20.Fランク冒険者と英雄の詩 伝説編
連続更新力の低まりを感じる!!
本編と関係ないパートほどついついたくさん書いちゃう!
あると思います!
「――アーナ様! エスリアーナ様!」
必死で私を呼ぶ声に、ゆっくりと瞼を開く。
身体の反応が鈍く、なぜだかうまく起きられない。
「ここ、は……」
意識が、少しずつ浮上していく。
暗闇の中に浮かび上がるのは、白皙の美貌。
「……アイシア?」
幼馴染にして、私の守護騎士でもあるアイシアは、私の言葉を聞いて、強張っていた顔を少しだけ綻ばせる。
「よかった。気が付かれたのですね」
「そうか、私は……」
森を進む途中で、馬が暴れ出して、投げ出されて……。
「馬は……つっ!」
反射的に起き上がろうとして、右足首に、刺すような痛み。
「エスリアーナ様!?」
アイシアが悲鳴のような声をあげるのを制して、足首にそっと手を当てて、集中する。
すると、その手がぼんやりと光り出し、それにつれて足首の痛みも引いていく。
「流石は『聖女』様ですね」
そう言って、アイシアがまるで尊敬を含んだ眼差しを向けるのを、首を振って遮る。
「……その呼び方は、やめてください」
私は物心ついた頃から、この「癒やしの力」を持っていた。
過去の記録や文献を当たると、私と同様、生まれながらに特殊な能力を持っていた人間は、昔から極稀に存在したらしい。
それはきっと、女神様が与えてくださった「レベル」や「スキル」よりも古い、もっと根源的で、もっと原始的な力。
そのせいで、私のことを《聖女の再来》などと担ぎ上げる声もあるが、私自身はそれを信じてはいない。
力は、ただの力。
そこに特別な意味を見出すつもりは私にはなかった。
それに……。
「もし私が本物の聖女であれば、ここに来る必要はなかったでしょうに」
「……エスリアーナ様」
気遣わし気なアイシアの声に、私は首を振った。
「ごめんなさい。詮ないことを言いました」
意識して森の空気を肺の中に取り込み、気持ちを落ち着かせた。
脳にまで清浄な気が巡り、少しだけ意識がはっきりしたように感じる。
「アイシア、馬は?」
「残念ながら」
「……そうですか」
私たちが乗っていた馬は、ここで私を振り落とした後、どこかに走り去ってしまったらしい。
帰りの足がなくなったと考えると、不安ではある……けれど。
「いいえ。むしろ良かったのかもしれません。私たちの戦いに、巻き込まずに済んだのですから」
ここまで乗ってきた馬は道中の町で購入したもので、名前すらつけてはいない。
そうは言っても、少しの間とはいえ、苦しい旅を共に乗り越えた仲間だ。
当然ながら愛着はある。
どの道、ここより先に進むのに馬は不向きだ。
別れが少しだけ早まったのだと思えばいい。
「それより、時間がありません。急ぎましょう」
幸い、方角だけははっきりと分かる。
アイシアはもう一度私を心配そうに見つめた後、「はい」とうなずいて率先して歩き出した。
「《癒やしの一輪花》。本当に、あるのでしょうか」
その背を追いながら、ふと弱気が頭をもたげる。
癒しの一輪花とは、伝説に語られる薬の素材だ。
とある国の辺境の嶺上に、一輪だけ、それも一年にほんの数日だけ咲くという希少な花。
その花から作った霊薬は、どのような病もたちどころに治してしまうのだとか。
「……リスリン」
妹のリスリンが重い病に倒れたのが、二週間前。
病を治そうと様々な手を講じたけれど、私の「癒やしの手」を含め、あらゆる治療法は妹の病に対して無力であり、僅かに症状を和らげることしか出来なかった。
そこで一縷の望みを託したのが、《癒やしの一輪花》の伝説。
今は、ちょうど伝説に語られる一輪花が花を咲かす時期だ。
このような私事、それもこんな不確かな情報に、父の騎士団は動かせない。
けれどこの時を逃せば、一輪花を見つけることは不可能だろう。
思い余った私は守護騎士のアイシアだけを連れ、たった二人だけで、癒やしの一輪花の探索へと旅立った。
夜を徹して馬を走らせ、どうにか一輪花が咲くという崖近くの森にまで辿り着くことは出来た。
けれど、この選択が本当に正解だったのか、私にはいまだに自信が持てなかった。
「……信じましょう」
素っ気なくも聞こえる短い言葉。
しかし、そこに込められた熱情は疑いようもなかった。
そうだ。
それにリスリンは今も、必死で病と闘っているはず。
姉である私が、諦める訳にはいかない。
疲労して反応の鈍くなった足を叱咤して、私は再び前に足を進める。
その時だった。
「――エスリアーナ様!!」
鋭い声。
身体が強張る。
その隙を突くように、木の陰から巨体が躍りかかってきた。
「っ! オーガ!?」
見たこともない醜悪で恐ろしい姿に、私の頭の中は真っ白になる。
しかし、
「ハァッ!」
裂帛の気合。
いつの間にか私の隣に並んでいたアリシアが、剣を閃かせていた。
「ぁ……」
私は、一歩も動くことが出来なかった。
何も出来ない内に、全ては終わっていた。
「これが……」
魔物との戦い、なのか。
まるで時を忘れたかのように、数秒経った今になってオーガの身体が地面に倒れていくのを、私は呆然と眺めていた。
不意に息苦しさを覚えて隣を見れば、動揺の欠片も見せず、冷静に、剣についた血糊を拭っているアリシアが見えた。
