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 やっとまともに上れる階段を見つけ、二階に上ったたときには、再び強い幻覚が僕の世界を支配し始めていた。

 奇妙な人影が廊下にひしめいている。

 黒くもやもやとした人型の塊、そしてその曖昧なアウトラインとは対照的に、眼球の造型だけは妙に精密で強調気味だ。

 影法師たちは、全員が全員その眼球で僕を見ていた。僕がどう動いても、まるで蟷螂の瞳の様に視線の群れは僕を追跡しつづけた。

 その幻覚が表す物に、僕は簡単に思い当たれた。

「他者の視線」

 あのイカれた兄の弟、そんな好奇の視線を僕は高等部校舎に入るたびに向けられていた。

 大勢の上級生が、ただ舐めるような視線を送るだけ、絡んでくるような人間は一人も居ない。兄が怖いからだ、彼は意味不明な理由でキレ、無意味な暴力の嵐を巻き起こすからだ。

 その視線がたまらなく辛かった、自尊心がガリガリと削り取られていく感覚が耐えられなかった。

 

 

「何も思わないのかよ、兄貴」

 僕の問いかけに、ソファーの上でゲームに夢中になっていた兄はわずらわしそうな視線を一瞬だけ向けた。

「なんだよ、なに言ってんだお前は」

 兄は随分とバツが悪そうだった。それもそのはずだ、兄はつい先ほど学校で大きな問題を起こし、それから逃げだしてここにいる。

「何も、思わないのかよ」

 兄は学校の制服も脱がず、ヒビの入っためがねを掛けたまま、お気に入りのゲームで気を紛らわせていた。

 くしゃくしゃになった制服のシャツが、兄の混乱と怒りと乱暴さを顕しているように思えた。

「俺に、何を、思えって?」

 兄はゲームのコントローラを乱暴に投げ捨て、僕に食って掛かってきた。

「なんでそうやって……なんでも直ぐに人事になれるんだよ」

「は? なんだそりゃ?」

 兄はへらへらと笑う。だが、そこにはいつものような余裕は無く、あからさまな皮肉と嘲笑に満ちた態度。今思えば、この時兄にも精神的な余裕はなかったのだろう。

「人に、迷惑をかけたんだぞ」

「知らねーよ、あいつらが悪いんだよ」

 僕はため息を漏らし俯く。

 もう全てが馬鹿らしかった、不快だった、いやでいやで堪らなかった。気が付くと、涙が零れ始めた。

「なに……泣いてんだよ」

 理由は僕自身にもわからなかった。

 ただただ惨めだった、全てが。

「あのさ、お前な――」兄がいつもの口調で語りだす。大仰で自信に満ちた口調で。「――そんな事を気にしてどうすんだよ。いいか? 大抵の悩みなんざ半年後には笑い話になってんだよ。俺たちガキの悩みなんざぁ、まともに抱えるだけ無駄なんだよ。さっさと忘れちまえ」

 その説教は兄の一面をよく表していた。学校の同級生全員を、自分以外の他人をみんな馬鹿にして、自分勝手に生きる傲慢な人間。

 だから兄は、僕と違って他人に苦しめられたりはしない。

 僕がどんなに周囲の視線に苦しんでも、元凶の兄はケロリとしている。

 

 

 

 ふざけるなよ

 

 あれほど僕を追い詰めて。

 あれだけ僕を苦しめて。

 どうして……

 どうしてお前が自殺するんだ。

 僕に苦しみを無限に押し付けたお前に、自殺する理由なんてないだろ。





「じゃあ、母さんを追い詰めて殺したことも、笑い話なのか。それでもう忘れてるのか」

 僕がそう返した瞬間、兄は逆上した。

 目にも留まらぬ速さで僕に飛び掛り、強引に押し倒すと、そのまま馬乗りになり、殴ろうとした。

 でも、兄は殴らなかった。

 僕の上で、拳を振り上げた体勢のまま、固まっていた。

 僕は近くに転がっていたゲームのコントローラーを手に取ると、それで兄の頭部を打った。

 兄は獣のような悲鳴と共に転がった。解放された僕は直ぐに兄を上から押さえ込み、何度も何度も殴りつけた。

 拳から血が噴出し、カーペットを汚した。

 涙は止まらなかった。

 











