2
3.『作られた平穏の形』
学校の授業がひと段落したことでチャイムが鳴った。一部のクラスメイトが我先にと教室を後にする中、同級生が校外に流れ出ていくのを、教室からそわそわしながら見る。
昨日、神谷さんが僕をいじめから守るに当たって取り決めをした。
登校中、下校中、教室移動の時間まで、ありとあらゆる時間に僕を守ると、神谷さんは自ら約束してくれた。
「それじゃあ、帰ろうか」
唐突にかけられた声に胸の高まりは一段と高まる。
好きな人との下校。たとえ、そこに事情が絡んでいたとしても、心をときめかせずにはいられない。
僕は神谷さんと一緒に教室を出た。
わずかに残っている人目を神谷さんの魅力が一網打尽にしていく。僕自身に視線が集まっているわけではないのだが、落ち着かない。
ふと、こちらをガン見する女子二人のひそひそ話が耳に入った。
『ねえ、あの子、めちゃくちゃかわいくない?』
『ホントだ、きっと入学式に噂になっていた子だよ。で、隣にいるのは……、彼氏?』
(これ、もしかして恋人同士に見えてたりする!?)
小耳に挟んだだけの話からそんなことを思い、恥ずかしくなる。なお、見知らぬ女子二人の会話はそのあと、『あれが彼氏!? ないない!』と続いていたのだが、僕の耳には届くことはなかった。
他人から恋人同士に見えていると勘違いした僕は、人気が完全になくなるまで待っていったほうがよかったのではないかと神谷さんに提言するが、
「それじゃあなかなか帰れないよ」
もっともな意見が返ってくる。ただでさえ無理をして僕を守ろうとしてくれている手前、反対することも憚られる。
「昨日も言っていたけど、どうして人目を気にするの?」
「いやぁ、それはその……ね? 色々とあるからさ」
「?」
教室に人がいなくなってから帰ろうという提案自体は昨日にもした。
しかし、その時の反応は、現在彼女が頭の上に浮かべているはてなマークが暗に示している。
単に恋人として見られてもいい、ということなのか、普通に気にしていないだけなのか。僕は判断に困っている。たぶん、後者だろうが……。
しかし、やはり可能性があるだけで悶々としてしまうわけだから、まったく、この気持ちは厄介だ。
悶えつつしばらく歩いて、下駄箱に到着。
靴を履き替えるために、僕と神谷さんはそれぞれの靴入れに向かった。一番奥の列に神谷さんが、二番目の列に僕が、それぞれ向かう。
靴を履き替えた僕は、一足先に外へ出た。
頭の中は神谷さんが僕のことをどう考えているかに意識を割いていて、その場の異常な静けさに僕は気づかなかった。
今、そのことをとても後悔している。
神谷さんよりも先に玄関を出た僕は、そこでたむろする計三人の不良たちを見て硬直した。中でも目を奪ってきたのは金髪の男だ。あの日僕を直接いたぶった主犯の一人。
ヤンキー座りをしながら背を向けていた金髪は、先にこちらへ視線を向けた同胞に導かれるようにして首を回した。
そこで目が、合ってしまう。
怖気が背中を走り抜けた。
恐ろしさから逃げるようにその場を離れようとしたが、背後から死刑宣告が下される。
「おい、待てよ」
左肩に手が置かれる。動きを止めたことで足が震えていることを自覚してしまった。
「お前、あれだよな、昨日俺がいじめた奴だろ」
「ひ、人違いじゃないですか? 僕はいじめられてなんかいませんよ」
振り返ることをせず、僕は金髪に背を向けたまま、なんとかでまかせを言った。
「ぬかせ! その傷だらけの顔が証拠だろうが!」
耳元に響く怒号。強く肩を引っ張られ、強制的に鋭いおめめとこんにちは。
もちろん、そんなおめめとはこんにちはなんてしたくない。
蛇に睨まれた蛙のように身を竦ませて、願った。
(神谷さん早くきて……!)
心の中で祈りを捧げつつ、玄関の方を見やる。
しかし、なにをしているのか、彼女はなかなか外に出てこなかった。
「シカトしてんじゃねぇぞ! この野郎!」
「ぶっ……!?」
なにも答えようとしない僕に業を煮やしたのか、ついに金髪の苛立ちは右フックとして顕現し、僕の左頬を撃ち抜いた。
頬肉がちぎれ飛ぶんじゃないかと思うほど、強力な拳を受けた僕は地面に倒れざるを得なかった。まだ治りかけの傷がその一回で大いにられ、焼けるような痛みを訴える。まだ一日しか経っていないというのに、あまりにも容赦がない。
もっとも、この手の相手に手加減を求めるのは間違っているのだろうが。
「昨日、あのアマに一撃でやられたのはホント恥だったぜ。ここで会ったのも何かの縁だ。……あのアマも今はいねぇようだし、存分に可愛がってやるよ。おいお前ら、こいつを固定しろ!」
胸ぐらを掴まれた僕は聞きたくない宣言を耳元にささやかれる。金髪の命令に従った不良二人が僕を無理やり立たせ、固定する。
(神さまぁ……!)
