11 二度目の”とき”
R15 後半に、流血描写があります。苦手な方は回避願います。
その後、あの場で倒れてしまった伯爵様は回復されたそうです。伯爵家には同情しかありません。あの人がいろいろ嘘をついていたようで、彼女だけに非難の目が向けられているそうです。そうでしょうね。あの時のご両親の様子では、何もご存じないようでしたから。
聞くところによれば、弟君がおられるそうで、周りは彼を蔑むどころか災難だったなと声を掛ける方ばかりで孤立していないそうです。この貴族社会も捨てたものでもないようです。
――そう考えれば、私の人生は、たった一人の人間に狂わされたのですね――。
「リーナ。考えてみれば、恐ろしい者であったな。たった一人の人間の所為で、君の人生が狂わされたようなものだ。まあ、私もその毒牙にかかってしまったがな……」
私が、目をぱしぱししていたら。
「ん? どうかしたのか?」
「はい。私も同じことを考えていたので驚いて」
婚姻の儀の打ち合わせのために王宮に訪れ、今は殿下の執務室でお茶をしていました。今までいつも誰かが傍にいましたが、あれからは二人でお茶をするようになりました。お兄様に理由を聞いたら、殿下と私だけでは話が続かないからと殿下が呼んでいたそうで……本当に申し訳ないというか、あの勘違いでどれだけ皆様にご負担を……。
隣に座っている殿下の指が、私の髪を梳いていきます。
「ふふ。私達の心も一つになれたのかな」
嬉しそうに微笑まれるので、私もつられて微笑みました。
「リーナ」
「はい、ジョルジュ様」
「あのな。リーナが王子を産んでくれたら、私は側妃を迎える気はない」
「は? え、でも、王家の血筋を残すために」
「ああ、それはそうなのだが……」
「――もしかして、二度目の人生の時に何かあったのですか……?」
「ん~~……リーナも最近鋭くなったよな……そうなのだ……あの時…いろいろ女や貴族共の本性を見た気がしてな……どいつもこいつも私に擦り寄ろうと……」
「……心中お察しいたします……」
「だが、あの記憶は教訓でもある。あの者の所為で狂わされた時間は、君一人がいなくなっただけで国が狂い始めていた。勢力争いもそうだが、その混乱に合わせて欲に目が眩んだ者達が愚かにもフォールズ公爵家を引き摺り下ろしたものだから政務が停滞してな。父上も日々苦悩されていた。私が持てる権限はまだ少ない。宰相が一人で背負い込むことになって、その心労で倒れたのだ――実はな、国だけではない。我が国の混乱に乗じて侵攻を画策し始めた国があるとも情報が入ってきていたのだ――」
「……」
言葉が出ません……そのままの時間が続いていたら……我が国は……。
※※※※※※※
『……うっ……うっ……』
夜会に来ていたイリアーヌと鉢合わせしたコゼット。コゼットはイリアーヌの顔を見るなり泣き始めた。困惑するイリアーヌだが、それが表情には出ない。
『――どうかしたのかい?』
『メンデス嬢? 何があった。どうして泣いている』
『そ、それがっ……』
泣いているコゼットの傍にいたイリアーヌに、ちらちらと視線が行っている。
『――何故、私をそのような目で見ていらっしゃるの?』
男達は猶も訝しげにイリアーヌを見遣っている。
『……この方が……ずっと私に嫌がらせをっ……』
『なんだって?』
今度こそ、イリアーヌにあからさまな非難の目が集中した。
『……色目を使うなって脅して……どうしてそんなことを言われなきゃ……』
『――フォールズ嬢。君、度が過ぎるのでは? 君は最近殿下に遠ざけられているそうだね。その腹いせかい? メンデス嬢が寵愛を受けていることが疎ましいのでは?』
『そうとしか言えないね。とても貴女が次期王妃の器とは思えないですね』
『――――何をしている』
『フォールズ殿。貴殿の妹君の所業をご存じで? 家名を汚すような真似を許してよろしいのですかな?』
『何の事だ?』
『メンデス嬢が寵愛を受けていることを疎み、嫌がらせを繰り返しているそうですよ』
『私は何も存じ上げませんわ』
『なら何故こうも泣いているので? おかしな話ですね?』
『――リーナ。来い』
アドルフは、イリアーヌの腕を引て夜会会場を後にした。
