第1話「追憶~奇跡の終焉、そして始まり」・前編
その運命の日。
逃れ得ぬ最期の時、終幕の舞台へと歩を進める少女の目には、迷いも嘆きもなかった。
フランス──未だイングランドの支配下にあるノルマンディの主都・ルーアン。
晴天の下、多くの聴衆がひしめき合うヴィエ・マルシェ広場に、彼女は立っていた。
「……以上の理由から、汝、俗称〈乙女〉ことジャンヌは、様々な虚偽と過誤の罪に堕ちていると判断する」
神学博士による最後の説教が終わり、続いて下された宣告は、今やあらゆる後ろ盾を失った虜囚の徒にとって、ひたすらに冷酷で欺瞞に満ちたものだった。
──これが、私の旅の終わり。
必死に進んで辿りついた先にあった解放の形。
そこに神の正義など、人の良心などありはしない。
全ては権力者達の悪意に満ちた脚本通り。
そして、それらすら超越した世界の理が望むままに──〈乙女〉は生き、そして死ぬ。
「我々は汝がかつて受けた破門判決が正当なものであるとみなし、これより汝の腐敗した肢体が他の善良なるキリストの子等に災いをもたらさぬよう、教会の庇護から切り離し、その身を俗権に委ねる事とする。
俗権が汝に対する処断を緩める事を祈りつつ、教会は汝の救済を放棄する」
祈りなど無意味であり方便に過ぎない。今更判決が覆される事などない。少女を待ち受けるのは「死」だけだ。
それ以外に、彼女の心身が自由となる術はない──ただ。
「──もし汝の中に、悔恨の印が現れるならば、願わくば悔悛の秘蹟が汝に許されんことを」
悔恨──天にまします我らが父の使いとしてではなく、人として残した気持ちがあるとするならば。
──その想いが許されるのであれば。
「……………………」
静かに瞳を閉じ、頭を垂れる少女の脳裏に去来するのは、華々しくも儚い、その奇跡と栄光の日々──そしてその時の中にあって、常に傍らで彼女を見守っていた騎士の姿だった。
◆◆◆
「わたくし、この度、王太子様から軍を預からせて頂く事になりました、ジャンヌと申します。
フランスを救う為、これよりオルレアンに向かいます」
2年前のあの日、シノンで彼の手をとってから全ては始まった。
「──この時代の殿方ときたら、皆さん子牛並の脳味噌しかお持ちでないのかと不安でしたが、そばにいる貴方がお話の分かる方で、本当に良かった」
「お褒め頂き光栄です。
ですが、貴族と言えど、全てのものが等しく教育を与えられる世の中ではないのです。ましてや、貴女のようにとりわけ主の恩寵に恵まれる者がいるわけもない。
どうか、無知で無学な我々をお許し下さい」
与えられた智識に驕り高ぶった無礼な物言いも、彼はいつも微笑みながら赦してくれたものだった。でも。
「──乙女よ」
血の匂いに満ちた戦場で。
感情を押し殺した、低く、かすれた声が、鉄槌のように少女の心を打ち据える。
「あまりにも突出し過ぎです。ここは一度退却を」
戒めるべき時は、戒め、力強く自分を導いてくれた。
特にそれは、少女が自らの身を顧みかった時、味方に無駄な損害を出しかねない無茶をした時、顕著だった。
しかし、いくら見据える瞳は冷徹で、口調は厳しくても──その裏にあるのは、戦場の摂理を知らぬ非力な自分に対する思いやりで。
実際、彼は誰よりも強く、誰よりも清く、優しい人だった。
「貴女は実際、恐ろしくないのですか……?
否、忌まわしいとは感じないのですか?
