体で満たされる。ゴボゴボという空気が液体内で音を上げるがそれもすぐに消える。その後は球体が一気に小さくなって元から球体などなかったかのように無くなった。ジュリアは一部始終を見届けると、足の力が抜けてその場にへたり込む。仲間達の顔が浮かんでは泡のように消え、浮かんでは泡のように消え……副長の顔が浮かんだ時ふと何度かアプローチをされた記憶が湧いてくる。あの時の不器用な顔と、兄を支えるキリッとした表情で少し心が揺れた時を思い出す。
「逃ゲロ」
救いを求めるのではなく、避難を促した。あの必死な表情は結局、自分に向けてくれた最期の好意だった。
「アタシハ……ドウスレバ……」
復讐をしたい。しかしあの無残な虐殺はジュリアの心を完全に折った。仲間の思い、副長の思いが渦巻き、またも思考に捕らわれる。
「……俺なら、体勢を立て直すぜ」
ラルフはジュリアの心の機微をチャンスと捉える。
「あいつらはお前一人でどうにかなるもんじゃねぇよ。他の仲間と合流すれば、道が開けるんじゃねぇか?」
腕を折った時点で既にマイナスだが、命あるだけましという考えがジュリアを遠ざける事を選んだ。
その言葉にハッとするジュリア。あの球体内に兄はいなかった。まだ死んでない可能性がある。あくまで可能性だが、縋るモノがあるのとないのとでは行動力に差が出る。ラルフを見る。もう行動も出来ないような貧弱な人間。こいつは何かの役に立たないか思案する。女と仲違いしていた所を見るに人質には使えない。こいつ本体には価値がない。持ち物なら使えないだろうか?
「オ前、何カ道具ヲ持ッテイナイカ?」
ジュリアは攻撃の時とは若干違う機敏な素早さでラルフとの距離を詰め、服の中をまさぐりだす。
「おいやめろよ!いてててっ!腕折れてんだぞ!この上、追いはぎとか鬼畜の所業じゃねぇか!」
ラルフの抵抗むなしく道具のいくつかを取られる。閃光弾と煙幕玉。ダガーに投げナイフ。飲料水と投げ縄。それを握り締めて去ろうとするジュリア。
「せめてダガーは勘弁してくれ。武器がないとこの先生きていけないって!」
刃物を全部持っていかれると、戦いはおろかサバイバルも途端に難しくなる。ジュリアは止まって、少し考えたのち空いていた部屋に入る。すぐに出てきたかと思うとラルフの前に燭台を投げる。
「蝋燭ヲ取レバ簡易的ナ武器ニナルダロ。スマナイガ、アタシタチニハ時間ガナインダ。許セ」
そう言うとそのまま行こうとする。と、思い出したように振り返り、
「治療ニハ感謝シテイル。……アリガトウ……」
その言葉を残し、去ってしまった。
「……何が”ありがとう”だよクソ!!」
ラルフは折れた左腕を庇って立ち上がり。痛みに耐えながら玄関を目指す。
「……俺はなんで他人に全部回復材使ってんだ?」
自分の傷をろくに回復出来ない状況にボヤく。腕を折り、回復材を使い切り、道具を持ち逃げされる。その上、換金出来ないなら完全な赤字である。(……命が助かっただけましか)と自分を慰めた。