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神官様やシスターの皆さんと楽しく夕食を頂いていると、一人のシスターが私のもとに来られました。
「イリアーヌさん。少しよろしいかしら。貴女にお客様が見えているの。アドルフという名は知っていて?」
「――はい。兄の名です」
「そうなのね。貴女のお兄様がおいでになられているわ」
「――わかりました――」
――お兄様が此処へ来られた?婚約破棄の手続きにも何も私が出ていく必要は今までなかったのに、何かあったのでしょうか?
シスターが一緒についてきてくれます。きっと、本当に兄なのか心配してくれているのでしょうか。神殿には、いろいろな深い事情がある方々がいらっしゃるようですね。
聖堂に続く扉を通ると――――え……――。
「リーナっ」
「イリアーヌさん? 大丈夫ですか?」
私が動きを止めたので、シスターが心配なさっているのでしょう。
「大丈夫です、シスター」
ふわりと笑顔で答えて頷けば、シスターは納得してくれたのか席を外されました。
――今生は、ただの勘当では済まないようです……。
パトリック様は殿下の護衛でしょうか?それとも、私に縄を掛けに来られたのでしょうか?投獄されるのでしょうか……お兄様と交渉しても無駄だったようですね……。
佇んでいた扉付近から少しお二人のところへ歩み寄りました。そして、頭を垂れて殿下のお言葉を待ちます。今や平民の身。不躾にご尊顔を拝することはできません。
殿下が近づいてこられました。あら?パトリック様はよろしいので?視線を落としていますが、お二人の足はよく見えています。
「……リーナ……」
何故か、殿下が腕に手を添えてこられました。はい?
「何故、君がこのようなところに居ねばならぬ……すまないっ、私が悪かったっ……」
は?何故、殿下が謝罪をされるのでしょうか?思わず顔を上げると――。
……何故か、苦しそうなお顔でいらっしゃいます……。
私の表情が何か気に障られたのでしょうか?さらに表情が悪くなられています。
あぁ、そうか、淑女の仮面を被らなければ、ご不快のようですね。
表情を引き締めなおして、再び頭を下げました。
「殿下。謝罪申し上げるのは私の方でございます。すでにアドルフ様からお聞き及びの事と存じますが、殿下のご不興をか――」
「違う! 君がそのようなことをしないことぐらいわかっている! もう嘘はいい!」
は?
「……顔を上げてくれ、リーナ……」
ご命令通り顔を上げると、依然として苦しそうなお顔で……。
「……すまない……私の所為だ……嫉妬した私が君に八つ当たりしただけだ……」
は?嫉妬?益々わかりませんが??
「くくっ。イリアーヌ嬢も、そんな顔するんだな」
は?そんな顔?パトリック様の指摘にさらに首を傾げ――ん?あああ!口を開けて、呆けていました!?だって!あまりのことに頭が追いつかず!!
慌てて口を閉じて、改めて殿下に向き直ると、あああ!何か、顔が火照ってくるのですがっ、何でしょう!どうしたのでしょう!あ!顔が赤くなっているのでは!
恥ずかしくて!殿下の御前で失態を犯して!居た堪れない気持ちでいっぱいで!口元が震えてきましたっっ……。
「……殿下……見惚れていないで、きちんと誤解を解いた方がいいぞ?」
は?誤解?あ、そういえば、嫉妬がどうとか。
は?嫉妬で八つ当たり?殿下が私に?訳が分かりません!どこにそんな要素が?!
「――五月蠅いぞ、パトリック――」
「はいはい」
は?お二人はこんな仲なのですか?気安いやり取りですね。初めて拝見しました。
パトリック様の方に振り向かずに言葉を発された殿下の瞳をもう一度見上げると。
あら?
燭台の明かりなのでよく判別できませんが、殿下の頬辺りが赤い?
「……リーナ……聞いてくれ……私は、ずっと君の笑顔が見たかったのだ。なのにあれからいつまで経っても私に笑ってくれなかったのに――――子ども達にあんな笑顔を向けていたのに腹が立ってな……」
――――はい?笑顔?あれから??
「あの? 私がいつ、殿下の御前で笑顔になりましたか? 全く記憶にないのですが――あ、いえ。王妃教育で感情を出してはならないと習いましたが、いつか失態を犯しましたでしょうか……?」
は?あら?今度は、殿下が口を開けて呆けておられますよ??
目をぱしぱしとしていると、突然パトリック様の方から深~い溜息が……窺えば、何やらしゃがみ込んでおられます!!
「え、あの……どのような失態を……」
「はああぁぁ……リーナっ……くっ! 何という事だ……私の、私のぉ……」
「は? え?」
全く話が見えませんが!?お二人ともっ、どうなさったのですかっ!?
「ひゃぁ!」
え?ええ?殿下が突然抱き締めてこられて!?何が起こっているのですか!?