血に飢え、魂の渇きを癒す為に敵を屠り、その返り血を浴びる事で獣のように瞳を輝かせる、騎士とは名ばかりの亡者を」
そのくせ、誰よりも世界に対して臆病で、救いを求めていた、哀しい人──
「そんなはずはありません……私は貴方に感謝する事こそあれ、忌まわしいなどと思う理由など、あるはずがないでしょう?」
ああ、叶うのなら私が、貴方のその寂しさを癒すことが出来たならと、気が付けば願ってしまっていた。
「乙女……いいえ、ジャンヌ」
初めてその声で名前を呼ばれた時、私がどんな気持ちだったか、貴方には分かるでしょうか。
「貴女に会えて、本当に良かった」
「……私も同じ気持ちです……」
正直、戦場に出るのは恐ろしいし、苦しかった。
それでも、貴方と一緒に居られる時間は、確かに幸せだった。
「──愛しています」
そして貴方は小娘の身勝手な願いに全てを賭して応えてくれた。
「──我らが陛下とフランスへと捧げたこの命でしたが、今より私は貴方の為に生きる剣となりましょう」
どれだけの対価を払って、私の手をとってくれたのか。
その覚悟に見合うだけの何かを、返す事が出来たら良かったのに。
「…………」
声には出さず、何度も救いをくれた大切な騎士の名を唱える。
宝物のようなその名を抱いて、私は逝く。
例えこの終わりが変わらないものであったとしても、せめて最後の時を、もう少しだけ一緒に過ごしたかった──私の愛しい人。
だから、神様。せめて苦しむ彼に何かを残すことが出来るなら、どうか──
◆◆◆
1431年5月30日──『オルレアンの聖女』ジャンヌ・ダルク処刑。
──燃える。
──燃える。
──魔女と罵られ聖女と称えられた稀有な少女が、時代に翻弄された憐れな人間が、いま、その役目を終えて歴史の舞台から降りようとしている。
多くの人の歓喜と憎悪、うずまく感情を炎に巻き込みながら、瑞々しかった肢体は灰となりて崩れ落ちていく。
この後、その魂がいかなる奇跡を起こそうとも、地上での依り代となるべき身体を失ってしまっては、復活はありえない。
死後の救済すらも否定する、異端者への最も苛烈な処刑法──それが炎によって全てを焼失させる火刑であった。
「これで……本当に良かったのですな?プレラーティ殿」
咎人の処遇を委ねられたルーアン市の代官により、無情にも遅滞なく刑が進行していく様子を見守る聖職者の一団の中。一際異彩を放つ若い司祭がいる。
年の頃はせいぜい二〇に届くかどうか。たった今炎に包まれた乙女とそう変わらないように見える。
簡素ではあるが、動きやすいよう身体の形に沿って仕立てられている独特の僧衣に身を包み、年嵩の司教達と肩を並べながらも物怖じする様子は全く見られない。
まだ少年と言っても差し支えないであろう、愛嬌のある美貌は、処刑の場に似つかわしくないほど朗らかな笑みを浮かべていた。
「重畳、重畳。
予定通り、刑が執行されて何よりです」
呼ばれてプレラーティと呼ばれた若者が振り返る。
肩口で切りそろえられた黒髪をさらりと揺らし、明るく澄んだ翠瞳を細めて笑う。端正な顔に刻まれた微笑は完璧で、実に魅力的であったが……その内にどこか見る者を不安にさせる影を含んでいた。
「貴方の素晴らしい働きの数々は、私からも直接、教皇聖下にお伝えしたいと思っておりますよ。
ピエール・コーション司教猊下」
不吉な笑みを深くしながら、上機嫌でその異様に若い司祭は続ける。
「貴方のおかげで、教会の権威に盾突く愚かな魔女は死にました。
そして、我々は〈彼〉を手に入れる事が出来た」
うっそりと呟く若者の言葉に、この『茶番劇』の片棒を担ぐ事になったルーアン司教、ピエール・コーションは知らず身震いをした。
ローマから派遣されてきたというこのトスカーナ人の司祭は、様々な面で彼の理解を超えた存在だった。
教皇庁に属する異端審問官の中でもかなり特殊な事例を取り扱う〈専門家〉という事であったが……
「その……〈彼〉の処遇に関しては……」
「ああ、ご心配なく。
ロレーヌの田舎から出て来た小娘とは違って、短い間だったとはいえ、一国の要職にあった人物ですからね……貴方の手には余るでしょう。
私と、私の同僚が手を回していますから、貴方が気に病む必要はないですよ。
お優しい司教猊下、貴方の救いは〈彼〉には必要ない」
きっぱりと。これ以上、その件には関わるな、と──さりげなく、それでいてこれ以上ないほど強く、若い司祭はコーションに釘を刺す。
朱い唇が優美な弧を描いた。
「そう……〈彼〉は誰にも渡さない。〈彼〉は我々の……いいや、私のものです」
哀れな乙女の身体は、身に着けていた衣服が燃え尽きる頃、一時性別の確認の為炎から遠ざけられ、衆目の元に全てを明るみにされた。
指示を受けた死刑執行人の手で生々しい検分が行われた後、更に薪を継ぎ足され、実に四時間もの時間をかけて燃やし尽くされたのである。
少女の存在そのものを否定せんとする執念すら感じさせる処置の数々は、桟敷で見守っていた聖職者達の何人かすら気分を悪くし、またある者は狼狽え、涙する程であった。