この話は瞬く間に社交界へと広がっていった。イリアーヌへの非難の声が男性貴族達の間で広がっている。
一方――。
コゼットに手紙を送った令嬢達は各々困惑していた。どうして自分が送った手紙がイリアーヌの所為になっているのかわからないのだ。
手紙には、夜会で節操なく色目を使って男漁りの真似は慎めと書いていたはずなのに、どうしてそれがイリア―ヌ・フォールズ批判になるのか――。
コゼットは、何処の夜会に行っても男が群がっていた。殿下の寵愛を受けているとも噂があるが、既に社交界では誰がコゼットを落とせるかといった風潮まで蔓延っている。
イリアーヌの噂は収拾がつかなくなってきていた。噂は誇張され、重臣達にも疑問の声が上がり始めている。昨年の夜会から全くイリアーヌとの交流を断っていた殿下の耳にも入る。
『アドルフ。どういうことだ?』
『――殿下……主犯は妹です……』
『なんだと! 何故そのようなことを放っておいたんだアドルフ!!』
『申し開きもなく――』
『殿下。アドルフが主犯だと認めさせたんだ。イリアーヌ嬢は、貴族籍から抹消する。殿下、公爵家の存続を許してもらえませんか――』
『――こちらに既に婚約破棄の書類を準備しております……本当に、我が妹の不徳の致すところ……心からお詫びを申し上げるしか……』
『公爵家まで罪は問わぬ――』
『有難くっ――』
『――リーナ。家を出るんだ。お前は殿下が寵愛する令嬢を辱めた主犯として婚約破棄された――』
『――――』
早馬で一時帰宅したアドルフからそう告げられ、イリアーヌは、一言も発さずに自らの足で邸を出て行った。
行く宛もないイリアーヌは、何処へとなくふらふら歩いている。自分が何をしたというのか。どうしてこんな目に遭うのか。自分はどう生きればよかったのか。どうして自分はこんな人生を繰り返すのか……。
茫然自失となって歩いていたので自分の身に危険が迫っていることに気づかない。そして、数名の男達に攫われ、気が付けば、娼館の一室に連れてこられたのだとぼんやりとした頭で理解していた――。
イリアーヌの婚約破棄と社交界追放が公表されると――。
手紙を送った令嬢達は蒼褪めている。どうしてこんな事態になったのかと、誰もがコゼットを恐れている。
――『コゼット・メンデスが殿下の寵愛を笠に着て公爵令嬢を陥れたのだと』――。
そして、誰もが口を噤んでしまっていた――――。
『うふふふ。殿下は私を大切にしてくれたの!』
『よかったですね、お嬢様。あの人は、殿下に相応しくなかったのですよ』
『そうでしょう! うふふふ。きっと私が王妃に相応しいって殿下も認めてくださったのよ!』
『ええ、ええ。そうでございますね。おめでとうございます、お嬢様』
『うん! あ、あの手紙、もう処分しておいて。もう必要ないし、怖くないから』
『畏まりました』
メイドはクローゼットに隠されていた手紙の束を取り出し、コゼットの部屋を退室していった。
(うふふふ。いい気味ね、イリアーヌ!あはははは!貴女が送って来たって証拠はないけど、貴女に決まってるじゃない、あんなことするの。自分が殿下に嫌われてるからって、逆恨みなんて怖い人。うふふふ。やっぱり私は特別なのよ!!これで王妃の座は私のものだわ!!)
メイドは暖炉に火を入れて数々の手紙を燃やす準備をする。燃えやすくするために手紙を封筒から取り出して書面を広げた、ら――メイドの目が手紙に釘付けになっている。
メイドの顔が、どんどん蒼褪めている――どう読んでも、繰り返し読んでも、自分にはそれが『嫌がらせの手紙』には見えないからだ。どれもこれもコゼットが男漁りをしているというふしだらな内容を批判するもので――一番最初に来ていたと記憶する封書を震える手で開いていく。
そこにはやはり、どう読み解いても忠告としか読めない代物。
――主は自分になんと言っていた?
『酷いのよ。自分が殿下から嫌われているからって、色目を使うななんて書いてきたのよ。ね、酷いでしょう? 私は殿下にお誘いを受けているだけなのに、逆恨みじゃない。自分に魅力がないのを棚に上げて、本当に醜い人だわ』
これのどこがそうなるのか全くメイドにはわからないのだ――メイドの手から手紙がはらりと滑り落ちていく。
――あの御方はどうなったと言っていた?
