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4.『大西 流のけじめのつけ方』
次の日の放課後。
青空に見守られる中、僕は神谷さんと屋上にきていた。
流れる風は肌の神経を逆撫でする。これから行うことを思い描いて、僕は武者震いしていた。
数分経って扉が開く。
「……なんだお前かよ、サンドバック。ま、女ではないだろうと思ってたけどな」
扉から凶悪な顔がのぞく。僕の恐れの象徴として一番に候補に上がる人物、佐波エイジ。
ギラギラとした三白眼は、やはりいつ見ても恐ろしいものだった。
だが、引き下がるわけにはいかない。ここで挫けていては、目的を果たせない。気という気を全て張って、自分を冷静に保ち、本題を切り出した。
「佐波エイジ。僕は、今日ここで決闘を申し込む」
「あ? 決闘? お前が、俺に? ハッハッハッ! 寝言は寝て言え。冗談を言うにしてももっと洒落たことを考えてこいよ」
真剣な僕に反して、佐波は大笑いする。
「僕はまじめだ!」
叫び声をあげると、佐波は直ちに無表情になった。
彼の表情の変化を見届けて、決闘の条件を口にする。
「決闘の条件は三つ!
一つ。決闘は三ヶ月後の今日に行うこと。
二つ。僕がお前に勝ったら、もう僕をいじめないこと。他の人を利用して僕をいじめるのもやめろ!
三つ。この決闘に僕が負けたら、中学の時のように僕を好きにいじめてもかまわない。神谷さんにももう守ってもらわない。これが条件だ」
そう話して、僕は神谷さんに視線を送る。それに、彼女は頷いた。
「ちょっと待て」
と、そこで佐波は抗議の声をあげてきた。
「これだと俺にメリットがない。俺が勝っても、今までとは変わらないままだ。決闘の条件をそうやすやすと飲み込む訳にはいかねぇ。そうだな、……もし俺がお前に勝ったら、そこにいる女は俺のものになる。それで、どうだ?」
佐波は、僕の隣にいる神谷さんを指で示した。
何度見返しても僕の目に幻が写っているわけではない。佐波の指は明らかに神谷さんを指している。
動揺した。
僕の背中では背負うにも背負いきれないものが、勝敗にかかっているのだ。
驚き顔のまま固まった状態の僕に、佐波は詰め寄る。
「もとより、お前が作って持ってきた条件をそのまま飲むのはフェアじゃねぇ。この条件が飲めないってんなら、この話は無しだ。―――さあ、選べ」
(そんな条件、飲めないよね……?)
藁にもすがるような思いで僕は神谷さんに視線を送った。
真剣な目と僕の落ち着かない目があった時、神谷さんは無情にも頷いた。
「流くん……。私のことは心配いらないから。だから、この条件でかけよう―――」
「で、でも、もし僕が負けたら神谷さんは……」
「私は君を信じる」
信頼の言葉に絶句した。
「好きでもない男と、付き合うことになるかもしれないんだよ!?」
僕は神谷さんを思いとどまらせようとした。
「わかってる。でも、君ならできるって、私、信じることに決めたから」
彼女に、信じると再び強く言葉にされて。
思いを受け取ってようやく、決心がついた。
一度だけ、緊張に乾いた喉を唾液でぬらしてから、
「……うん」
力強いうなずきを神谷さんに返した。
「その条件で、受けるよ」
信頼に基づいて、僕は佐波に了承の返事を返した。
「ハッ! 黙って聞いてりゃあ、おめでたいこった! ……まあいい。これで三ヶ月後に可愛い彼女が手に入るんだからなぁ」
目を細めて神谷さんに視線を送る佐波を僕は睨みつける。今のは明らかに卑下た視線だった。
卑怯な手で負けてしまうことのないよう、最後に僕は確認を取る。
「条件は、破るんじゃないぞ」
「やぶらねぇよ」
適当に返事をして帰ろうとする佐波にもう一言。
「あと! 決闘は一対一だからな!」
「うるせぇな! 当たり前だろが!」
僕が念には念を入れて言質をとった後、佐波は屋上から出ていった。
「ふう……」
緊張感が解けて、精神的な疲労が一気に押し寄せる。
おもわずへたり込んでしまいそうになった。
「頑張ったね、流くん。……すこし、休む?」
「いや、時間は有限だし。立ち止まっては、いられない。……はじめよう、特訓」
「……うん、わかった」
夏の匂いを乗せた風が屋上に吹く。
春は夏へと移り変わろうとしている。
