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1.プロローグ 『惨めなスタート』
高校一年生の春。ちょうど昼休みが始まった頃に、期待に胸を弾ませながら、屋上につながる階段を僕は駆け上がっていた。
(一体どんな女の子なんだろう! ふふふ、ラブレターなんてもらったのは人生で初めてだからワクワクが止まらない!)
さえない中学時代を送ってきた僕が、どうしてこんなリア充な展開を享受できているのかといえば、それは紛れもなく自身の努力が実ったからだと断言できる。
なにせ、充実した高校生活を送るために良いと思われることは全て実践してきたのだ。丸メガネはコンタクトレンズに変え、カッコイイと思われるように注意して歩き、髪は茶髪に染めた。
そのおかげか、今朝、下駄箱にラブレターが入っているのを僕は発見する。
(手紙の送り主は黒髪清楚系美少女? 眼鏡っ娘? はたまたクーデレとか……!?)
気分は指数関数的に急上昇。授業が始まっても、胸の高まりはとどまるところを知らなかった。
冷めやらない興奮が僕を走らせる。
―――そう、僕は今、青春真っ只中を駆け巡っているのだ!
「ごめん! 待った!? ……って、あれ?」
勢いよく屋上の扉を開け放つも、そこには誰もいない。大きな給水タンクが左手にあるだけで、それを除けば端までコンクリートの地面が続くのみだ。
(はやく来すぎちゃったのかな?)
そう思った瞬間、何者かによって背中をドンッと押される。
「おっとっと……ぉ?」
転ばないようにバランスを保ちつつ僕は数メートル前進し、やがて、ドンっとなにかにぶつかった。
なんだろうと思って首を上げると、
「ぶつかってんじゃねーぞゴラ!」
「ぶっ……!」
固い拳に頰が貫かれる。
バランスを崩した僕は後ろに尻餅をつき、頰を抑えながら殴ってきた張本人へと向き直った。
顔を彩る猛禽類のように鋭い三白眼。口に貼り付いた笑みは嗜虐心に溢れている。
「……なーんてな。よお、久しぶりだなぁ?」
「嘘、でしょ……? どうしてこの学校に……」
いたずらに耳に焼き付いている、もう聞かなくて済むと思っていた恐れの象徴が鼓膜を震わせた。
中学で僕をいじめきった不良、それもヒエラルキーに君臨していた男、エイジ。その人が僕の目に映っている。
「お前もこの学校に来てるって聞いて驚いたぜ……。高校でもよろしくな。チビ」
僕の顔に、佐波は自身の凶悪な顔を肉薄させて、そう吐き捨てた。
呆気にとられる僕を尻目に、背を向けて歩く佐波が一言「やれ」と言うと、一目で不良だとわかる服装の乱れた連中がぞろぞろと給水タンクの影から姿を現した。
「あのラブレターは……!?」
「あぁ? そんなもん作りもんに決まってんだろうが」
「そんな……」
気の抜けた状態で立っていると、やがて、そこに黒い影が落ちる。
高身長の不良たちが、降り注ぐ陽光を遮っていた。
眼前にいる不良のた笑み見上げつつ、思った。
(また、惨めな学校生活を送るのか……)
「ぐっ……!」
下からすくい上げるように振るわれた拳が、鳩尾の肉をねじり、陥没させる。生まれた苦痛に僕は悶えた。
全身に浴びせられるのは嘲りの声。
無様に硬い床を転がった後、胸元を掴んで無理やり立たされた僕は、殴られる。
「ぐぶっ……!」
(ちくしょう……)
よろめいた僕は転倒しかけるが、しかし、他の不良に受け止められ、再び右ストレートをお見舞いされる。また同じように、ふらついた僕を他の一人が受け止め、殴打する。
そうして僕は、倒れることを禁じられ、殴られ、また誰かに受け止められというようにして、殴られ続けた。
抜け出すことのできない、暴力の袋小路。
「はっ! まだ意識を手放さねぇとは、こりゃあ聞いてた通りのサンドバックだな!」
「まったくだ! ハハハハ!」
(ちくしょう……)