『あの人、婚約破棄されたんですって! きっと、私の嫌がらせの主犯だったからなのよ! 言ったでしょう! それにね! 家を追い出されたんですって! 自業自得なのよ。うふふ。夜会で泣いて訴えたから皆信じてくれたの。皆私の味方なんだから!』
メイドの体がガタガタと震えてきている。脳裏に、ある恐ろしい考えが浮かんだ。
主は――公爵家のご令嬢を陥れた――。
自分は主の言葉だけ信じ、あの御方を辱めていたのだと――メイドは震える手で急いで暖炉の火を消して手紙をかき集めて、自分の部屋へと駆け込んでいた。
自分は処分せずに持ってきてどうしたいのだと自問を繰り返す。
――もしこれを公にすれば、伯爵家は?だが、罪も無き尊き御方をこのまま冤罪と分かっていて放置できるのか?メイドは心が引き裂かれるような痛みを抱えてぼろぼろと泣いていた――――。
ジョルジュは執務室で書類に目を通していると、一人の令嬢が正規の手続きで面会を申し込んでいる一枚の書類を手に取った。その名は、元婚約者であった者の友人の名。予定表では、もうすぐ執務室に訪れてくる時間だ。
ふと、ジョルジュの脳裏に一つ事柄が浮かび上がる――。
――自分ににこりとも笑わないイリアーヌ。自分に興味がないと思っていたイリアーヌが、何故メンデスに嫌がらせを行う必要が?側妃候補と思っていたとしても、何故そんな事が必要なのだ?婚約破棄されてあの者を正妃にすると思ったとしても、むしろ喜ぶのでは?自分は、一度もあの者を正妃にも側妃にも迎えるとは言ったことはない。
まさかと、思うが……アドルフ達がイリアーヌを排除してまで正妃に据えたかったのか?いやまさかそんなことは……なら何故だ?と――。
その疑念が徐々に膨らんでいき、ジョルジュはアドルフとヴァーンを呼び出していた。
『――アドルフ――本当にイリアーヌが主犯だったのか?』
閉口するアドルフとヴァーン。
『アドルフ――イリアーヌが何故あの者に嫌がらせを行う必要が? 私の事など興味もない彼女が何故だ? 本当の事を申せ。何か知っているのか』
『――リーナが主犯などという証拠はありません……』
『なん、だと――ならば何故主犯などと言った……』
『殿下――噂の収拾つかなくなったからだよ――公爵家は、イリアーヌ嬢を切り捨てて噂の収拾を図ったんだ。どうしようもなかったんだよ。八方塞がりでね』
『――――リーナも、何も言わずに出て行きました……』
『イリアーヌ……リーナは何処へ行ったのだっ』
『……わかりません……着の身着のまま…無一文で出て行きましたので……』
『え? 金も持たせずに追い出したのかい……?』
アドルフは口元を押さえて項垂れている。
そんな様子のアドルフにジョルジュとヴァーンは驚愕するも、その表情は渋面に変わっている。
『――――私の…所為なのだな……私が疑ったからっ……』
アドルフとヴァーンは是とも否とも言えずに黙すしかない。
そんな時、訪問客の知らせが扉の外から伝えられる。面会の時間だと思いだしたジョルジュは入室の許可を出した。騎士が開いた扉からは、一人の令嬢が優雅な礼を執り入室してくる。アドルフとヴァーンが退室しようとすると。
『もし可能であれば、同席頂きたく存じます――』
令嬢の申し出を断る理由もないので二人は留まった。
『殿下。拝謁の許可がようやくおりましたので参りました。本当はもう少し早ければと悔いております。本日は、殿下にご奏上申し上げたき事がございます』
『申してみよ――――』
三人の前に凛と立つ令嬢は、泰然とした態度で話し始めた。
『改めて自己紹介いたします。私は、カトリーナ・ウェストンと申します。今は元婚約者となられたイリアーヌ様と懇意にさせていただいておりました――殿下。殿下は本気でイリアーヌ様が婚約破棄をされるような御方だとお思いだったのでしょうか? 世間で流れていた、嫌がらせというものの首謀者という根拠もない噂をお信じになられての事でございましょうか? お茶会にて、私達があのように殿方を侍らせるような方が本当に殿下に近づいてよろしいのかと、何か言わなくてよいのかと申し上げても、イリアーヌ様は、殿下にも何かお考えがあって呼ばれているのだと、何かを心配する必要はないと仰っていました。そのような方が、嫌がらせというような低俗な行いをするとは到底思えません。さらに、感情の読みにくい方ではありましたが、最近までのイリアーヌ様から特に表情がなくなっておられました。そのように仰っていても、お心内では不安にお思いだったのではないでしょうか。昨年から殿下のお目通りがなかったようにお見受けいたします。あの噂を助長させてしまったのは殿下にも責任がおありではございませんか? これは、伯爵家を代表して申しております。どうか、そういった事実があったということをお聞き入れ頂きたいと存じます――』