「視線の幻覚」はそれほど辛くなかった。

 当時の羞恥心や、劣等感などがまざまざと呼び起こされたが、それでもなお僕の心は乱れなかった。

「半年後には笑い話になってる」

 兄の言葉通りになったような気がして非常に癪ではあったが……まぁ仕方ない。

 僕は視線の群れを抜け、3階へとあがる。

 3階には、もはや校内とは言えない、珍妙な空間が広がっていた。

 床や天井はコンクリートではなく、羽毛の様な色合いの肉で構築されていた。その壁肉は力強い光をまだらに放ち、嫌に明るい。

 教室、廊下、そういった構造だけは学校そのものだ。でもポスターや消火器や窓のような、学校らしいディテールが完全に消えてしまった。

「なんだ……これは」

 僕は臆することなく廊下に踏み出す。肉で出来た床はかすかに拍動していて、踏み心地が悪い。

 教室の中を幾つか覗いてみる。どこの教室にも、黒板や机は無く、代わりに無数の大きな卵のような白い球体が整然と並べられている。

 意味不明な世界だ。光と白と肉に満ちた、こんな記憶は僕の中に存在しない。今までの幻覚と違い、自分過去に関係した物を何一つ感じない。

 僕は適当な教室を選び、その中に入る。

 半径1mほどの奇妙な白い肉の卵、それが20個ほど部屋に並べられていた。

 卵の上半分は艶があるほどにフラットだが、逆に底面に行くほど皺が増え、床との設置面には奇妙な細い糸が無数に生えて蠢いている。卵の表面にそっと触れて見る。カチカチの殻を想像していたが、厚くて脆い謎の材質だった。

 僕は十得ナイフを取り出すと刃を出し、そっと卵の表面につき立てた。

 熱いナイフをバターをに突き立てたかの様に、滑らかに切り裂かれていく。

 切り口から紫色の生暖かい液体が零れ出した。かなりの粘性があり、また硫黄のような腐敗臭があたりに立ち込める。

 僕はそのまま卵を縦に大きく切り開く、大量の不愉快な液体が流れ出る。プチプチプチと奇妙な音をたてながら卵自体が収縮を始める。

 僕はべたついた十得ナイフを床に投げ捨てると、手を卵の中に突っ込んで中身を引きずり出した。

 中身は人間だった。

 裸の子供、男、牛の出産のように粘液にまみれた男の裸体が外へと引きずりだされた。

「……なんだこれは」

 少年は息をしていない、脈も無い、まるで人形だ。

 顔を掴み、粘液を念入りにこそぎ落す。顔立ちがはっきりと見えてきた。だがその顔に見覚えがなかった。

「……いや、僕はコイツを知ってるぞ」

 記憶の奥底に、かすかにこの少年の痕跡がある。

 僕はその顔を十五分近く凝視し続けた。そして、やっとそれが誰か思い出した。

「お前・・・僕をからかってたやつか」

 当時のクラスメイトの男子の一人だ。入学式からうまが合い、しばらく仲良くしていたが、兄の事で僕をからかい始め、最終的には決裂した奴だ。

 その記憶をきっかけに、忘却の彼方に沈んでいた幾つもの記憶や感情が蘇ってきた。

「そうだった、僕は、虐められてたんだ」

 この少年は、僕の事を目の仇にした。ことある毎に兄を使って僕を侮辱した。そして、同級生達はそれを面白がった。僕はそれが、ただひたすらに辛かった。

 僕はゆっくりと自分の心臓に手を当てる。当時の感情の渦が噴き帰し、僕の胸を締め付ける。

 その時――

「どうして……戻ってきたの?」

 突然背中から声が掛けられた。

 僕は急いで振り返る。

 そこには、一羽の天使が立っていた。

 鏡のお面をつけ、この学校の制服を着た、白い翼を生やした子供が。

「なんだ、お前」

 僕はそっと腰の拳銃に手をのばす。

「忘れたのは君自身だ、君がそれを望んだ、そしてそれは『戦禍』という正当な理由によって叶えられた」

 甲高い声で天使は一方的に語り続ける。

 僕は留め金をそっと外し、銃をいつでも抜けるようにする。

「何を言ってるんだお前は」

 天使はゆっくりと僕の方へと歩み寄り始める。

「いまさらそれを思い出して、なんの意味があるんだい?」

「……納得するためだ」

「兄の鎮魂のため? この行為が本当にそんな意味を持つと? 『半年後には笑い話』彼の言うとおりだ、君は何時まで無価値な過去を引きずるんだい?」

 ホルスターから拳銃を抜き、天使めがけて3発の銃弾を放つ。

 天使の体が粉々に砕け、鋭い刃となり、僕に襲い掛かる。

 灼熱のような痛みと共に、体が引き裂かれる。傷口から紫色の硫黄が噴出す。

 天使の砕けた体が次々と卵を引き裂き、中身が外へ滑り出す。全員が当時僕を嘲笑していたクラスメイト達だった。僕が硫黄を吐き、跪く姿を笑い始める。

 限界だ。

 僕はちぎれかけた腕で注射器を取り出し、抑制剤を首筋に打ち込んだ。

 天使の拍手。そして笑い声が遠のき、硫黄の匂いが掻き消えていく。

 

 あとに残ったのは、朽ち果てた校舎と銃弾で割られたガラス、そして少し手を切っただけの僕の無様な姿だった。

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