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天使達の言うとおりだった。
その記憶自体は、まさに戯言だった。
誰にでもある、陳腐な体験談。
半年もすれば笑い事になる、くだらない出来事の一つ。
当時、僕は一人の美しい少女に初恋をしていた。
相手はクラスのマドンナ的存在だった。それなりに分を弁えていた僕は、告白なんてせずに、ただ思うだけの日々を過ごしていた。
だが、不器用だった。
僕の思いは、直ぐに相手に察知された。
そして――僕は彼女から、狂兄を理由に酷い拒絶をされた。
僕をからかう事に夢中になっていたクラスメイトたちは、殊更それをネタにして、僕を追いこんだ。
くだらない話だ。
本当に、本当にくだらない記憶だ。
「なに泣いてるんだお前?」
彼女に拒絶された日。
屋上へ続く階段の踊り場で蹲る僕に、兄はそう声をかけてきた。
「うるさいよ」
しゃくりあげないよう必死に、僕は短く言葉を返す。
「おい、お前まさか虐められてるのか?」
虐められている、中学生にもなって。その事実は僕の自尊心を酷く傷つけていた。
「……うるさいって」
「おい、言え。誰だ、誰にやられた、教えろ」
「うるさいって言ってるだろ!」
僕は思わず咆哮を上げた。
辛かった、苦しかった、屈辱的だった。だから目の前の兄が、全ての元凶に思えた兄が許せなかった。その兄に心配される事が、堪らなく不愉快だった。
「誰にやられたか教えてやろうか――」
僕の剣幕に、兄はたじろいでいる。
「――兄貴だよ! お前のせいで! 僕は虐めらてるんだよ、お前のせいで僕は苦しんでるんだよ――」
言葉が、感情が、溢れる。
「――お前のせいで僕の人生はめちゃくちゃになったんだよ! お前のせいで母さんは死んで、僕は居場所がなくなってるんだよ、わからないのか? 全部お前が悪いんだよ!」
兄は何も言い返さない。
ただ、酷く悲しそうな瞳で、僕を見つめていた。
「なぁ、兄貴頼むよ、頼むからこれ以上僕の人生を壊さないでくれ、頼むから――」
――死んでくれ。
「故に私達は警告をしました、『思い出すべきではない』と――」
屋上にたどり着いた僕に、三人目の天使がそう言い放った。
「――皆が被害者です。貴方も、貴方のお兄様も。真に罪を負うべき人間は一人も居ない、虚しい物語です」
天使の姿はこれまでの中で一番奇妙だった。
顔には鬼の面が付けられ、体は無数の嚢の集合で構築され、背中からは膨大な量の羽が生えている。
しかし、よく見るとその羽は、羽ではなかった。
ぼろぼろに破けた学生服の白いシャツが風になびき、まるで翼のように広がっていた。
「でも、兄を殺したのは僕だ」
僕が兄に「死ね」と言った。
兄はその後、僕の視界から消え、僕のクラスへと向った。
そしてクラスメイトたちに暴力の嵐を叩きつけた後、ボロボロな姿になって僕の前に戻ってきた。
「迷惑かけたな」
兄はそう言って踊り場を通り過ぎ、屋上に出た。
クラスメイトたちの抵抗の跡か、彼のシャツの背中はズタズタにやぶれていて、それが風に舞い、まるで翼のようだった。
そして兄は飛び降りた。
「私達が如何に否定しようとも、貴方は『兄殺し』の罪を背負うのです」
僕は卑怯者だ。
兄を殺し、そしてその事実をあえて忘却していた。
兄は天使になった、などという都合の良い幻想にすがり、事実から目を背けていた。現実を幻想と取り替え、世界から逃げていた。
兄は身勝手だった、酷い人間だった、人のことを何とも思わない餓鬼だった。
でも僕のことだけは、大切にしていた。
僕の事だけは、真摯に考えようとしてくれていたんだ。
「私達三天使は、貴方の罪に対処すべく天から使わされました。一人は忘却を行うため、一人は忘却を続けるため、そして私は……」
天使の右手には、いつのまにか銀色の剣が握られていた。
「……全てが失敗した時の事後処理のため」
刃の表面は、まるで海面のように怪しく揺らめく光を放っている。
「貴方は断罪を望んでいますね、償いを求めていますね」
「償いなんて、できるわけないだろうが」
兄は死んだ。死んだ人間は蘇らない、死んだ人間には何もできない。
母が死んだとき、それを嫌というほど実感していた。
「だから貴方は、死を望んでいますね」
そうだ。
僕は……自分が許せない。
兄を殺し、のうのうと生きてきた、自分が。
「私は貴方の、その感情を処理するためにここに居ます」
天使は刃を両手で持ち、体の前で構えた。
「首をこちらへ、清算を行います。貴方は兄の昇華したこの場所で、その命を絶つことを望んでいるはずです」
その通りだった。
僕は……僕はもう自分を許せなかった。
ゆっくりと、天使の元へと歩みよる。
「死は究極的な無です。ですが、それが時に救いとなる。あなたのようなこれ以上の有を望まない自罰的な人間には」
天使が僕の首を掴んだ。
まるで万力のような力で、僕の気は一瞬遠のいた。
「どうか貴方の世界から安寧が取り除かれ、それが救いとなりますように」
刃が振り上げられる。僕は一切の抵抗をせずに、身をゆだねようとした。
……馬鹿が、そんなくだらない出来事、さっさと忘れろ
兄の声が聞こえた。
兄が、とても怒ってるような気がした。
「どうしました?」
僕は薄れ行く意識の中、必死に手を動かして腰の銃を掴んだ。
「はい?」
困惑した声、僕は銃口を天使の額に突きつける。
「……天使なんて、いるわけねぇだろッ」
引き金を引き絞った。