それと同じように僕も、過去の自分とさよならして、変化するのだ。
先に待つのは明るい未来か、暗い未来か。わからないが、ようやく足を一歩前に踏み出せたと僕は思う。
5.『大西 流と魅惑の回し蹴り』
「それで、特訓なんだけど、何をするの?」
決闘を申し込んだ直後、僕は気になっていたことを神谷さんに問いかけた。
彼女はそれに答えない。しばらく屋上の中央まで無言で歩いたのち、立ち止まった。
ピンク色の髪を風になびかせている神谷さんは、腰に手を当てたまま背を向けている。
ただならない雰囲気に僕は不安を覚えた。神谷さんがぬるくないと評した特訓はどんなもので、僕はそれに耐えうるのか、心配だったからだ。
もちろん、覚悟はある。だが、覚悟は完全に不安を消し去ってくれるほど万能でもない。
わずかに赤みがかった空を背景に、神谷さんの姿が映える。唐突に振り返ると、彼女は特訓の内容を告げた。
「流くん、かかってきて」
「……えーっと、それは手合わせってことでいいのかな……?」
「ええ、そうよ」
神谷さんと僕の力量には天と地ほどの差がある。一度も戦ったことはないが、そんなことは誰の目にも明白だ。
「どうしたの? 始めましょう?」
訓練が始まって一瞬でノックアウトなんてことになったら嫌だし、気絶してしまえばそれは時間の無駄でもある。
「僕と神谷さんじゃあそもそも戦いにならないんじゃ……」
「心配いらないわ。 手加減はちゃんとするから」
「そ、そう……」
この前神谷さんの金的蹴りを受けたあの不良は、病院送りになっている。噂によると不能になったのだとかなんとか。
不安は残るものの神谷さんに頼るしか僕に選択肢は残されていない。
仕方ない。彼女の言葉を信じよう。
「急所はできるだけ外して、お手柔らかに、お願いします……」
「うん、わかってる……。それじゃあ、きなさい」
神谷さんの表情が一気に険しくなった。いつもの優しげな表情はそこにない。いわゆる戦闘体制に入ったのだろう。
通常とはあまりにも異なる雰囲気を放つ神谷さんに、息を飲んだ。
神谷さんと手合わせするために、僕も心の準備をする。
息を吐いたところでお腹に力を入れ、僕は駆け出した。
「はぁぁぁぁぁぁ!」
戦い慣れしていない体から、パンチを次々に打つ。
神谷さんはいずれの攻撃もたやすくいなした。ちょうど八発目のパンチを放った時、バックステップで大きく神谷さんは僕から距離をとる。
再び僕が神谷さんに肉薄しようとした時だった。
「はぁッ!」
神谷さんが左足を一歩踏み出すと同時、勢いよく持ち上がるみずみずしい太ももによってに揺れていたスカートが、大きくめくれ上がる。
「……ッ!」
ある存在に視線を刈り取られた。
動いていた体が一気に止まってしまう。
「ぶへぇッ……!?」
やがて、飛んできたまわし蹴りが頰を盛大に陥没させる。
蹴られた箇所は一箇所であるにもかかわらず、頰から肩へ、肩から胴へと衝撃はし、まるで体全体が技を受けたのではないかというほど、僕は軽々と吹き飛んだ。
オレンジに染まった空と、硬そうな灰色の地面が視界を席巻したのち、地面に衝突。ついでに屋上の床を転がった。
「……」
「あ、あれ? りゅ、流くん……? もしかして、強すぎた……?」
中途半端に開いた瞼には、白い靴下を履いた神谷さんの足が映り、ぼんやりとしか音を受け取らない耳はその機能を徐々に放棄していく。
これまで幾度となく神谷さんの戦闘を見てきたが、それだけではわからない彼女の規格外さを実感する。
鼻の下に流れる血の奔流を感じつつ、不躾ながら思い出した。
(白、か……)
僕は気絶した。
暗闇に沈んでいた意識が明るみに向かって浮上した。だが、目を覚ましたとき特有の目に染みるような光の存在はない。
空一面に点在する星が黒い夜空を彩っていた。
「かみや、さん?」
体をおこし、首を巡らせ周囲に神谷さんを探す。が、彼女の姿はどこにも見当たらない。
(先に帰ってしまったのかな……)
そう思った時。
「おはよう」
神谷さんの透き通るような声音が背中にかけられる。
体をひねって見てみれば、そこにはいたずらっぽく笑う神谷さんが正座で座っていた。
彼女との距離は僕の身長の半分くらいだろうか。
(これって僕、もしかして……!?)