カトリーナはそう言葉を締め括ると、退室の礼を執って執務室を後にした。
残された三人には沈黙が流れている。
そして、ジョルジュから絞り出すような声が――。
『……リーナを探してくれっ!』
執務室を飛び出したアドルフとヴァーンは、使える伝手を総動員して秘密裏にイリアーヌの捜索を命じていた――――。
王宮舞踏会が目前に迫っている。社交界でも動きが出始めていた。
そして、舞踏会当日――。
この日の夜会は異様な空気に包まれている。どことなくけん制し合う空気が流れているのだ。また、コゼットが相変わらず男達を侍らす光景が目立っている。遠巻きに数々の令嬢達が恐れを抱いて彼女の動向を窺っており、いつもならダンスフロアにドレスの花が咲くところだが、フロアは閑散として楽団の音楽だけが流れている。王家はそんな異様な空気を目の当たりにしている。
そんな空気の中、メンデス伯爵夫人がコゼットを輪の中から連れ出し、伯爵と共に殿下のおわす場所へ近づいていく。それが皮切りとなって、いくつかの家々が紹介合戦のような事態を引き起こしていた。その様子を傍観するしかない者達。情勢を見極めようと静観する者達。この日の夜会はそんな収拾もつかぬままお開きとなっていた。
その後、王妃教育という課題を課し、いくつかの家が候補に挙がった。その中にコゼットの家もある。
ジョルジュは……半ば投げやりになっていた。
――そんな時間が流れていく中、ジョルジュに奏上したウェストン伯爵家は中央から退くことを決め、領地に引き上げていっていた。何故なら、勢力争いを起こし始めた者達が、フォールズ公爵家をイリアーヌの件を論い糾弾し、公爵を第一線から引き摺り下ろしたからだ。公爵家は発言力を失い、中央から退くことを余儀なくされていた。ウェストン伯爵家は、そんな道を選択した王家に見切りをつけたのだ。
『――ジョルジュ』
『はい、父上……』
『己が浅慮だったと自覚は。其方の婚約者の事だからと静観しておったが、この事態はなんだ――』
『はい……我が身を恥じております……』
公爵が退いた影響は日に日に如実にその皺寄せが出てきていた。それを埋め合わせるために、宰相が身を粉にして処理している。勢力争いをする者達は、お互い足の引っ張り合いを行うばかりで、中央は徐々にその機能を失ってきてるのだ。
そんな苦しい状況の中、候補に挙がっている家々からの報告が届いている。その中でも酷いのはコゼットである。届く内容は、いつも泣き言ばかりで講義が進まないという。半年も経たぬうちに、全く身が入っていないとまで報告が来る始末。
『お父様っ、どうしてこんなことしなきゃいけないのっ。どうしてすぐ私を王太子妃にしてくださらないのっ。ねえ、お父様っ』
『……コゼット? 王妃教育は必要なことなのよ? お飾りの王妃なんて、貴女が笑われるだけなのよ? それに、他の家に負けたらどうするの……』
『どうして私が負けるの! どうして殿下はずっと私を呼んでくださらないの!』
――その癇癪はとどまることを知らない――。
そんな現状で月日は転がるように過ぎ去っていた。
『……ヴァーン。リーナはまだ見つからないのか?』
『……探しているよ……アドルフも必死で……』
『だが、もう一年が過ぎようとしている……生きているのかっ、リーナっ』
前髪を握り締めて、ジョルジュは机に膝をついて項垂れている。アドルフが失脚したことでヴァーンも日々の処理に追われ、疲労の色が濃い。
――リーナの行方は依然と知れず、時は無情に過ぎていく。
そして最悪の事態が起こった。無理が祟った宰相が倒れたのだ。その容体は意識不明。邸に運び込まれたが、未だに意識が戻らないという。
ここで再び勢力争いが加速する。宰相が倒れた今、実務の最高権力者の空席争いが勃発していた。ここに来て、政務は完全に滞ってしまっていた。
『こちらでの講義は打ち切りとなりました。王家は、メンデス伯爵家は候補から外すとのことでございます』
