九話 吸血鬼
(終わった……)
ラルフは用意した装備に手を伸ばす。こうなれば相打ち覚悟だ。万が一致命傷を避けられたなら超回復材が生命線になる。
身構えたその瞬間。ラルフの視界に残像を残し一気に距離を詰める吸血鬼。経験したことのない圧倒的な力の差は噂以上だ。反応できない自分がすべてを物語っている。
(遅いノぅ)
吸血鬼はラルフの行動が逐一見えていた。何に手を置き、何を出そうとするのか。意外と渋い顔つきが恐怖に歪み、死を覚悟している様子が。
動体視力は人間をはるか彼方に置いてけぼりにしている。さらに反応速度と肉体能力が吸血鬼自身の動体視力に追いついているので生半可な攻撃は当たらない。当たらない上でもし当たっても死ぬことはない。不死身と言われたこの体は卑怯なまでに強いのだ。
(いタだきます、じゃ!)
手がラルフの喉元を掴むその時、視界に反応不可能な速度で手が出現する。あたかも突然現れたように唐突に。その手に顔面を掴まれ、もの凄い力でぶん投げられる。
「くぉっ!!」
ゴオッという風切り音が耳元でつんざく。
その体は信じられない勢いで空を飛んでいた。猫のようにしなやかな動きで宙返りをすると、簡単に着地して投げられた方を確認する。
(人間ノ隣に立っていルノは……魔族?)
鷲掴みされた顔は指の跡が付いて痣が残っていた。その上、三半規管を狂わされ視界がゆがんでいる。鼓膜が破れて耳から血が出ていた。
「ホントだ吸血鬼がいる……」
信じられないといった顔をして吸血鬼を眺めていた。
ラルフの目には異次元の世界が繰り広げられていた。それこそ信じられないといった顔でミーシャと吸血鬼を凝視していた。今の状況をラルフの目から見ると、吸血鬼が迫った瞬間にミーシャが間に入ってきてそれに驚いた吸血鬼が「くぉっ」という声を発しながら後ろに飛びのいた。
もちろん見えたわけではない。吸血鬼は視界から消えてミーシャが間に出現して、吸血鬼が奇声を上げつつすでに空中に浮いて着地した。という状況を分析した時、そういう想像をしたに過ぎない。
吸血鬼は耳から出ていた血を指で拭き取り、その辺に散らすと先ほどのダメージがなかったように余裕の表情を浮かべつつにんまりと笑っていた。
「妾が寝ていタ合間に、世界ノ情勢は大きく変ワっタヨぅじゃな……」
吸血鬼は猫科動物のようにその体制で伸びをした。腰を高く上げて上半身は逆に沈み手を床に置いて肩から伸ばし、気持ちよさそうに欠伸までしている。ちょっとした運動がてら食われそうになったことを考えると恐怖で足がすくむ。その様子をまじまじと見ているミーシャは吸血鬼に語り掛ける。
「お前、どうやって生き延びた?」
ミーシャは当時のことを確認している。
「そんなことヨり妾はどノくらい寝タノじゃ?ここ数年で変ワル程いがみ合いは小さくなかっタと認識してルが?」
「質問を質問で返すな。私が先だ」
ミーシャは少々苛立っている。吸血鬼はミーシャの顔をちらっと一瞥し、ため息交じりに語った。
「……タだ運が良かっタ。あノ魔王が、まルで作業ノヨうに……妾ノ一族を消滅させていル中で、狙いが妾から逸れタ。そノ隙に逃げタ。それだけじゃ」
当時のことを思ってか、目を伏せて話しているのが印象的だ。領主の伝記にも同じことが書かれていた。強者と弱者の立場が場所によっては変わるだけなのだと、ラルフはもはや蚊帳の外で傍観する一市民の様に第三者から分析していた。
良ければこのまま存在を忘れていてほしい。そっと後退を試みると吸血鬼はその行動を感知しパッとラルフに目を移す。決して逃がしはしないと、その目はラルフの喉元を凝視しランランと輝いている。
「今度は妾ノ質問にも答えてもらうとしヨう。そちノ方がヨく知ルノではないか?」
無理やりにでも会話に入れてくる。逃がす気は毛頭ないと見える。
「吸血鬼がこの城に立て籠もって、最後の犠牲者から100年後さ。領主の体験談が都市伝説になってから久しいが……本当にいたのは驚きだぜ」
吸血鬼がミーシャに警戒し、ラルフを中心に半径10mを保ちつつ円を描くようにウロウロ、右往左往、行ったり来たり歩き回る。