「あれ、流くん? なんだか顔が赤いような……? もう肌寒いくらいなのに」
「えっ? あ、ああこれは! なんでもないよっ!」
体を乗り出して、僕の顔を注視する神谷さんに胸はさらに早鐘を打つ。
「そ、それよりも! もう真っ暗になっちゃったねっ!」
恥ずかしさから、話題を逸らした。
「ごめん、こんな夜になるまで待たせちゃって……」
「謝るのは私の方だよ。うまく手加減ができなくて、君を気絶させちゃった……」
「そ、それじゃあ、おあいこってことにしよう!」
冷や汗が額を流れ落ちる。
少し落ち込み気味な神谷さんに、まさか、男の本能が気絶した原因に大きく貢献しているとは、言えない。口が裂けても言えない。
「うん、わかった。あれ……? 流くん、今度はなんだか顔が青いような……?」
「さ、さあ今日はもう帰ろう! 暗いし!」
顔の色は忙しく赤から青になっていたらしい。
理由が理由なだけに、追求されるのはまずい。またしても僕は話題を逸らした。
そそくさと鞄に水筒を放りこみ、帰るを準備をする。
「……?」
僕の挙動に、不思議そうな視線が注がれるが、気にしない。
「さあ、帰ろうか!」
「うん……」
二ヶ月後。放課後の屋上で、僕は今日も稽古をつけてもらう。
「……お願いします!」
「うん。……きなさい」
神谷さんの雰囲気が「きなさい」という一言でガラッと変わった刹那、ゆったりと構える彼女に向かって、僕は走り出した。
打ち込んだ一発目の右ストレート、二発目の左ストレートを神谷さんは自身の体に直撃しないように逸らす。
相変わらず彼女の技術には舌を巻かざるを得ない。
しかし、僕の攻撃を防ぐと同時に神谷さんは後ろに下がりつつある。もうしばらく連続して攻撃を打てば、彼女は給水タンクに背をぶつけることになるはずだ。
そこまで追い詰めることができれば、初めての一本を奪えるかもしれない。
僕は集中力を高めて、続けざまに攻撃を繰り返した。
「!?」
(ここだ!)
神谷さんが給水タンクに背をぶつけたその時。
「はぁぁぁぁぁぁ!」
右腕を振りかぶり放つのは、フックだ。
身長が低い僕のフックはしゃがんで避けるのが困難であることに加え、僕の身長分ジャンプして避けるというような超人じみた回避行動を取れる人はほぼいない。一本取るという意味で僕の右フックは大きな力を持っている。
そう考えたからこその右フックだった。
自分の攻撃が神谷さんを確かに捉えると僕は予感した。
だが、
「!?」
腕を振り抜いてから僕はその結果に驚く。
給水タンクの土台であるコンクリートを利用し、自身の跳躍力を水増しすることで、あろうことか、神谷さんは僕を飛び越えてしまった。
形成は一気に逆転。窮地に立たされた僕はすぐに身を翻して、神谷さんに突撃した。まだ、彼女は受け身をとっている。僕が神谷さんに攻撃を放つ頃には、体勢を立て直しているだろうが、不利な状況からの脱出に役立つことは間違いない。
とにかく、逃げ場のないこの場から抜け出すために一撃を。
体勢を立て直したばかりの神谷さんに僕は急接近し、右ストレートを放った。神谷さんはバックステップで回避を試みる。
(当たった!)
一瞬だけ、そう思った。
なぜなら、彼女の衣服に拳が触れたからだ。そこまで拳が到達しているのだから、そのまま体に直撃すると予感して当然だろう。
だが、彼女は予想の斜め上を行く。
小指ほどの長さも満たないすれすれのところで、僕の右ストレートは神谷さんに回避されていた。
(回し蹴りがくる……!)
彼女の回し蹴りでノックダウンした回数は計り知れない。
最近は、最初のわずかな挙動だけで彼女の回し蹴りを僕は察知できるようになっていた。
神谷さんの太ももが持ち上がりつつあるのを眼中に収めつつ、体に回避命令を下す。
今なら避けられる。避けろ、避けるんだ僕。
自分に言い聞かせ、行動を開始するも、遅かった。時間の経過によって露呈した布地が、目を釘付けにする。
顔に迫りつつある足などおかまいなしに、その邪悪な存在は圧倒的な魔力で僕の行動をコントロールした。
スラっとした綺麗な足が、僕の頰肉を盛大に変形させる。
緩慢に流れていた時間が本来の勢いを取り戻す。
反転する世界に身を数瞬置いたのち、体を襲うのは、衝撃。
「りゅ、流くん!?」
(今日は、薄ピンクか……)
駆け寄って来る神谷さんの足音は、だんだん遠のいていく。それと並行して、視界も真っ暗に染まっていった。
「うっ……」
「大丈夫?」
かけられる声に、意識が揺り起こされる。
うす目を開けると、真珠のように輝く瞳と、整った顔の輪郭がぼんやりと瞳に映った。
体の感覚が次第に鮮明になって、ふと気がつく。意識を向けてみると、なんだか体がとろけてしまいそうな気分になる柔らかさが後頭部にある。
(これは……!?)