『承知した――』
これは、宰相が倒れる少し前の事――。
課題を課してから一年半が過ぎた頃、ジョルジュはコゼットに見切りをつけていた。時間の無駄だと。もともと期待もしていなかったのだ。何故、あのような者を候補に挙げたのかと悔やんでもいる――いいや。何故あのような者を――あの者を近づけたばかりに何かが狂ったと思わずにはいられないのだ。
『――あの』
王妃教育のために伯爵家に滞在していた講師の前に現れたのは一人のメイド。この日が最後となるため、荷造りをしていた時だ。そのメイドは封筒の束を抱えているのだが、その手が微かに震えているように見受けられる。
『何かありましたかな?』
『……どうか……いいえ、必ずこれを殿下にお渡しいただけないでしょうかっ。とても大切なものなのですっ。どうか、どうかっ……』
――メイドは罪の意識に苛まれ続け、日々のコゼットの様子を窺っていたメイドは遂に決意したのだ。あのような情けない主に陥れられた一人の令嬢の無念の無実を晴らすために。
『……これは……主の罪を立証する大切な証拠なのですっ……今まで隠していた私も同罪とはわかっておりますっ。でもっ、罪も無き御方をこれ以上っ……』
必死の思いで渡してくるメイドから、講師は紐で括られた手紙の束を受け取っていた。
『わかりました。必ず届けましょう』
『ありがとうございますっ!』
メイドは深々と頭を下げて、講師の荷造りを邪魔せぬよう退室していった。講師は伯爵家を辞すると、最後の報告を届けに王宮に向かっていた。
『補佐官殿。これがメンデス伯爵家に関する最後の報告となります』
『ん? この手紙の束は?』
『はい。あの家のメイドから渡されたのでございます。詳細はこの中に書き記していると申していました。必ず殿下にお渡しくださいと念を押されましてね。大切な証拠だとも申していました』
『証拠?』
『はい。罪を暴く証拠だと――主の罪を隠していた自分にも責任があると申していました』
『わかった――』
ヴァーンに報告し終えた講師は、一礼して補佐官執務室を後にした。ヴァーンは紐で括られた手紙の束を訝しげに見遣る。そして、共に開封しようと殿下の執務室に足を向けていた。
――主の罪、とは、誰の事を指している――。
『殿下。ちょっといいかい?』
『ああ、構わんが』
『これなんだけどね。メンデス伯爵家担当の講師が託されたらしいんだ。その家のメイドからね』
『メイドが?』
『ああ。主の』
その時、扉の外から緊急事態が報告された。
『殿下! 宰相様がお倒れになられました!』
二人は顔を見合わせ、執務室から宰相執務室に急行した――そのために、メイドが託した証拠の束は殿下の執務机の上に放置されてしまっていた――――。
政務が混乱状態に陥り、宰相補佐という臨時職を設けてその任に一人の人物を据えたことでその混乱は一時凌ぎではあるが解消していた。宰相の回復を待つ、王家の苦肉の策だった。
そんな最中、一通の報告書が別の問題を引き起こす。
『父上、今なんと?』
『アスバルド国が、我が国に侵攻を企てていると間者から情報が入ったそうだ』
『馬鹿な……』
『我が国の今の混乱に乗じての事であろうな――』
『――――』
『あの子一人がいなくなって、この国は腐り始めた――それは火を見るより明らかだのう』
『……――』
『我が国は今、前例のない苦境に立たされている――宰相もおらぬ今、我が国がその国と対抗する力を発揮できると思うか――なあ、ジョルジュよ。我が最期の王かもしれぬな――』
『父上っ……――』
それ以上、二人は発する言葉もなく――夜は更けていった。
それでも公務は止まることはなく、自分の執務机の惨状に気が回るようになったジョルジュは、机の端に置いてあった手紙の束にふと目が留まっていた。その束を疲れた腕を伸ばして取り上げる。ナイフで紐を切り落とし、一番上に重ねられていた封書から中身を取り出した。
が、その時、一通の報告書を持った従者が執務室を訪れた。急を要する報告とのことで、誰にも言伝を頼んではならず、最優先事項で持っていくようにと言われていた内容であると告げられる。それを受け取ったジョルジュは、いの一番に開封した。
そこに書かれていたのは――信じ難い内容であった。
嘘だと…間違いだと言って欲しいとジョルジュの心が叫ぶ!