目の前でバキバキと手を鳴らす金髪を前に、情けない祈りが心の中で呟かれた。
その時だ。
「えいっ!」
「いだっ!」
「「「!?」」」
金髪が突然軽い痛みを口にする。不測の事態に僕は不良のしたっぱと同様に驚く。
金髪の頭に飛んできた茶色のなにかが、ぽとりと地面に落ちた。自然とその茶色い物体に四人の視線が注がれる。
それは、女子が履くようなローファー。
「あなたたち! そこまでよ!」
男全員が顔を上げた。
そこにいたのは顔を義憤で満たし、不良たちに指を突きつけている神谷さんだった。凛とした佇まいだが、注視してみると、靴を片方しか履いていない。つまり、飛んできたローファーは彼女のものなのだろう。
真剣さがアンバランスな身なりによって大いに邪魔されているが、まあ、そこはノータッチを貫こう。
「早く流くんから離れなさい!」
「このやろう、なめた真似しやがって! ボッコボコにしてやる! おいいくぞ!」
僕を含めた男四人は神谷さんに呆然としていたが、僕の腕を固定していたスキンヘッドは、状態異常からいち早く回復。同じく僕を押さえつけていた茶髪に呼びかけ、神谷さんに襲いかかった。
「早まるな! そいつは只者じゃねぇ! やめろ!」
神谷さんの力量を知っている金髪は制止を呼びかけるが、頭に血が上っている二人は止まらない。
右ストレート。左ストレート。続いて鋭いキックが神谷さんに飛んだ。しかし、彼女は不良二人の攻撃を、まるで子どもをあやすかのようにたやすく見切る。
二人は苦虫を噛み潰したような顔をした。きっと、圧倒的な力の差を悟ったのだろう。
「今なら許してあげる。だから、流くんを解放しなさい!」
「こしゃくなぁ!」
神谷さんの警告は挑発に受け取られた。
スキンヘッドが激情に駆られ、突貫する。顔面を狙った容赦ないキック。それを左腕で受け止めた彼女は、反動を利用して華麗に回転。ガラ空きだった股間に鋭い後ろ蹴りをして見せた。
「……ぉぁ……!」
声にならない悲鳴が聞こえた気がした。
(うわぁ……痛そう……)
スキンヘッドはまるで銅像か何かのようにどさりと倒れる。口の端に泡が浮かんでいて、とても、いたたまれない。
「……ちょっと強すぎたかしら? すこし、心配だわ……」
死体のように横たわる不良をしばらく見た後、神谷さんはそんなことを口にする。どうやらここまでやる気はなかったらしい。
「てめぇ、よくも……」
「バカ野郎! お前まで同じ轍を踏む気か!」
したスキンヘッドの仇を打とうと茶髪が息巻くが、金髪がそれをめる。
「さっさとそこで卒倒してやがるバカを連れて行くぞ」
金髪はそう茶髪に指示を出し、
「……クソがッ!」
憎々しげな視線をこっちによこしたのち、去っていった。
「流くん、ごめんね。私がついていながら……」
退場する金髪を傍観していた神谷さんは、振り向いて、そんなことを口にした。
責任など感じる必要もないだろう神谷さんが罪悪感を抱いていると察した僕は、首をぶんぶん振って否定の意を彼女に示す。
神谷さんは十分すぎるほどの条件を僕に提示していた上に、それをきちんと実行している。
逆に、謝らなければならないのは僕の方だろう。神谷さんが自らの意思で僕を守ってくれているにせよ、僕の情けなさが彼女の手を煩わせる原因であることは疑いようもないのだから。
「神谷さん、靴……」
「あ、ありがとう」
茶色のローファーを手渡しつつ、思った。
(いつか、きっと、必ず、この情けなさを自分の手で壊そう)
それは決意と呼ぶにはあまりにも脆弱な思いだ。見せかけの装飾でもっともらしく着飾って、僕は自分を正当化していた。
それから数日経ったある日のこと。
「流くん、そろそろいこ?」
(あぁあ……)
シルクのように艶やかな髪と、宝石のように透き通った淡い赤色の瞳を持つ神谷さんに、天使のような声で話しかけられた僕は心を改めて射抜かれていた。
「……どうしたの? オーブンで溶けるチーズみたいなを顔して」
「いや! なんでもないよ!」
小首を傾げる神谷さんに、僕は平常心を取り戻す。