「100年……か、まだあノ魔王は生きていルノだろうか……もう少し寝ていルかねぇ……」
「いや永遠に寝るべきよ」
ミーシャはラルフの前に庇う様に構える。
「妾に勝つ気かえ?一族が消滅してから100年も経てば恐怖も薄れルというもノか……」
吸血鬼は左半身を前に出し、右半身を隠すように立つ。ミーシャが構えているのに対し、半身で突っ立っているだけに見える。この半身の姿勢が吸血鬼の構えなのかもしれない。
「おい……大丈夫なのか?相手は不死身と名高い、伝説の吸血鬼なんだぞ?」
ミーシャは相手から目をそらさず答えた。
「まあ見てなさいって、あんなの敵じゃないわ」
(本当かよ……)
裏切られて消耗していたとはいえ半殺しにされ、メソメソ泣いていたミーシャの姿を思い出す。だが先程の能力差を目の当たりにして無謀な行動に出られるほどラルフは若くはない。
「……援護は任せろ」
任せて逃げるのは気が引けるし、何より後味が悪い。正直これが精一杯の譲歩だった。
「足手まといよ。いいから見てて」
ラルフはミーシャの実力は知らない。ただ先の攻防を見る限りいける様な気がした。最低でも能力は拮抗していてもらいたいが、少し下くらいならそれこそ援護で一緒に戦えば何とでもなるような気がした。
ラルフの目の前から二人が消えた時、その考えはもろくも崩れ去る。援護?一緒に戦う?なにそれ意味あるの?
目の前の大広間の床が踏み抜かれ、その度に組みあう二人の姿が見える。一瞬見えては消えて、また音と共に現れる。床が踏み抜かれる音と壁が削れる音、柱や調度品が壊れる音。
ガコッズドッバキッメキッ
一進一退の攻防が繰り広げられている。ラルフの想像の中で。
次の瞬間、ゴバァッという音とともに半端じゃない勢いで何かが飛ぶ。
吸血鬼が100年眠っていた棺が壊れた後、一度床に跳ねた。一度跳ねたのに勢いが殺されず、その延長線上にある壁に人型の物体が叩きつけられる。何が起こったのか、飛ぶ前の場所に立っているのはミーシャだった。つまり吸血鬼が壁に叩きつけられた。
あの攻防を制したのはミーシャ。かすり傷程度のほぼ無傷で立つミーシャに対し、壁にめり込む吸血鬼は血だらけで致命傷は免れない。だが吸血鬼に致命傷はない。
「ふふっ……妾をここまで凌ぐ魔族がいヨうとは……時ノ流れとは恐ろしいもノヨな」
血だらけで見るも無残だった体はすでにほぼ回復している。潰れた体は元の張りを取り戻し、ねじれた腕や足は元の位置に戻っていく。まるで映像の巻き戻しのように回復していく姿は驚異の一言だ。卑怯を絵に描いた化け物に、彼の魔王はどうやって殺し、絶滅の危機に追いやったのか教えを請いたい。きっとミーシャも同じ気持ちだろう。
「そうね……まさかここまで体がなまっているなんて、思ってもみなかったわ」
まさかの挑発。ミーシャにとってはあの攻防は退屈するものだったのか?
「ふはっ!妾に対しそこまで宣うとは見上げタ女ヨ!」
吸血鬼は顔についた血を右手で拭ってそのまま嘗めとる。
「しかしそうかもしれぬな……妾も長い間、寝ていタせいで勘が鈍っていルノかノぅ……」
ちょっぴり寂しそうにしているが、その実同等以上の力の持ち主との攻防に楽しみを見出してもいる。
「お前じゃないぞ、私の話だ。まだ完全に回復をしていないのが動きを阻害しているな」
肩を回して少しストレッチを始めるミーシャ。
(お前どんだけだよ……)
ラルフは傍らでミーシャを観察しつつ、その傲慢さに辟易する。だがその実力は見る限り折り紙付きである。
「そちは……何者なノじゃ?タだノ魔族ではあルまい……」
吸血鬼もその傲慢さが気に食わないのか、または潜在的な力に脅威を感じてか、その両方か。ミーシャの存在が気になるようだった。かく云うラルフもそれは聞きたい所。
「フンッ!ようやく聞くのか我が存在を?知りたければよく聞け」
ミーシャはその寝巻のような白い長袖のワンピースを翻し。
「我が名はミーシャ。黒の円卓に所属する第二魔王だ!!」