……魔物が死ぬと魔核以外の部位は消えるのが通常ではあるが、倒した者の魔力によって魔石化と同じプロセスが発生するのか、身体の一部が消えずに残ることもある。
特に、血液などの体液、分泌された毒や酸などは消滅に時間がかかったり、消えずに残ることも多い。
だから、魔物の血液を浴びた武器はこまめな手入れが必要だ、と家庭教師の先生が話していたのを、頭のどこかで思い出す。
その時は、なるほどと思いながら先生の言葉を聞いていた。
けれど、どこか心の片隅で、遠い出来事だと思っていたのも確かだった。
オーガの身体が完全に消え去り、その魔核にアイシアが手を触れ、小さな魔石に変えたのを見て、やっと私は自分を取り戻した。
慌ててアイシアに駆け寄る。
「ア、アイシア、ごめんなさい。わ、私、わたしなにも……」
「大丈夫です。エスリアーナ様は、私が守ります」
先程までの冷徹さを欠片も見せずに、ただ暖かいだけの笑顔で、私にそう言ってくれる。
その笑顔に、私は胸が締め付けられるような心地がした。
私の意識が、甘かったのだ。
ここまでの旅路では、ほとんど魔物と出会わなかったし、出会っても初級魔法の一撃で追い払える程度の小物だけだった。
いつしか一輪花を手に入れるという目的ばかりが先行して、それがどんな結果を招き得るかが頭から抜け落ちていた。
今なら、はっきりと分かる。
ここは紛れもなく死地であり、私の無鉄砲のせいで、アイシアは命を落としてしまうかもしれないのだ。
「そんな顔を、しないでください。あなたの守護騎士を務めると決めたのも、この旅に同行を申し出たのも、私の意志です」
「アイシア……」
「絶対に、一輪花を持ち帰りましょう」
その言葉に、私はただうなずくことしか出来なかった。
「……エスリアーナ様」
穏やかな表情を浮かべていたアイシアの顔が、不意に鋭い色を見せる。
同時に、私も気付いた。
まるで、私たちを囲い込むようにうごめく小さな影。
「くっ! ゴブリンかっ!」
アイシアは私を庇うように前に出るが、今回は相手が悪い。
俗にゴブリンと呼ばれるこの亜人型の魔物は強敵ではないが、とにかく数が多い。
いかにアイシアが優れた剣士であっても、この量の相手を同時にするのは不可能だ。
「エスリアーナ様、私が引きつけます。その間に安全な――」
「スパウト!!」
その台詞は、最後まで言わせなかった。
私が魔法名を口にすると同時、幾筋にも分かれた雷撃の鞭が魔物たちの身体を打擲する。
「アイシア!」
複数相手ということで、全ての魔物に十全に攻撃が当たったとは言い難い。
私の意を汲んだアイシアが動き出し、電光石火の剣撃で身動きのままならないゴブリンの命を刈り取っていく。
数と勢いをなくしてしまえば、所詮は最下級とも言われる魔物。
アイシアが全てのゴブリンの息の根を止めるまで、そう時間はかからなかった。
ようやく私とアイシア以外の動くものがなくなって、アイシアは臨戦態勢を解くと、すぐに私を小声で叱咤する。
「エスリアーナ様! あまり、無茶は……」
けれど、私はうなずかない。
出来る限り不敵に見えるように、唇を持ち上げて、傲岸に言ってみせる。
「言ったはずです、アイシア。『私たち二人で』妹を救おう、と。勝手に私を置いていかないでください」
「……そう、ですね」
私はちゃんと、笑えていただろうか。
その答えは私には分からなかったが、私の強がりはアイシアの心を動かすことは出来たようだった。
「――手に入れましょう、二人で」
「――ええ、二人で」
差し出されたアイシアの手を、しっかりと握る。
その瞬間、「一人と一人」だった私たちが、初めて「二人」になれた。
そんな気がした。
※ ※ ※
それから、魔物の襲撃を何度退けただろうか。
近接攻撃を主体とし、人を守ることにも慣れているアイシアと、近接戦闘能力はないものの、回復に補助の魔法を使いこなし、広域に作用する攻撃魔法を多く持つ私との相性はよかった。
「もうすぐ、目的地に着くはずです。くれぐれも……」
「分かっています」
アイシアは女性でレベルこそそう高くはないものの、剣の扱いに天賦の才があり、家に代々伝わる家宝の剣によってその攻撃力は一流の冒険者にも引けは取らない。
私は実戦の経験に乏しく、対応力に難を抱えるものの、同年代では屈指の魔力量を持ち、魔法については英才教育を施されているという自負がある。
アイシアの見立てでは、私たち二人のパーティは冒険者ランクにすればBに匹敵する力を持つ。
Bランクと言えば一流を名乗れるほどのパーティ、自分で言うのもなんだが、
だが、この世界にはその程度では絶対に届かない領域がある。
――《朱天の鬼》。
一輪花を守る守護者とされるかの魔物のランクは、私たちの戦力評価であるBよりも上のA、よりもさらに上。
まさに人外の領域にある。
「もし朱天の鬼に見つかってしまったなら、たとえ一輪花が取れていなくとも退却する、ですね」
それが、アイシアが今回の件に協力する際、私に出した唯一の条件だった。
事ここに至って、アイシアの言を軽視しようとは露ほどに思っていない。
「はい。……噂をすれば、のようですね」
そこで突然、森が終わる。
視界が開ける。
その向こうにあったのは崖に突き出た岬と、その先に咲く一輪の花。
