表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/10

 戦禍で記憶をなくしたのは僕だけじゃない。

 大勢の人間が、当時の記憶が曖昧になっている。

 その原因は「汚れた炎」による意識障害だけでは無いと思う。

 人間は、そういう風にできているんだ。

 自分の心に強い感情を呼び起こす過去を「笑い話」として、矮小化して忘却していく機構が人間の脳には備わっているんだと、僕は思っている。

 そうしないと、人間は生きていくことができない。過去の価値を低く評価しなければ、積み重なっていく自身の履歴に現在が押し潰されてしまう。

 だから僕の、この過去を求める旅は、全てが間違っているように、全てが無意味なようにも思えた。

「そうだよ、無意味だ。最初からわかっていた事だろ」

 自嘲気味にそうつぶやくと、僕は再び立ち上がる。維持機器が退避勧告を音声で発してきたが、気にも止めなかった。

 記憶が回復しつつある、そんな手ごたえがあった。このまま進めば、兄の最期の日に何があったかを思い出せるのではないか、そんな期待もあった。

 先ほどの天使の言葉、それについては考えないことにした。頭が狂った時に幻視した存在の発言なんて、まともに取り合うだけアホくさい。

「だいたい……天使なんているわけないだろ」

 教室を出て、廃墟と化した校舎の廊下にでる。この階は一段と崩壊が進んでおり、ところどころ大きな穴まで開いている。

 危なかった、下手に幻覚状態のまま歩いてたら死んでいたかもしれない。

 僕は慎重に足場を確認しながら、歩を進める。

 

 

「死ぬのは怖いか?」

 母の墓参りの日、兄は僕にそう尋ねた。

 酷く日差しの強い日だった、暑さとセミの鳴き声と弱い風の音だけが世界に流れていた。

「兄貴は、怖くないのかよ?」

 僕の問いかけに、兄貴は笑う。

「昔は怖くなかったよ。死がなんだかわからなかったから――」

 そう言うと兄は母の墓石に水を大量にかけた。

「――母さんが死んだ時、やっと死の意味がわかった」

 僕も倒れた花筒を手に取り、洗い始める。水の冷たさが非常に心地よかった。

「それは遅すぎだよ兄貴」

「ほんとだよな」

 兄が雑巾を僕に差し出す。僕はそれを受け取って二人で墓石をこすり始める。

「俺は自分が死ぬのが怖くなかったから、死が嫌いじゃなかった――」

 墓石をはさんで、兄の言葉が聴こえる。

「――でも、大事な人が死んで始めて死が怖くなった、嫌になった」

 兄の表情は見えない、ただ雑巾のガシガシという音だけが聞こえてくる。

 僕は黙って兄の言葉を聞いてた。

「同様に暴力も、嫌いになった。それが死に近い物だと思うとな。自分の大事な人にそれを向けられなくなったし、向けられるのが許せなくなった」

 いまさらかよ、という突っ込みが飛び出そうになったが、僕はそれを飲み込む・

 それよりももっと気になる事があったからだ。

「兄貴、この前のケンカの時に殴らなかったのは、それが理由なの?」

 兄は何も答えず、その表情もまた見えなかった。

「馬鹿が、そんなくだらない出来事、さっさと忘れろ」



 今の記憶……ずっと忘れていた。

 そういえば、そんな事があったような気がする。でも、何時の出来事だったか詳細は思い出せない。

 完全に、忘れていた記憶だ。

 汚れた炎の力か、「記憶の片隅」だとか「忘れかけてた」とかそんな次元ではない、脳のなからから消滅したはずの思い出さえ鮮明に蘇りつつある。

「凄い、これなら、きっと」

 僕は懸命に廊下を進む、そしてついに、屋上へとつながる階段を見つけ出した。

 その階段の前には、また別の天使が立ちふさがっていた。

 

 天使の格好は先ほどのと殆ど同じ。学校の制服を着て、背中から翼を生やした子供。

 ただ今度の天使の服装はブレザーを羽織っていない、シャツだけの軽装で、また首から上が無かった。

 首にはまるで花弁のような真赤で生々しい断面がこれ見よがしに露出している。

「なぜ、お前は引き返さない――」

 首の断面から音が響いた。

「――お前は願いを叶えたのだぞ? なぜそれをわざわざ捨てるような真似をする?」

「なんなんだ、お前らはさっきから」

 天使は言葉を発するたびに、その切り口がブシュブシュと血を噴出していた。

「お前が罪悪感を持つ必要はない。お前達は不幸な兄弟だったのだ。ゆがんだ家族、不完全な両親、全ては不幸の連鎖だ、この物語に被害者はいない」

 僕は銃を引き抜き、その天使に向ける。

「お前達は……僕が記憶を故意に消したと言ってるのか?」

「否、条件が揃い、願いが果たされただけだ。故意の一切ない完全な偶然、天と人からの贈物『戦禍』によってお前の願いは果たされた」

 銃の狙いを、天使の心臓にあわせる。

「答えろ、僕は何を忘れた!」

「お前の兄はただの不幸な人間だ、家庭に恵まれず、発達障碍を持ち、社会に馴染めず天使へと昇華した。その物語にお前は存在しない。お前の干渉する余地なぞなかった」

「質問に答えろ!」

「お前の兄の思考は正しい、全ては時が戯言にする、追い求めるは虚無だ」

 引き金を絞る。

 弾丸が放たれ、天使の胸を穿った。

 天使は糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。

 天使の死体はぐずぐずと溶け始め、そして広がり始める。

 肉が粘菌のように脈動と拡大を高速で繰り返し、周囲のコンクリートの壁を多い始める。

 天使の後ろにあった屋上への階段は、増殖していく天使の肉によって瞬く間に異界の様相へと変わり果てた。

 

〔それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように〕


 青白く脈動する外壁、まるでカサブタのように膨らみ剥離を始める謎の膿。

 天使がつくりだした、その奇怪な階段を僕は上る。

 抑制剤はもう1本しか残っていない、いまここで打つわけにはいかない。

 僕はゆっくりと慎重に、その階段を一段一段と登っていく。

 階段の踊り場には、大きな卵が設置されていた。

 これまでに見たどの卵よりも巨大であり、複雑な模様が表面に走っている。

 この卵の中にもまた、僕が忘却した記憶が入っているのだろう。

 僕はナイフを取り出すと、再び卵を引き裂く。

 硫黄の匂い、紫色の粘度の高い液体、そして――

 

 ひとりの美しい少女が、引き摺り出された。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