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掌編小説

ケケケッ

作者: タマネギ

会社を休んで、一日中、寝ていた。

夕方になり、そろそろ起きて、

風呂にでも入ろうと布団から出てみたが、

梅雨時の異様に寒い空気に、

体が強張ってしまい、

また布団に戻ってきたところだ。


うつらうつらしながらも、

時折聞こえていた雨音が途絶えている。

何かが辺りを飲み込んだような静けさだ。


薄暗い部屋には、

その静けさ以外には何もなく、

布団の中で仰向けに寝転がったまま、

朝のことを考えてみた。



朝は、いつもと変わらず

仕事の用意をして、ドアを開けたのだ。

なのに、降り始めた雨を見たとたん、

突然、なにもかもが馬鹿馬鹿しく思えて、

そのまま寝床に戻ってしまった。



何故かはわからないが、

とにかく、雨の中、傘をさして、

仕事に向かうということが、

どうしょうもなく、無意味なことに

思えたのだ。


それから、頭によぎることは、

どれもこれも億劫な義務になり、

再び布団に潜り込み眠ったのである。


きっと働きづめで、疲れているのだと、

そう思うしかない自分だった。



あれこれ思い倦ねていると、

音のないはずの部屋に、いつからか、

陰気なジャズピアノの調べが、

流れていた。

どこから流れてくるのか。

耳をそばだてても、音の原因がわからず、

暗い部屋のあちこちから

満遍なく聞こえてくるようであった。


体がだるい。頭が重い。

空腹も重なって、

目眩を感じはじめた。



トゥルルルルル

トゥルルルルル

トゥルルルルル

トゥルルルルル


枕元のスマホがなった。

ディスプレーには、覚えのない番号が

並んでいる。

誰だろう。会社の人間か。

それとも……



朝の無意味だという感覚が甦り、

そのまま放っておく。


トゥルルルルル

トゥルルルルル

トゥルルルルル

トゥルルルルル


それでも、電話は鳴り止まない。

鳴り止まない電話を無視するうちに、

自分の行いが卑劣にも、強かにも思えて、

どうしようもなく

惨めな気持ちになっていく。


トゥルルルルル

トゥルル・・・。


鳴り止んだ。

少しほっとしたが、

また鳴り出すのではないかという

不安は消えず、

布団の中で息を潜めてしまう。

ジャズは流れ続けている。


……ふと思った。

やはり、あいつからか。

近頃、子供じみた性格が鬱陶しくて、

関わらないようにしようとしたあいつ。


取引先の担当だったあいつは、

妙に愛想が良かった。

それほど好みではなかったが、

見栄えは派手すぎず、暗すぎず、

ちょうどよい相手であった。


だから、どっちみち飽きることが

わかっていながら声をかけたのだ。


トゥルルルルル

トゥルルルルル

トゥルルルルル

トゥルルルルル


また電話が鳴りだした。

トゥルルルルル

トゥルルルルル


鳴り止みそうにない電話の主は誰?

あいつか……


思い切って電話にでる。もしもし……



……何のことはない。

同じ課の後輩が、

明日のスケジュールを

連絡してきただけだった。

どうでもいいことだけを

しゃべってくれたので、

適当に相づちを打ちすぐ切った。



トゥルルルルル

トゥルルルルル

トゥルルルルル

トゥルルルルル


また電話だ。

さっきの後輩からだと思い、すぐ出た。

もしもし……



……無言電話か。

いや、この音は、何?

……ジャズの音?