それから、それを守るように花の方を向いて座り込む、巨大な紅い鬼の姿だった。
座った状態ですら、大人二人分くらいの高さがある。
ただ、私たちに気付いた様子もなく、ぼうっと花を眺めている姿はどこかユーモラスですらあり、あるいは今なら……。
「不意を打てば、などとは思わないでください」
私の心を見透かしたかのように、アイシアが言う。
「魔物の強さは見た目では測れません。アレは、私たちが勝てる相手ではない。その前提で、動きます」
「……そうです、ね」
魔物との戦いについてはアイシアに一日の長がある。
手筈通りに進めるのが一番だろう。
ここからは、アイシアだけが進み、私は森の中、アイシアの姿が見える場所で待機をする。
岬が想像していたよりももっと見晴らしがよく、ここから数十メートルの間は遮蔽物が全くないのが気になるが、対策はある。
「では、お願い出来ますか」
私が使える補助魔法の中には、使った相手の存在感を希薄にする魔法や、音を消す魔法がある。
音を消す「スイレン」の魔法が隠密行動にも使える、と教えてくれたのはアイシアだった。
やはり、アイシアは頼りになる。
単身で向かわせるのは心配だけれど、アイシアならきっと……。
「……え?」
今、まさにアイシアに魔法をかけようとした時だった。
今までぴくりとも動かなかったはずの朱天の鬼が、のっそりと動き始める。
そうして、そいつははっきりと私の方を見ると……嗤った。
「――ひっ!」
「どうしました? エスリア……これはっ!?」
事態が急変したのは、それからだった。
アイシアから、緊迫した気配が伝わる。
同時に、背後から物音。
「罠です! 逃げ――くっ!」
「アイシア!?」
無警戒だった背後から飛びかかってきたのは、オーガ。
それも……。
「三体!?」
たった一体のオーガでさえ難敵なのに、同時に三体なんて!
「大丈夫です! それより、逃げて!」
「な、なにを……」
「囲まれていますっ!!」
その叫びの意味を、理解したのと同時だった。
ガサリガサリ、と音がして、大量のゴブリンが姿を見せる。
「そ、んな……」
数十、いや、数百はいるかもしれない。
絶望的な数のそれらが、怯える私たちを見て下品な笑い声を立てる。
「エスリアーナ様!!」
オーガとすでに切り結んでいるアイシアの声に、硬直が解ける。
杖を握り締め、私は自分が一番得意としているスペルを口にする。
「スパウト!!」
笑っていたゴブリンたちは、為すすべもなく雷の鞭の前に倒れる。
「エスリアーナ様!?」
悲鳴のような抗議を無視して、とっておきの魔法石をオーガに投げつけ、アイシアが斬りかかる隙を作る。
アイシアは何も言わずとも私の意図を汲んで呼応して動き、瞬く間に三体目のオーガを斬り伏せた。
「あなたという、人は」
「二人で、と言ったではないですか。自分の言葉には、責任を持ってもらいますよ、アイシア」
束の間、二人で笑みを交わす。
ここは死地ではあるが、活路がない訳ではない。
私たちを取り囲むゴブリンたちは、不思議と動かない。
オーガがいなければ、アイシアは魔物たちを抑えられるはず。
(その隙に魔法で数を減らせれば、この数相手でも勝機は、ある!)
細い糸のような勝ちの目に縋り、私が魔法を詠唱しようとした、その時、
「――ふっ、ふっ! ふひっ、ひっ、ひっ!」
背後から、気味の悪い笑い声が聞こえた。
「朱天の、鬼?」
見れば、真っ赤な身体をした鬼が、立ち上がって嗤っていた。
心底おかしいというように、これから起きることが、今から楽しみで仕方がないというように、嗤って、嗤って……。
そいつは手にした「何か」を傾けた。
「あれ、は……」
ひょうたん、というのだったか。
おそらく、どこか異国で使われている容器の類だったはず。
鬼はそれを見せつけるようにゆっくりと傾けると、その中から雫が一滴、地面に落ちる。
するとそこから……。
「え?」
オーガが、生えた。
呆気にとられる私たちの前で、朱天の鬼はひょうたんから雫をまき散らす。
地面に触れた雫はたちまちの内にゴブリンやオーガの姿に変わり、数秒が経つ頃には私たちの前方には、魔物の軍勢が生まれていた。
「ふっ! ひ、ひひっ!」
赤鬼が、嗤う。
その笑い声に呼応するように、新しく生まれた魔物の集団が、じわりじわりと迫ってくる。
「あ、ぁ……」
気付けば、私は知らない間に、数歩を後ずさっていた。
「エスリアーナ様!」
アイシアの声に、我に返る。
後ろにも、魔物たちは迫っている。
退路はない。
「無から有を生み出すことは出来ません! あいつも無尽蔵に魔物を生み出せる訳ではないはずです!」
そう、だ。
まだ、切り抜けられないと決まった訳じゃない。
けれど、この数は、アイシアには捌けない。
なら、私が何とかしないと。
「……使い、ます」
宣言して、首飾りを外す。
「エスリアーナ様、それは……」
驚きの表情を浮かべるアイシアに微笑みを返して、首飾りから宝石を外す。
今は亡き祖母から受け取ったこの首飾りは、私の心の支えだった。
けれど、祖母が私にこれを渡したのは、きっとこういう時のためだと思うから。
ギュッと、宝石を握り締めた。
宝石は砕け散り、私の身体に今まで経験したことのないほどの力が満ちてくる。
(これならっ!!)