「君は憶えていないのか? 初めて私達の顔合わせがあった茶会で、母上が選んだ紅茶を飲んで笑っていただろう。私は君のその笑顔がまた見たかったのだ。君の好きなストロベリーを用意しても、どんな話を振っても! くっ! まさか、王妃教育の所為だと誰がわかるか! あああ! あいつか! アドルフのあの仏頂面が悪い!!」
殿下の後方で、何かバシバシと叩く物音が聞こえますが!?!
え?お茶会で私が笑った――あ、もしかして、無意識で!だからあの時、皆様の視線が!?
「リーナっ……そうか……リーナ、公の場ではそうかもしれんが! 私の前くらい感情を出してもいいのだぞ! というか出してくれ! 私は、君のいろんな表情が見たいのだ! 君の事をもっと知りたい! いつでも君は、私が問うたことにしか答えてくれなかったから、私の話がつまらないと思っていたのだぞ!」
はいぃぃ?ええ?これはどういう未来ですか??
私は、婚約破棄されるのでは??
「兎に角! 邸に帰るぞ!」
殿下の鶴の一声で公爵家に帰ることになったので、挨拶をと奥へ向かうと、あぁ……会話が聞こえたのでしょう……あんな大声で話していれば、ですよね……。
皆様全員が起立されていて、にこやかに出迎えておられて。
「お騒がせいたしました……何か行き違いがあったようですので、邸に戻ることになりました」
「はい。ようございました。私ども安心いたしました。私どもは、貴女様がどのような御方か存じておりました。しかし、貴賎なく接していただき、子ども達にも優しく接していただき感謝しております」
神官様が礼をされると、シスター様達も神官様に倣われています。
――そうでしたか。ご存知でしたか……馭者のロブが私をいつも見守ってくれていたそうで、私の素性は彼から聞いていたらしいのです。いやはや……。
私も皆様にお礼を告げて、神殿を後にしました――――。
もう帰ることはないと思っていた我が家に到着すると……私の姿を見つけるなり、お母様が外へと駆け出して抱き締めてくださいました。
「リーナっ、よかったっ、本当によかったっ」
そうでしたか……私は独りぼっちと思っていましたが、そうではなかったようです。
「ただいま戻りました…」
「はぁぁ……まさか、王妃教育でこんな事態になろうとは思いもしなかったぞ……」
「は? 王妃教育がどうかなさいましたか、殿下」
お父様が珍しく呆けておられます。
「リーナの笑顔が見れなかったのは、王妃教育で感情を出すなと習ったことを鵜呑みにしていたからだ。馬鹿真面目か、馬鹿正直か! だがな、アドルフ! お前の所為だ! あんなに仏頂面でいつもいつもいたら、リーナも笑えんだろうが!!」
「――殿下――大いに八つ当たりに聞こえますが?」
「五月蠅い! リーナに冤罪をかけたやつが何を言うか!」
「まあまあ、殿下。照れ隠しに八つ当たりしなくても。ぶふっ!」
ヴァーン様が口に手を当てて、何やら見たこともない顔で笑っておられます……。
「いいか! 婚約は絶対破棄などしないからな!」
「じゃあ、あの令嬢はどうするんだい?」
「――お前達が引き受けられないか?」
はい?え?側妃にしないので??
「殿下。側妃でもよろしいのでは?」
お父様も同じことを思われたようで、殿下に進言されます。
「いいや。あの者はちょっとな」
「私も遠慮しますよ」
「え? お兄様は、メンデス嬢をお好きだったのでは?」
「は? 私がいつそんなことを言った?」
思わず尋ねれば、お兄様が呆れ顔で見てこられます。あら??
「え、でも、昨年の夜会で踊っておられたではありませんか」
「――ああ、あれはだな、デヴュタントでもあったお前が好奇の目で見られないように踊っただけだ。実際お前にその目が来ていたぞ。それに、どんな者か観察していたのだ。お前という婚約者がいるのに、あの者は殿下に擦り寄ろうとしている気配が出てきていた。現に、あの者はお前が殿下と踊っていると、そういう目で見ていたからな」
口を真一文字にして黙り込んでいたら。
「お前も気づいていたようだな」
「……はい。お兄様……」
「殿下の寵愛を受けるのなら、側妃として揉め事を起こさないか監視していた。だが、あれは駄目だ。不遜な目でお前を見るどころか、男に誰彼なく愛想を振りまいていた。意図的か無意識かは知らぬが、あれではな」
「俺も断る」
パトリック様も拒否されました。
「私もちょっと。今日だって引いたよ。だって彼女、殿下が機嫌悪くなって帰って来た時、私に抱きついて泣いてたからね。振り払う真似はしなかったけどさ」
え?抱きついて泣く?抱きついて?は?淑女が婚約者でもない殿方に抱きつく??