≪イリアーヌ嬢と思しき女性が、王都のスージン地区にある娼館にいる模様≫
『……まさか……リーナっ……お前ではないよなっ……リーナっ……』
疲労や心労で重くなっていた身体が更に重しが圧し掛かったように重くなる……ジョルジュは暫く放心していた。
『……リーナ……』
落ちていた視線に焦点が合っていくと、報告書を見る前に開いたままにしていた紙片に目が留まる。それに書かれた文字を目で追っていくと――その内容に目を通したジョルジュの顔が険しくなる。ジョルジュは他の手紙を険しい目つきで次々に開封していく。
そして――。
『ヴァーンを呼んでくれ!!』
扉の外に控えているパトリックに向かって叫んでいた。間もなくしてヴァーンが到着すると、パトリックも入室を命じられる。
『――殿下? 何かあったのかい?』
『ん? それはさっき、従者が持ってきた報告書のようだが』
パトリックは、封書の形状を記憶している。
『パトリック、すぐにこの場所にリーナがいるか確かめてくれ――』
『何だって? 見つかったのか!』
パトリックが報告書を受け取ると、そこに書かれていた内容に、ヴァーンと二人で言葉を失うことになる。娼館とは――あまりに。
『ヴァーン、これを見ろ――』
『ん? あれ? これはあの時の手紙の束だよね?』
険しい表情のままのジョルジュに、ヴァーンはすぐさま手紙を読み始める。
『――なん、だ、これは――何なんだよこれ――何が、何がこれが!!』
ヴァーンは怒髪天を衝くばかりの勢いで叫んでいた。ジョルジュの体も怒りに震えている。
パトリックもその内容に目を通し――言葉を失っていた――。
――自分達は、こんなものの為に踊らされていたのかと――。
一人の令嬢を冤罪に仕向け、自分はのうのうと暮らし、挙句、王妃教育を嫌だと赤子の様に駄々を捏ね――何の謂れもない誹謗中傷を受け娼婦に身を落とさせ、公爵家をも仇なし――そして今、我が国に最大の危機を招いた――――。
ヴァーンもパトリックもわかっていた。イリアーヌ一人がいなくなっただけで、この国が腐り始めていたことを。
あの醜い勢力争いを引き起こしてしまったのは、紛れもなく自分だと激しい後悔に苛まれ始めているヴァーン。
何故あの時、もっと力を入れてあの噂の収拾に取り組まなかったのかと――この手紙さえあれば、全てに片が付いていたはずなのにと――――どうして自分は止めなかったと!!噛み締めた唇から血が滲んでいる――。
殿下から登城の命の一報を受けたフォールズ公爵とアドルフは、久方ぶりの執務室を訪れていた。だが、そこに揃っていた面々の表情は表現し難いものが――。
『アドルフ――リーナの居場所の可能性が見つかった』
『なんですと!』『それは間違いないのですか!』
公爵とアドルフが歓喜に震える。だが、その居場所を聞いた二人は、共に言葉を失い顔色を失くしている――。
そして――例の手紙の束を目にして、二人は怒りに身を震わせ、握りしめたアドルフの拳から血が滴り落ちてくる――――。
『――私は――どれだけの大罪を犯したのか!!』
アドルフは誰憚ることなく泣き叫んでいた――。
友の…憔悴しきってやつれた顔が涙に暮れる姿を、ヴァーンはやりきれない思いで見守るしかない自分を恨んでいる。
それに遅れて、パトリックに連れられたメンデス一家が執務室に到着した。伯爵と伯爵夫人、そしてコゼット。
コゼットは、久しぶりに殿下に会えたことで喜びの表情だ。だが、そんな暢気な娘とは裏腹に、伯爵夫妻は異様な空気を感じ取っていた。先に執務室にいた者達は皆、コゼットに対し嫌悪を超えて憎悪が頭をもたげている――。
皆の険しく冷たい視線に晒されたメンデス一家は閉口している。コゼットもその視線に漸く気付いたのだ。自分は憎悪を向けられていると。
『――伯爵、其方はこれを知っていたか――』
便箋と思われるものを受け取った伯爵は、それらに書かれた内容に目を通していく。そして気付いた。
――これが、何を意味するのか。