私は迫りくる魔物の群れに向けて、両腕を掲げた。
そして、滅びの呪文を口にする。
「――《ティルトメルト》」
破邪の炎が、吹き荒れる。
それは全ての邪を払い、悪を退ける浄炎の嵐。
魔物のみを燃やす破邪の炎嵐は私を中心にどんどんとその勢力を伸ばしていき、私を取り囲む全ての魔物を瞬く間に呑み込んでいく。
これが、私の素養が可能とした、今の私の魔力だけでは行使出来ないほどの、大魔法。
私の、切り札!
「……はぁ、はぁ」
身体に力が入らない。
宝石の魔力を使ってさえ、賄いきれないほどの圧倒的な魔力量。
けれど、これならゴブリンだろうとオーガだろうと、ひとたまりもないはず。
私は隣のアイシアに合図を送ろうとして……。
キラキラ、と。
キラキラと光る何かが、炎の壁を越えて、ピチャリ、と地面に落ちるのを見た。
「あ……?」
そして、そこから、醜悪な頭が、大きな腕が、生理的嫌悪感を生む動きで生えてくるのを、ただただ言葉もなく眺めていた。
「ト、ロール……」
となりで、アイシアが息を呑む声が聞こえた。
ピチャリ、ピチャリ、ピチャリ、ピチャリ……。
落ちてくる。
落ちてくる。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ……。
かぞえきれないほどたくさんのみずがおちて、おおきな、おおきなまものが……。
「エスリアーナ様!」
ドン、と突き飛ばされる。
地面から生まれた新しい魔物、Aランクモンスターであるトロールが、私が一瞬前までいた場所に、拳を突き立てていた。
そして、直後に。
炎が収まる。
視界が晴れる。
そこには無数の魔物の屍と、そして、まるで無傷のまま、楽し気に嗤う赤い鬼の姿があった。
「そん、な……」
私の絶望を、味わうように。
朱天の鬼がひょうたんを傾ける。
雫が飛び散る。
ゴブリンが、オーガが、そしてトロールが、死体をかき分けるようにして、再びこの世に顕現する。
「あ、ぅ、ぁ……」
この世の物とは思えないその光景を見た瞬間に、私の心は折れてしまっていた。
自分はここで死ぬのだと、理屈ではなく本能が理解する。
膝を、屈する。
(ごめんなさい、リスリン。私は……)
しかし、そんな時。
「……エスリアーナ様」
肩に温かい感触。
「アイ、シア……?」
私の守護騎士は、私が誰よりも信頼する彼女は、魔物たちから目を離さずに、強い視線を前に向けたまま、言った。
「諦めるには、まだ早いです」
「で、も……」
私の弱音を、彼女は許さない。
「道を、作ってください」
「え?」
「あの瓢箪を、壊します」
ごくり、と唾を呑む。
あのひょうたんを壊さなければ私たちに生存の芽がないというのは、分かる。
でも今、私たちの正面には無数のゴブリンとオーク、そしてトロールがいる。
ここを突っ切って、あの鬼のところに辿り着くなんて……。
「……二人で、ですよね」
その言葉が、ズシリと私の心臓を打って、そして、私も覚悟を決めた。
自分でも分かる硬い声で、アイシアにささやきを返す。
「最初のトロールを踏み台にして、跳んでください。そこに、私が大きいのを打ち込みます」
「それでこそ、姫様です」
「ふふ。その呼び方、懐かしいですね」
「みてみてっ! ひめさまひめさまっ!」と叫びながら棒を振り回していた少女が、今の頼もしい守護騎士の姿と、重なる。
一瞬だけ、私たちは目を合わせて笑い合って、
「はああああ!!」
アイシアは放たれた矢のように飛び出していく。
トロールが振り回した腕を曲芸のように避け、その腕を駆けあがって、空に飛びあがる。
「エスリアーナ様っ!」
私のもっとも信頼する人の声がする。
だったら私は、それに応えなければいけない!
(残り全部を、この魔法に、込めて!!)
身体の訴える不調も倦怠感も無視して、私は魔法を紡ぐ。
「ナル・ナル・スパウト!!」
強化二段の雷撃魔法。
魔力がごっそりと持っていかれ、意識を失いそうになる。
けれど、
「道は、開いた!」
強化をしたとは言っても、ただのスパウトでは強靭なトロールを倒すには至らない。
けれど、動きを止めるには十分だった。
アイシアは、私の自慢の守護騎士は、俊敏な獣のように魔物の間を縫い、朱天の鬼の前に躍り出る!
「――行って! アイシア!!」
「――は、ああああああああああああ!!」
その瞬間、私たちは二人で一つだった。
アイシアの剣が光る。
ティルトメルトに勝るとも劣らない光を放ち、アイシアの必殺剣が、撃ち放たれる!