彼らの侮辱は止まらない。エスカレートするばかりだが、僕にそれを止める力はない。
「オラッ」
「ッ……」
重い蹴りがお腹に炸裂するのに連動して、裂けた口内から出た血が床を汚した。
もう何十回目だろうか、大きな鉄球をお腹にぶつけられたかのようなその痛みに、とうとう地面と盛大な接吻を交わした。
目の端に見える佐波は、給水タンクの上から僕を楽しそうに嘲っている。
(ちくしょう、ちくしょうちくしょうちくしょう……)
朦朧とする意識の中で、僕は悔しさに打ちひしがれ、打開することのできない絶望に埋没しかけて―――その声を聞いた。
「あなたたち、そこまでよ!」
まるで、正義の味方みたいなセリフを言い放ったツインテールの女の子が、霞む目に映る。桃色の髪を風になびかせながら、僕を包囲する不良集団に彼女は指を突きつけていた。
「弱いものいじめは私が許さない!」
「あぁ? 許さなかったらどうするってんだよ?」
「私が、あなた達をやっつけるわ」
「はあ?」
一人が無理解を声にした直後だった。
「ぐ……へっぇ……!?」
まるで瞬間移動でもしたかのように僕を取り囲む一人と間合いを詰めた彼女は拳でそいつを吹き飛ばした。
その場にいる不良集団に動揺が走る。僕も例外ではない。あまりに現実離れした不良の飛ばされ方に魔法でも見ているかのような錯覚を覚え、驚きに頭がさえた。
「怯むな! やれ!」
「「「オスッ!」」」
動揺する不良集団に、貯水タンクの上に座っていた佐波から命令が飛ぶ。頭の命令にそれなりに冷静さを取り戻した不良集団の中から、リーゼントの大男を始めとした数名が彼女に襲いかかる。
「うぉぉぉぉぉぉ」
牛のような低い声を発しながら、数人の不良率いる大男は彼女に接近する。
腕を大きく振りかぶったリーゼントは、強力なパンチをツインテールの女の子に繰り出した。
豪腕が生み出す凶悪な攻撃は常人であれば身を竦ませてしまうに違いない。しかし、彼女は怯むそぶりも見せず、最小限の動きでリーゼントの暴威を躱し、懐に入り込んだ少女はその太い腕を持つと、
「はぁぁぁぁッ!」
「なぁにぃぃぃぃ!?」
流れる様な動きでリーゼントの巨体を軽々と投げ飛ばした。
大男に続いていた不良たちはその餌食になる。
その人間離れした技を前に、巨体の下敷きを免れた不良たちの衝撃が再燃した。
驚愕に飲み込まれた集団は、もはや、林立するカカシとなんら変わりない。
佐波から再び出された指示も彼らの耳に届くことはなかった。
ただ一人を除いては。
「……」
背を向ける彼女に一人の金髪が素早い動きで忍び寄っていた。
「ぁ……」
危ない。そう声にしようとしたが、声帯は言うことを聞かず、小さな呻き声がこぼれた。
卑劣な死角からの攻撃が彼女に直撃する未来は容易に予想できた。
「やぁッ!」
「ぶへッ!」
しかし、僕が予期した光景は訪れなかった。
彼女は何の前触れもなく、回し蹴りを放った。金髪が静かに接近したにもかかわらず、その攻撃は見事、金髪の首筋に直撃。
塵のように吹き飛んだ金髪は気絶し、泡を吹く。
「……。引き上げるぞ」
佐波から撤退命令下される中、目の前に佇む凛とした美少女の立ち姿を目に収め、場違いな感想を僕は抱いた。
(あぁ、僕、この子のことが、好きかもしれない)
疲労と痛みによって、さえていた意識は急激に混濁し始め、まもなく闇に沈んだ。
2.『格闘ツインテール神谷 凜花』
「やあッ! はッ!」
海底に横たわる意識に働きかけてきたのは気合の入った掛け声だ。途絶えることなく響くその音は、深く沈み込んだ僕の意識をゆっくり、ゆっくり引き上げる。
うっすらとを開くと、目に入ったのは青い空。
周囲の状況を確認しようと身じろぎすると、
(うっ!? ……なんだこれ……)
全身の傷が喚いた。
散々殴られた頰を触って、気づいた。
(誰かに手当されてる……?)