電話ですっかり忘れていたが、

部屋に低く流れているジャズ音が、

無言電話の向こうからも

聞こえているのだ。


もしもし、もしもし、

相変わらず何も言わない。

部屋に流れるジャズがサビの旋律で、

音が大きくなっていく。

すると、電話の向こうの音も、

同じように大きくなりサビが重なるのだ。


間違いなかった。

近くの部屋でジャズを流しながら、

不埒な電話をかけている奴がいる。


あいつか……

また、あの女のことがまとわりつく。

そう言えば、ずっと前に

ジャズのライブに誘われたことがあった。

行かなかったが。



ドン、ドン、ドンドン、ドン、ドン、ドンドン、

突然、隣の部屋から壁を叩く音が響いた。

太いハンマーで叩いているような、

今にも壁が壊れそうな勢いだ。


身の危険を感じ、

気味の悪い電話機をその場に放り投げ、

部屋から飛び出した。

湿った風に体が煽られて

体が液体になるようだ。


そして、廊下で恐る恐る

隣の部屋の扉を伺っていると、

隣人が帰宅してきた。


普段、会わないので知らなかったが、

拍子抜けするぐらいに、穏やかな顔つきの男で、

事情を言うと、すぐに部屋を開けてくれた。

部屋の中からはまたジャズが聞こえている。


どうやら音は、自分の部屋との間の壁の中から

聞こえている気がするのだ。


リリリリリリン

リリリリリリン

リリリリリリン


隣人の電話がなった。

電話機のディスプレイが目にはいり、

そこに自分の携帯の番号を見つけた。


背筋がぞっとしたところで、

隣人が電話に出た。


”もしもし……はい、はい、

あっ、ちょっと待って下さい。”


隣人は受話器をこちらに差し出して、

首を傾げている。


どうも自分が呼び出されたらしい。

とにかく、電話に出るしかなかった。


もしもし……

壁から流れ出るジャズが

電話の向こうからも聞こえている。


部屋にかかってきた電話と同じだった。


”……あぁ、痛っ”


えっ、一瞬聞き返したが、

確かに痛いと言っていた。

男か女か、よくわからないか細い声。

それが自分の携帯電話を通じて

呻いていた。


ダッダッダッダッダーン、

ドッドッドッドッドーン、

ジャーン、ジャーン、ジャーン。


壁の中からは一段と大きな音がして、

隣人は耳をふさぎ頭を抱えている。

とてもまともには聞けない、

大音量のジャズの音だ。

工事現場の騒音の方がまだマシか。


陰気で、何もかもが無意味に感じられ、

そして、おまえは狂っているんだと

断言してくるような大音量。


ひび割れてきた。

壁がひび割れ、崩れていく。

崩れ落ちる壁の瓦礫の下で、


隣人は泡を吹き、目を剥き、

耳から血を流して暴れている。


しかし、自分だけは何故か立っているし、

自分だけは何故か助かっているのだ。


それでも壁は崩れ続け、

部屋が、自分の部屋が見えてきた。

それまで流れていた大音量のジャズが

静かになっていく。



えっ……何者?

部屋で誰かが正座している。

黒い服、白い顔、黒い歯、 赤い目 。


男でも女でもない体つきのそれは、

能面の岡女のような顔で

携帯電話のストラップを指に掛け、

ぶらぶら揺らしながら声を発した。


”ケケケッ、きたきた。


……仕事は、責任は、約束は、

スケジュールは、ケケケケッ、


逃げるな、休むな、ケケケケッ、


誘ったな……ケーッケッケ、

飽きるのに、騙した、ケーッケッケ、


虚構かね、偽善かね、体裁かねぇ、

ケケケケッ、ケーッケッケ、


側だけ、側だけ、側だけじゃ、

ケーッケッケ、すべて無意味だな。


おまえも無意味だったな…ケケッ。”


それはくどくどと、

しかも自分の芯に直接触れてくる

詰問だった。


そして、沈黙に粘る唾を飲み込むうちに、

陰気なジャズはいつの間にか、

止まっていた。


続けて、なにか声を発するのかと身構えたが

それは黙って宙を見たままで、

……特に危害を加えてくる様子はない。


”……ケケケケケ、

そろそろ、もどるわい。”


えっ?思わず聞き返したが、

得体の知らない岡女顔のそれは、

ケケケケッ、と虫っぽい鳴き声を最後に残し、

携帯電話を放り投げ消滅した。


後には何故か、お香に似た臭いが漂い、

崩れたはずの壁はその匂いの中で、

映像を巻き戻すかのように戻っていった。

一体、何が起こったというのか。

隣人は無事だったのだろうか。

狐に摘まれたかもしれない。



トゥルルルルル

トゥルルルルル

トゥルルルルル

トゥルルルルル


電話がなった。


もしもし……


”ケケッ、ジャズ、あいつの音、

香、あいつの匂い。ケーッケッケ、

これからは楽だぞ……ケケッ。”


わざわざ伝えられた、

意味不明なその声の向こうで、

会社の上司の声がしていた。


「うん、そうなんだ。

出勤して来ないと思ったら……

そういえば、近頃、

変な笑い方してたしな……」


……おわり



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