……ただ。
やっぱり私は、何も見えていなかったのだ。
たとえ魔力が有限だとしても、いや、有限だからこそ、数十、数百に及ぶ魔物を生み出すその紅い鬼が、簡単な相手のはずはなかったのに。
「…………え?」
だから私はやっぱり、見ていただけだった。
ただの、一撃。
朱天の鬼が無造作に放った一撃がアイシアの剣を砕き、彼女がまるでボールのように吹き飛ばされ、地面に転がされるのを私はただ、見ていただけだった。
「アイ、シア……?」
信じられなかった。
あれだけの魔物を相手に、一歩も引かなかったアイシアが。
今まで、どんな相手にも立ち向かい、ずっと私を守ってくれていた、アイシアが。
今は人形のように地面に倒れ伏して、ピクリとも動かない。
「アイシアッ!!」
その瞬間、全てが決壊した。
今の状況も、私を取り囲む敵も全部が頭の中から抜け落ちて、私は必死でアイシアに駆け寄って、取り縋った。
「アイシア! アイシア! アイシア!!」
抱き起こす。
頭に添えた手にドロリとした感触。
冷たい手で心臓を掴まれたような悪寒がした。
「大丈夫、大丈夫ですから! 今、私が治してあげますから!」
今ほど、自分に癒やしの力が備わっていたことに感謝したことはない。
「死なないで、死なないで、アイシア!」
ありったけの力を込めて、アイシアを癒やす。
驚くほど力のない身体を精一杯に抱き締めて、血の気の失せた顔に、活力を送り込む。
クラリ、と意識が遠のく。
だが、
「エス、リアーナ、さま?」
「よかった! よかった! アイシア!」
薄っすらと、アイシアが目を開く。
ただそれだけのことに、涙が止まらなかった。
顔をあげる。
私とアイシアは、いつのまにか十重二十重の囲みの中に閉じ込められていた。
下卑た笑いをするゴブリンどもが、私たちに近づいてくる。
私にはもう、攻撃魔法を撃つ余力はない。
癒やしの力の使い過ぎで、もう腕を持ち上げることすらままならない。
それでも、
「やらせ、ない! アイシアは、絶対に、やらせない!」
立ち上がる。
立ち塞がる。
私は、杖を両手に構え、魔物たちを睨みつける。
……でも。
それは、無力な私の虚勢でしかなくて……。
たかが、ゴブリン。
最弱な魔物とも言われる悪辣なその小人が振り回したナイフを防ぐ力すら、私にはなかった。
最初に飛びかかってきたゴブリンを杖でかろうじて跳ねのけて、けれど、そこまでだった。
「ぁ、ぐぅっ!」
逆側から駆け寄ってきた魔物のナイフが、腕に突き立てられる。
痛い、痛い!
熱い熱い痛い!
指から最後の力が抜け、唯一の武器である杖が地面に転がる。
ギャッギャという耳障りな声。
髪を掴まれる。
強引に引き倒される。
口に入り込む土の味。
身体が、押さえつけられた。
「や、め……!」
もがく。
必死になってもがく。
けれど、動けない。
拘束は秒を追うごとに強くなる。
それでも逃げ出そうと、地面に押し付けられた顔を必死に持ち上げて、
「え、す、りあ……さ」
ゴブリンに無理矢理顔を掴みあげられたアイシアと、目が合った。
「アイ、シア……!」
それはまるで、虫にたかられた憐れな獲物のよう。
傷ついた身体は寄ってたかって拘束され、その瞳に宿る光は弱々しい。
「アイシア!」
せめて、せめてと手を伸ばす。
でも、今の私にはそれすらも出来なくて、伸ばした手は面白半分にぐしゃりと踏みつけにされる。
「やめて! やめて、くださ……」
咄嗟に出た言葉は、あまりにも憐れで、情けなかった。
それを聞いたゴブリンたちが、再びギャッギャと喜びの声をあげる。
(あぁ。これが……)
これが、私たちの終着点。
不確かな伝説に縋り、身の丈に合わない無謀な冒険に挑んだ挙句、最後はゴブリンに嬲り殺される。
「ごめんなさい、アイシア」
私は全てを諦め、身体の力を抜く。
もう、何も見たくなかった。
これ以上つらい現実を、見ていたくはなかった。
だから私は、全ての現実から目をそらすように、ゆっくりと目を閉じて、そして……。
――そして、黒い旋風が、世界を染め上げた。
血風が、視界を埋める。
「え……?」
突然、身体を覆う圧力がなくなる。
視線をあげると、私を捕らえていたゴブリンたちが真っ二つに両断されていた。
「な、ん、ですか?」
助かった、とか、命拾いした、なんて安堵よりも先に、混乱が勝る。
「あなた、は……」
気付けば、私たちの傍らには、真っ黒な全身鎧を来た『ナニカ』がいた。
微動だにしないその姿は、初めからあったものならば、単なる置物と錯覚してしまいそうなほど。
けれど。
「ひっ!」
その腕が、閃く。
すると、まるで途中経過を吹き飛ばしたかのように、結果だけが起こった。
数メートルは離れた場所にいたトロールの首が飛んだのだ。