「くくっ。イリアーヌ嬢の反応が普通だよね」
「泣いていたとは、どうしてですの?」
「さあ? 理由は言わなかったよ。薄々気づいたんじゃないかな? 殿下にその気がない事を。今ならわかることだけどさ」
「私も、お前が嫌がらせの主犯だと思い込み泣いていたのだと思っていたが、そうではなかろう。今の話を聞けばな」
「殿下は、イリアーヌ嬢が子ども達に笑顔を向けていたから嫉妬したそうだ」
パトリック様が暴露すると、思わずといった風にお兄様とヴァーン様……いいえ、お父様達も呆れていらっしゃいます。
「――お前達――暗に、私を責めているだろう」
「あれ? わかりました? だって、どうする気だい。あんな事していれば誰だって誤解するさ」
「――浅慮だったことは認める――リーナがこんな風に笑ってくれたらと重ねてみていたからな」
「えええ!! 下種い! 殿下、それ下種い!!」
皆さんが苦笑いされています。といいますか、ヴァーン様って結構発言が率直なのですね……こんなに気さくな仲でしたか、初めて拝見しました。
「それにしても、お話を伺う限りでは、そのご令嬢が嫌がらせを受けても自業自得に聞こえましてよ。抱きついて泣いた理由を言わないなんて、まるで何かあったかのように誘導していますもの。夜会でも、あれでは反感を買って当たり前でしょうに」
お母様が眉根を寄せていらっしゃいます。私も同感ですね。
「そして私達は、その涙の術中に見事に嵌ったわけだね。憶測で動いてしまったのが仇となりました。心よりお詫びを――」
ヴァーン様が私達に頭を下げられました。
「女の涙は偽証の常套手段でしてよ。まだ若い貴方方が嵌っても致し方ないかもしれませんわね」
「恥ずべき教訓です、母上」
「ええ、そうなさい。大事に至る前にリーナが見つかってよかったわ……」
お母様が小さい頃にしてくださったように頭を撫でてくださいます。
「であれば、今後あの者の事は放置して、リーナを手元に置かれていてはどうですか?殿下」
「それがいいと思うよ? 噂を払拭するならね。それに、嫌がらせはあっちが態度を改めるか、婚約者を決めれば止むだろうからさ」
え?――では……二度目の人生は、何だったのでしょうか?どんな嫌がらせがあったから冤罪に……?あの時の事がまったく分からなくなりました……。
貴族らしき客が、『手の届かないところへ行ってしまった』と言っていたのは、単に婚姻したというだけ?じゃあ、私は何のために冤罪で勘当を??
――まさか……私が攫われて行方が分からなくなってしまっただけ……?
こればかりは確認のしようがありませんし……考えても無駄ですね。
「ああ、そうだな――あのような輩を近づけていたとは、浅はかだった……」
「殿下。人の本性とはそう簡単に分からないものですわ。歳を重ねても、本性を見抜くのは困難でしてよ。アドルフ、貴方も気をつけなさい」
「はい、母上」
お母様の言葉に、お兄様をはじめ、殿下方も気を引き締められました。
「ま、一時の栄華を味わったようなものだ。それでよかったと思わせておけばいいさ。あっちは満更でもなかったようだしね。唯、警戒するに越したことはないね」
「ああ、そうだな。画策するような輩だからな」
「公爵、すまなかった。私の軽率が招いたことだ」
「畏まりました殿下。この件は水に流しましょう。我々も、娘を切り捨てた身……リーナ、すまなかった……娘のお前を守れなかったのは、私の咎だ……」
「母も……ちゃんと貴女を見ていればこんなことには……ごめんなさい、リーナ……」
「リーナ――私も悪かった。もっと言葉が足りていれば――」
家族の……言葉が胸に染み……私の目から溢れる涙が次から次へと止まらなくなってしまいました――。
明日王宮に来てくれと殿下からお誘いを頂き、皆様はお帰りになられました。
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『あ!トリスターノ様』
『あれ? メンデス嬢、どうかしたのかい?』
補佐官の執務室前で待っていたのか、コゼットが通路の端で佇んでいた。
『あの……殿下からその後、何のご連絡も頂けなく。殿下は体調を崩されたのでしょうか……?』
『ああ、いいや。大丈夫だよ。きちんと政務もこなしているしね』
『そうですか……では、お会いすることは……』
『ん? 殿下のお目通りかい?』
『はい……トリスターノ様しか頼れなくて……心配で夜も眠れずにいました…殿下がご無事なら、いつものようにお話がしたくて……』
『ふふ。メンデス嬢、勘違いはいけないよ?』
『え?』
『殿下の方から誘いがなければ、お目通りは正規の手続きを踏まないと何人たりとも無理だよ――婚約者でもなければ、ね?』
『あ、はいっ! 出過ぎた真似をいたしましたっ』
顔を赤らめて、コゼットは立ち去って行った。
『ふ。恥知らずにも、今、あの者がそこに来ていたよ』
『は? 要件は』
『私を頼って、殿下に会いたいとさ』
『ふ。やはり来たか。あの家の教育はどうなっているのだろうな』
『だね』
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