意識が覚醒した。
「ふぁ!? いだ!?」
「いたいっ……!」
脊髄反射のごとく唐突に起き上がったせいで、彼女とおでこをごっつんこ。頭が神谷さんの膝に不時着した後、おでこを両手で抑えつつ僕は呻いた。
「ふふっ、一本取られちゃった」
神谷さんが慎まやかに微笑むと、お茶目にそんなことを言う。
「そうだね……」
二人して、笑いあう。
神谷さんと過ごす時間はとても心地の良いものになっている。
もちろん、佐波との決闘のため、拳を交える時間はいつも真剣だ。しかし、こうして気絶した後など、休憩のひとときは、僕にとってかけがえのない時間になっている。
決闘には、何としても勝ちたい。
日に日に増していく思いを胸に、改めて努力することを自らに誓う。
「神谷さん、次はちゃんとした一本をとって見せるよ」
立ち上がった僕は、再び、神谷さんに稽古をつけてもらった。
6.『晴れ舞台の前日はいつだって』
「拳は握り切らない!」
「はいっ!」
「自分のギリギリのリーチで相手をつ!」
「はいっ!」
屋上には、今日も威勢のいい声が響いていた。
僕が攻撃を仕掛け、神谷さんはそれを最小限の動きでしながら僕に最終アドバイスをする。
反撃もたまに返ってくる。頻度が少ないのは明日が決闘当日だからだ。
とはいえ、神谷さんのカウンターは十分すぎるほどに痛い。
「はッ! やあッ!」
「甘い!」
「ッ……ぁ!」
特訓によって、少し痛みに耐性ができたとはいえ、痛いものは痛い。
脛に直撃した蹴りに僕は蹲った。声にならない痛みが体を一瞬にして征服する。悶絶するしかない。
「……すこし、休みしましょうか」
僕が戦闘不能になったところで、神谷さんが休憩を提案した。
金網フェンスが建てられている屋上の壁に寄りかかり、一服。絶え間なく喘ぐ肺を落ち着かせるために、息を吐いて深呼吸。
ふと、僕は空を仰いだ。
白い雲が青空の中をせわしなく泳いでいるのを、ぼんやりと眺める。
僕は、佐波に勝つことができるのだろうか。
成長の実感はある。当初に比べれば、僕の格闘術は一目瞭然で向上しているし、鍛錬の中で体力も上昇した。
だが、それが佐波を打倒するに至っているのかはわからない。
どれだけ過去の自分よりも成長できたのだとしても、勝負に勝てなくては意味がない。
これは、自分との戦いではないのだ。
僕は不安に取り憑かれていた。
「……心配しなくても、流くんは強くなってるよ」
タオルで汗を拭いていた神谷さんは、いつのまにか僕の方を見つめていた。
「……あ、あはは、顔に出てた?」
「私も、そういう経験したことあったから」
そう言うと、神谷さんは風に急かされる雲に顔を向けて、呟いた。
「私もね、小さい頃はいじめられてたんだ」
「えっ?」
突然の告白に、僕はすっとんきょうな声をあげ、彼女の方を向いた。
神谷さんは、なにかを懐かしむような、そんな顔をしている。
凛々しい彼女には、あまりに似つかわしくない過去だと思った。
「私の髪、変わった色でしょ? だから、学校の同級生にいつもいじめられてて、いつも泣いてたの。……でも、ある時師匠に助けられてね」
「師匠?」
「そう、私には師匠がいるの。別に師匠と声に出して呼んでいたわけじゃないんだけど……心の中ではそういうふうに慕っていたわ」
そう言うと、彼女は目を細めた。
「どうして私を助けるのって、聞いたら、『力を持つものは弱者に配慮しなければならない。たとえそれが、腕っぷしの強さであろうと、頭の強さでもあろうと、同じことだ。だから俺は君を助けた』って話してくれたわ。その時、彼の様に正しい力の使い方で、誰かを救えるようになりたいって思ったの」
遠いところにいるその人を思うように空を望む神谷さん。赤みがかってきた光の彩りを横顔に浴びるその姿は、輝いていた。
「感銘を受けた私は、彼に身を守る術を学んだ。だから、流くん……」
神谷さんはこちらを向く。
「君は自分を変えたいと思って、私にお願いしたでしょう。変わりたいと思って、今日まで特訓に耐えてきたでしょう。―――それなら、大丈夫。きっとうまくいくって、私が保証する」
冷え込んでいた心の奥が、熱くなる。
(明日は、絶対に勝とう)
「僕、頑張るよ」
「うん。期待してる」
確かな信頼関係が、僕に勇気を与えてくれた。
「明日のために、今日はもうあがりましょう」
「……うん!」
立ち上がる神谷さんに僕も続く。
別れ際、佐波に勝つことができたら、彼女に告白することを決めた。