全てが終わって初めて、その黒い鎧の手に、巨大すぎる武器が握られていることに気付く。
鍔のない、優に二メートルはありそうな漆黒の大剣。
そこからは、《闇の焔》とでも表現するしかない禍々しい炎が立ち上っていた。
それは、間違いなく魔剣。
いや、噴き出す闇の炎はまるで、伝説に語られる神器、全てを焼き尽くすという神剣のようで……。
「……待っていろ」
くぐもった声をかけられて、やっとソレが人だと理解する。
そしてその言葉の意味を理解する前に、反射的に私はうなずいていた。
それからは、黒い鎧の騎士の、独り舞台だった。
彼が大剣を振り回せばそれだけで魔物の身体が飛び、命が消える。
たったの、十数秒。
それだけの時間で、私とアイシアを追い詰めた魔物たちは、物言わぬ屍と変わっていた。
あまりにも、あまりにも隔絶した強さ。
その姿はまさに、
「英雄……」
子供の頃、眠る前に母親にせがんだ英雄譚の主人公そのもの。
けれど……。
「――ふひっ! ひっ、ひっ、はっ!」
理解を超えた力を持った圧倒的強者は、彼だけではなかった。
黒い騎士が自らの生み出した魔物を殺しつくすのを見ても、真っ赤な鬼は動じない。
むしろ愉快そうにひょうたんを持ち上げると、それをブンブンと振り回した。
「なっ!」
水滴が、四方八方に飛び散る。
そして、水滴が落ちた場所、地面だけでなく、木の上、岩の上、枝の上でも関係なく、そこから魔物が生まれ出でる。
その数、実に百以上。
私たちは、あっという間に魔物の軍勢に囲まれていた。
「……ちっ!」
漆黒の騎士は、私たちを一瞥した後、再び魔物を屠るべく、動き出す。
その強さはやっぱり圧倒的で、瞬きをする間に数匹の魔物が斬られ、吹き飛ばされ、両断されて地面に転がる。
けれど、その奥で、
「ふひ! ひひひ! ひひっ!」
赤い鬼が、踊り狂う。
ひょうたんから、魔物が飛び散る。
黒い鎧の男が秒に数匹の魔物を殺せば、赤い鬼は秒の内に数十の魔物を産んでいた。
「くっ!」
男の声に、苦渋が混じる。
少しずつ、ほんの少しずつ、黒い騎士の行動範囲が狭められていく。
そうして、不利になることで、見えてくるものもある。
荒れ狂うような剣技は、無軌道無鉄砲に見えて、その実、繊細。
あの巨大な、巨大すぎる剣は、その大きさゆえに近距離の敵を倒すのに適していないのだと、悟ってしまった。
それに……。
「炎が、弱くなっている?」
妖しくも優美な漆黒の大剣。
その纏う炎は、いまだに見ているだけで震えるほどの濃密さを備えている。
だが、戦いを始めた時には燃え盛っていたはずの炎の勢いは、確実に弱まっていた。
無理もない。
戦闘が始まってから、数分。
けれど、もう黒い鎧の騎士は、すでに数百を超え、数千の魔物を屠っている。
むしろ、いまだに戦い続けていられることの方が、奇跡。
(どうか、どうか、女神様! あの人に、あなたのご加護を!)
初めに感じていた恐怖はもうなかった。
ただただ一心に、黒い騎士の勝利を祈る。
けれど、私の祈りとは裏腹に。
とうとう、決定的な瞬間が訪れる。
「っ!?」
剣撃が止まった一瞬の隙。
そんな隙とも言えない隙に、ゴブリンの一匹が鎧の男の背後に組み付き、牙を突き立てたのだ。
騎士の纏う黒い全身鎧は、ゴブリン程度の牙を通すことはなかった。
だが、黒い騎士に生じた動揺は、さらなる魔物の跳梁を許す。
「ガアアアアアア!!」
「グオオオオオオ!!」
トロールが、オーガが、騎士を圧し潰そうと捨て身の特攻を行う。
騎士はそれでも、そこからさらに十数匹の魔物を斬り捨てた。
だが、抵抗もそこまで。
男の姿は、すぐに魔物の群れに埋もれて見えなくなり、
「――はな、れろおおおお!!」
男が地に剣を突き立て、地面が爆発する。
その爆発は男ごと周囲の魔物を薙ぎ払い、吹き飛ばした。
しかし、その代償は大きかった。
あれほど壮麗で傷一つなかった鎧は所々が凹み、傷ついている。
握った黒剣からはもはや弱々しい炎が漏れるだけ。
「く、そ……っ!」
漆黒の騎士から、口汚い罵りの言葉が漏れる。
それは、初めて騎士の男が漏らした弱音。
それでも男は、諦めようとはしなかった。
私たちを庇うように鬼と私たちの前に立ち塞がると、構えた剣から弱くなった炎を吹き上げる。
(……違い、ますよね。庇うように、ではないんです)
分かっていた。
とっくに、気付いていた。
男は一人なら、どうにでも逃げられる。
あるいは包囲を抜けてから戦えば、この魔物の軍勢と互角に戦い続けることも可能だろう。
グッと、唇を噛む。
私だって、命は惜しい。
いや、私だけじゃない。
この黒の騎士が背負っているのは、私とアイシア、それから妹の三人の命なのだ。
でも……!