今日は、家庭科の調理実習だ。
神谷さんは、今日作るメニューであるグラタンのことで頭がいっぱいなのだろうか。
「……行こっか!」
家庭科室に僕たちは向かう。
半分ほど雲に包まれる空とは対照的に、良好な気分で廊下を進む。
当初は人の好奇心をそれこそ浴びるように感じていたものだが、今ではそれもなりを潜めている。もちろん、全く注目されなくなったわけではないが、周囲から二人はああいうものだとして受け止められるようになっていた。
しばらく神谷さんと楽しく駄弁りながら僕は歩いていたが、角を曲がった瞬間、氷を頭から浴びせられたように良好な気分が一気に冷める。
先日僕をリンチすることに加担していた巨漢リーゼントに遭遇してしまったからだ。
パンを咥える女の子ならまだしも、分厚い胸板など誰も望みはしない。が、僕はそれに衝突した。顔を上げつつ言いかけていた謝罪は、その顔を目にしたことで尻すぼみに消滅。顔が引きつった。
まさにデジャブ。
無様にもあの日の光景を役者と場所を変えて僕は再現していた。
「よぉ……、こりゃちょうどいい。近いうちお前をなぶりに行こうと思ってたんだよぉ……」
彼の顔には笑みが浮かんでいた。ただの笑みではない。暴力的な思想に染まった笑みだ。
「……ッ!」
隣の頼もしい存在がいてくれるにもかかわらず、僕は怯えた。
「流くん、大丈夫。私がついてるから」
隣から優しい声音が僕をなだめる。みっともない姿を見せてしまったにもかかわらず、相変わらずどこまでも慈悲深い。
……だからだろうか。
「はっ! よく言うぜ。そんなゴミクズみたいなやつを守ることに何の意味があんだ? られて人様のストレス発散程度にしか役立たないようなやつをよぉ。よわっちい男に欲情する性癖でも持ってんのか?」
最後の一言が頭を怒りで沸騰させた。
「神谷さんはっ、神谷さんはっ……!」
激しい怒りの感情に身を任せ、神谷さんのさを訴えようする。
だが、
「あぁ?」
リーゼントに睨まれたことで、僕の体は呆気なく竦んだ。
本当に、情けない。
「流くん……。私は大丈夫だから」
隣からかけられる声が、一層奈落の谷へと僕を突き落とす。
「へっ! クソアマが!」
リーゼントはすれ違いざまにそんなことを吐き捨てていく。
「流くん……」
遠くなっていく足音が耳に入っていた。隣で心配そうに僕を見つめる神谷さんも目の端に映っていた。だが、いずれも僕は認識することができない。認知できていたのは底知れない悔恨の嵐が胸に到来したことだけだった。
自責の念が鋭利な刃物となって、嵐の中、僕の心を引き裂き、突き刺し、蹂躙していく。
天使のような声を聞く資格が自分にはない。
手に刺さったささくれのようにしつこく不快感をもたらす自責の念は、僕にそう囁いた。
(変わりたい……)
心に浮かんだ欲求は、いつかのまがい物ではない。本物だ。
僕は知らないうちに叫んでいた。
「神谷さん! 僕を、あなたの弟子にしてくださいッ! 」
人目をらず、盛大に、土下座する。
「僕、変わりたいんです! 神谷さんに、このままずっと守られてるわけにはいかないって、今、気づいたんです」
頭を下げたまま、叫んだ。
「……」
神谷さんを困らせていることを僕は自覚したが、他に良い手立てがあるとも思えなかった。
いじめの連鎖から、情けない擁護の身から自立するためには、鬼のように強い神谷さんの力を借りるしかない。
沈黙が二人の間に落ちた。
強張った体には冷や汗が流れた。
床に頭を付き合わせた時間は、とても長く感じられた。
やがて、神谷さんが僕の思いに応える。
「……わかった。君の気概を信じましょう」
一つしかない光に照らされた僕は、嬉しくなって勢いよく顔を上げた。
「ありがとう!」
「そうと決まれば今日の放課後から特訓よ。ぬるくはないから、覚悟しておいてね?」
「うん!」
(これが僕の、自己改革の一歩目だ!)
僕はこれまでの自分と決別する。
そのためにも、
「そのまえに一つ、お願いがあるんだけど……」
「?」
けじめはきっちりとつけなければならないだろう。