「あ、起きたみたいね」
透き通るような声音が僕の耳朶を打ったかと思うと、続いて聞こえてくる足音が主の接近を僕に知らせた。
「大丈夫? 私の顔、ちゃんと見える?」
包み込む様な柔らかい響きに顔を傾けると、そこには端正な顔立ちをした女の子がしゃがみこんで、僕の顔をのぞき込んでいた。
ガラスのように奥が見透せそうな淡い赤色の瞳、艶やかで絡まることを知らないピンク色のツインテールが魅力的な美少女。
ドキドキで胸が破裂しそうになった。
「うぐっ……」
「そんなに急に動いちゃだめだよ。結構酷い傷が多かったから」
恥ずかしさから起き上がろうとしたが、彼女にそれを止められる。
跳ね上がった心拍数が僕をいたずらにどぎまぎさせた。彼女から顔を即座に背けた僕は、そのまま明後日の方向を向いたまま感謝を述べる。
「さ、さっきはありがとうございました! 本当、すごく助かりました!」
「ううん。いじめられている人を助けるのは当然のことだから」
しどろもどろになっている僕に反して、彼女の声音は変わらない。ちらと横目で様子をうかがってみると、彼女はとても真剣な顔をしていた。
世知辛い世の中で綺麗事だと切り捨てることも容易な内容だったが、そこに自惚れというような感情は一切感じられない。彼女は言葉通りのことを心から信じている。
崇高な信念の一端にふれた僕は、彼女の気高さを知った。
しばらくの間、時間が止まっているかのように僕は彼女の顔を見つめ続けていた。
「私の名前は神谷 凛花。君の名前は、なに?」
やがて神谷さんが僕に名前を促す。それまで彼女の顔を見つめ続けていたことが急激に意識に上って、気づかないうちに落ち着いていた心が再び騒ぎだす。
「ぼ、僕は大西 流って言います!」
「そう。流くんね。よろしく」
「ふ、不束者ですが、よろしくお願いします!」
(し、しまった……! 絶対変な人に思われる……!)
緊張しすぎてよくわからないことを口走った僕は自分の失態を呪おうとしたが、それより先に
「ふふっ、流くんって、おもしろいのね」
神谷さんが可憐に咲く花のように笑った。
無垢な笑顔に、顔が熱くなる。
と、そこで昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。
「あ、じゅ、授業に行かないと……」
体を起こそうとするも、神谷さんに止められてしまう。
「動いちゃだめ。それに、もう今日の授業はこれで終わりだから……」
神谷さんの口から告げられた衝撃の事実。どうやら僕はかなり長い間気絶していたらしい。
「ご、ごめん。まだ春なのに……」
「いいの。私は、自分の意思でここにとどまったから。それより……」
神谷さんの態度はどこまでも真っ直ぐな慈愛に満ちていたが、その次に続いた言葉は、僕にとって、苦々しい思いを呼び起すものだった。
「流くんは、どうしていじめられているの?」
「っ……」
唐突な問いかけに、喉が引きつった。
思い出したくないつい先ほどの記憶が無理やり引き出され、暗い気持ちが沸き起る。僕は黙り込んだ。
あいつらの思考を読み解くことなんて僕にはできない。それにもし、どうして自分がいじめられるのかわかっていたとしても、僕は喋らないだろう。
だって、一緒にいるだけでこんなにドキドキしてしまう相手に、自分の情けない一面なんて見せたくないに決まっているのだから。
僕は、神谷さんから顔を背けた。
「流くん……」
「さっきは、ありがとうございました。本当に」
そのまま、話題を切り替えるように一度告げたはずの感謝を重ねる。
「……流くんのクラスは、どこなの?」
しばらくの沈黙を置いたのち、僕の意図を感じ取ってくれたのか、神谷さんが話題を転換する。
彼女に甘えて、顔を背けたまま、ぶっきらぼうに「F」とだけ答えた。
それを受けて、神谷さんは信じられない提案をした。
「私が、君を守ってあげる」
自分の耳を疑った。
「私もFクラスだから、それほど難しくはないと思うの」
「え……」
これからいじめに遭わなくても済むかもしれない、夢のような提案。同時に、男としての矜持もなにもない、悪夢のような提案でもある。
誘いに甘んじろと叫ぶ自分と、理想を求め、それを断れと諭す自分に、僕は板挟みにされた。頭の中を、正反対の考え二つが蹂躙して回る。
目を見開いたまま、額から汗が流れ落ちた時、僕は答えを出していた。
「……よろしく、お願いします」
出された答えは、惨めな道へまっしぐらなものだった。