「――もう、十分です!」
気を失ったアイシアの身体を抱いたまま、気付けば私は、叫んでいた。
理屈なんかじゃない。
この気高い英雄を、慈悲深き騎士を、こんなところで死なせたくはないと、そう心の底から思ったのだ。
「もう! もういいのです! 逃げてください! 今逃げても、誰もあなたを……」
私が自分でも出所の分からぬ熱に浮かされて、説得の言葉を紡いだ時だった。
「――充分だなんて、誰が決めた」
くぐもった、けれど清冽な言葉が、私の言葉を正面から打ち砕いた。
「で、ですが! これ以上は……」
「俺には、やらなきゃいけないことが、ある」
黒い兜の奥から聞こえるのは、想像よりも若々しい、いや、幼さすら感じられる声。
しかしそこには、私などとは想像もつかないほどの強い決意が宿っていた。
騎士は、前へ。
傷ついた身体を押して、前に進む。
その身に宿るは、不屈の意志。
決して折れない、鋼の魂。
「――命を懸けてでも、やり遂げなきゃいけない使命が、あるんだ!」
そう叫んだ直後、強まっていた剣の炎が、消えた。
限界、そんな言葉が、頭を過る。
だが、それはとても不遜な心得違いだった。
「ああああああああ!!」
黒の騎士が、剣を両手で掴む。
炎が消え、魔力の感じられなかったはずの剣から、とてつもない力が溢れ出し、そして――
――瞬間、世界が塗り替えられた。
すさまじい、剣風。
おそらく彼の必殺の技であろうそれは、彼よりも前に立っていた全てを薙ぎ払った。
ゴブリン、オーガ、トロール、そして、赤い鬼でさえ例外ではなかった。
黒の騎士の剣によって生まれた衝撃波はあらゆる魔物を粉砕し、戦局さえも覆した。
「すご、い……」
口から、感嘆の声が漏れる。
あれほど視界を埋め尽くしていた魔物は全て消滅し、残ったのはただの一匹。
「ぐ、ひ。グ、ガアアアアアアアアアア!!」
ひょうたんを投げ捨て、怒りの咆哮をあげる《朱天の鬼》だけ!
「……来いよ。決着を、つけてやる」
騎士はそれを当然のように受け止め、剣を構える。
赤い鬼は血走った目で男を見つめ、そして「神話の闘い」が始まった。
※ ※ ※
「こ、のっ!」
黒い騎士の剣が閃く。
あいかわらず、目で追いきれないほどの剣速。
しかし、
「げ、ひっ!」
赤い鬼の俊敏性は、それを凌駕した。
男の剣が辿った剣閃の先に残るのは、ただ鬼の残像と笑い声だけ。
「ぐ、ひゅふっ!」
「ちっ」
逆に、縦横無尽に地を駆ける鬼の一撃は、騎士の守りを抜き、度々その鎧を傷つける。
もちろん、敏捷性にのみ主眼を置いた鬼の拳は、黒の騎士の鎧に阻まれ、有効打となるには至らない。
……今は、まだ。
けれど、鬼の一撃は的確に、じわじわと騎士を追い詰めていた。
(このままじゃ、駄目だ)
騎士の操る剣に以前の勢いはなく、あれほど強い魔力を感じていた炎も、斬撃の一瞬に弱々しく吹き上げるだけ。
そのせいで、彼の剣は俊敏な鬼を捉えきれないでいる。
(何か、何か一押しがあれば……)
あるいはそう。
一瞬、一瞬だけでも隙を作れれば。
そして、今その一押しが出来るのは自分だけだと、私にははっきりと分かっていた。
でも……。
(怖い……)
朱天の鬼の、あの邪悪を煮詰めたような嗤いが耳にこびりついて離れない。
そして、あの圧倒的な力。
あの鬼が本気だったら、最初の数秒で私もアイシアも何も出来ずに殺されていた。
いや、それは今も同じだ。
もしひとたびあの鬼に狙われてしまえば、ほんの一秒で私は殺されてしまう。
「アイシア……」
腕の中で眠る幼馴染を見る。
彼女には無茶をするな、と散々叱られた。
けれど今、あの黒の騎士が倒れてしまえば今度襲われるのは私とアイシアだ。
そして、あの鬼の暴虐に、私たちが打ち勝てる可能性は万に一つもない。
だったら、答えは、一つ。
今、無茶をしないで、いつするというのか。
私は立ち上がり、そしてこの神話の闘いに介入することを、決めた。
……怖い。
身体は震え、杖を握る手には力が入らない。
……怖い。
身の内に眠る魔力はあまりにささやかで、自分がいかにちっぽけな存在なのか、否応なしに自覚させられる。
……怖い、けど!
それでも、私たちを庇って戦い続ける彼の背中を見ていれば、立ち上がるだけの力が湧いてきた。
「――ラスリアン公爵が娘、魔導士エスリアーナ! 参ります!!」
自らの内に潜む怯懦を打ち払うように名乗りをあげる。
そして、
「騎士様!!」
叫んで、最後の最後、自分の底の底にある魔力までをもかき集めて、スペルを紡ぐ。
「――《レイソルド》! 《ラーシルド》!!」
その魔法は、ただの補助魔法。
攻撃と防御を高めるだけの、何の変哲もない中級魔法だった。
でも、それが、あたかも最後のピースであったかのように。
漆黒の兜の下で、彼が笑ったのがはっきりと感じ取れた。
漆黒の騎士から、迷いが消えた。
優美とすら言える動作で、彼は左手をあげる。
その手が示す先には、怒り狂う鬼。
それは、さながら処刑宣告だった。
彼は何かを呟いて、それからゆっくりと、右手の剣を引いて……。
――何気ないその動作が、最後の戦端が開かれる、合図となった。
赤鬼の立つ地面が爆発する。
一瞬だけ、そう錯覚した。
爆発と見紛うほどの勢いで赤鬼が地面を蹴ったのだと気付いたのは、赤鬼の拳が、騎士を捉えた後だった。
「騎士様っ!!」
絶望の叫びが、口から飛び出す。
けれど、
「え……?」
漆黒の騎士は、小揺るぎもしない。
拳をその兜にぶつけるように受けながら、ただ、剣を持った右手をたわめ……。
「ぎ、いっ?」
そこで、赤鬼が初めて「怯え」を見せた。
自慢の俊足で、騎士から逃亡しようとする。
だが、朱天の鬼が飛び退るよりも、速く。
黒い雷が、空を駆けた。
「――終わり、だ」
闇を纏った断罪の剣が、振り下ろされる。
――終幕は、刹那。
最後の抵抗も、断末魔の叫びすらも、そこにはなかった。
闇よりもなおも暗いその漆黒は朱天の角を両断し、その醜悪な顔を粉砕。
ついに恐るべき怪物の息の根を止めたのだった。
※ ※ ※
朱天の鬼が消え、騎士がその身体を魔石に変えるのを、陶然と眺める。
漆黒の鎧に包まれた彼の姿は謎のヴェールに包まれて、その素顔すら分からない。
ただ、なぜだろう。
その姿を見ているだけで、ドクンドクンと、鼓動が煩いほどに鳴り響く。
「終わった、な」
騎士の言葉に、我に返る。
朱天の鬼との戦いは、終わった。
彼も私も、それから私が巻き込んでしまったアイシアも、幸いながら無事に生き延びることが出来た。
しかし、私はただ喜んでいる訳にはいかなかった。
今から私は最低の卑怯者に、誰よりも卑しい物乞いにならなければならないのだから。
「騎士様。命を救って頂き、ありがとうございました」
深々と、可能な限りの想いが伝わるように、深々と頭を下げる。
これで終われたら、どんなにか幸せか。
脈打つ心臓の誘う甘い誘惑に、流されそうになる。
けれど、生き残ってしまったのだから。
望みが生まれてしまったのだから、私が取るべき道は決まっていた。
「その上で、こんなお願いをする私を、どうか軽蔑してください」
黒い鎧は、何も語らない。
そのことに浅ましい勇気を得て、私は恥知らずな望みを語る。
「――その一輪花を、私に譲って頂きたいのです!」
癒やしの一輪花。
病に倒れた妹を救う、ただ一つの希望。
本来、彼が私たちに花を譲る理由は何一つない。
あの鬼を斃したのは徹頭徹尾彼一人の力で、私たちは足を引っ張ることしか出来なかった。
それどころか、窮地を救われさえした。
それでも、妹の命を救うためには、彼の慈悲に縋るしかもう方法はない。
自分の惨めさ、浅ましさに、涙が出そうになる。
けれど、私は唇を噛んでグッと堪えた。
ここで涙を見せてしまえば、それで高潔なこの騎士の心を動かしてしまえば、私は本当にこの騎士に顔向け出来ない。
そんな最後の矜持だけが、私を支えていた。
「私に出来ることなら、何でも致します! だから、だからどうか、あの一輪花を……」
再び、大きく大きく、頭を下げる。
いや、ただ、怖くて顔を上げられなかっただけかもしれなかった。
……答えは、なかった。
ただ、ザッザと音を立てて離れていく足音だけが、返答だった。
「う、ぐ、ぅ……」
下を向いたその目から、涙がこぼれる。
これが自分の愚かさが招いた当然の結果だと、軽蔑されて、見捨てられて当然のことを言ったのだと分かっていても、涙が次から次へとこぼれてきて、止まらなかった。
だから、だろうか。
「――ほら」
くぐもった声が上から降ってくるまで、私は彼が近くに来ていたことにも気付かなかった。
「えっ?」
反射的に、顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔を、隠す暇もないままに、
「必要、なんだろ」
ぶっきらぼうな言葉と共に、一輪の花が押し付けられる。
思わず受け取ってしまってから、それがまぎれもない《癒やしの一輪花》だと、一年に一度しか咲かない伝説に語られる花だと気付いた。
「じゃあ、な」
混乱する私を置き去りに、踵を返して立ち去ろうとする彼を、慌てて引き留める。
「待って! 待ってください! あ、あなたもこの一輪花を取りに来たはずです! それを、こんな風に……」
「……俺の用事は、終わった」
そう言って、彼は振り向くことすらせずに、歩き去ろうとしていた。
でも、そんな言葉だけではとても納得出来ない。
必死だった。
何が自分を駆り立てているのか自分でも分からないままに、無我夢中で追い縋った。
「そんな、そんなはずがありません! ここに来て、一輪花を求めないなんて、そんな……」
黒の騎士は、自分の腕にしがみつく私をどこか困ったように見つめると、躊躇うように静止する。
だが、しばしの時間を置いて、腹を決めたかのように再び動き出すと、懐から一枚の紙を取り出して私に差し出した。
「これが、俺の用事だ」
何かの書状、だろうか。
恐る恐る、目の前に差し出された紙を受け取る。
「っ!?」
震える手でその紙を手に取って、そこに書かれていた文字を目にした瞬間、私は思わず口元を手で覆い、叫び声をあげそうになってしまった。
なぜなら……。
なぜならその紙には流麗な文字で、こんなことが書かれていたのだ。
―――――――Eランク昇格試験――――――
Fランク冒険者
ヒューガ・サザナミ 殿
Eランク冒険者にふさわしい実力を示すため
一角鬼を討伐し、その魔石一個を納品すること
ライクルス冒険者ギルド支部
――――――――――――――――――――――
ヒューガ君、Eランク昇格おめでとう!!