伯爵の手が震えているのに気づいた夫人が、何事かと他の便箋を受け取って目を通していく。同様に理解した夫人の体も震え始めてきた。
『お父様? お母様? どうかなさったの…?』
『――コゼット――お前はこれを私達に隠していたのか?』
今まで聞いたこともない冷え切った声で問うてくる父親に、コゼットは眉間に皺を寄せる。何のことだと父親が手にしている物を受け取って目を通した。
『あら? どうしてこれがここにあるの? 私、処分してって言ったのに。殿下、どうしてこれがここにあるのですか?』
なんの悪びれもなく、きょとんとした顔で聞いてくるコゼットに、一同は戦慄を覚えた。
――”この人間は、一体何なのだと”――親でさえもだ――。
『――其方、これを嫌がらせと偽っていたのか――伯爵! 説明せよ!!』
ジョルジュの怒声に、コゼットは震えあがった。
『殿下! も、申し開きもございません! 不徳の致すところで、我々は何も知らずにっっ!!』
ジョルジュはパトリックの腰に吊るされた剣を抜き去り、その切っ先をコゼットの喉元に突きつけた。
『ひっ! な、何故です! で、殿下っ。やっ!!』
コゼットは腰を抜かして震え上がり、壁に逃げ場を阻まれてガタガタと身を震わせている。喉元には今にも突き刺さりそうな剣が迫っている。
そんな状況の娘を庇う事はせず、伯爵は膝をついて項垂れ、夫人はその場に頽れ、嗚咽をこらえて涙に暮れている。
『――――其方の所為で――其方の偽りの所為で! この国は亡ぼうとしているのだぞ! これが嫌がらせだと? 其方はイリアーヌを陥れたのだ! それなのにどうしてそんな顔でふざけたことが言える! 処分したはず? お前のメイドが自分の罪に苛まれ続けていたのだ! お前が嘘をついたからだ!! お前は罪の意識もないのか!!』
『な、な、なんの、ことっ、です、かっ。私は、何もっ!』
剣を持つ手が怒りで震え、その腕を一振りし、殿下は深呼吸を繰り返す。
『自分は何も罪を犯していないと?』
『はいっ。何のことを仰っているのかっ、本当にわかりませんっ』
『殿下、一思いに殺させてください――これ以上、この輩の声も聞きたくありません』
アドルフが殿下から剣を奪おうとするところを、パトリックとヴァーンが羽交い絞めにして止めている。
『しばし待て。後で許可する――まずは、この外道にわからせるのが先だ』
殺すやら外道やらと罵られたコゼットは、更に怯えている。
『其方は、イリアーヌの前で突然泣いたそうだな。何故泣いた――』
『そ、それはっ。あの人が私にその嫌がらせを送ってきたからですっ。自分が殿下に嫌われていることを逆恨みして私を悪者みたいに罵ってっ。だから目の前にいたあの人が怖くなってっ』
ばしっ!!と衝撃音が鳴り響き、コゼットの体が壁伝いに吹っ飛んでいた――母親が脇から渾身の力で頬を殴ったからだ。
『これのどこが嫌がらせだというの――これを嫌がらせという貴女の醜い性根が悍ましいわ!!』
さらに母親の平手がコゼットの頭を襲う。コゼットは悲鳴を上げて母親から逃げようともがく。
『母親が言う言葉もわからぬのか其方は――』
『ど、どうして! 皆私の味方になってくれました! 皆があの人が悪いって! だから婚約破棄をしてくれたのではないのですか! 私の嫌がらせの首謀者だからって! 私を王妃に迎えてくださると思っていたのに! お見捨てになったのにっ、どうして今更そんなことを仰るのですか!』
ヴァーンとパトリックは自分の意思でアドルフを解放する。アドルフは迷わず殿下から剣を奪い去り、そして――その切っ先を、恐怖と驚愕に顔を歪ませたコゼットに向けて振り下ろした――。
娘の返り血を浴びた母親は、ふらふらと尻餅をつく。倒れこみそうになる妻を夫が抱き留めて支え、自分の方に抱き寄せた。妻の視界を遮るように抱き込む伯爵。
その口から、抗議の言葉など出るはずもなく――。
助けを求めるように伸ばされた娘の手に――伯爵は目を閉じて拒否した。
コゼットの目が涙に濡れ、絶望に彩られる。そして、こぽりと口から血を吐き、苦しみと襲う痛みに顔を歪めて、己の血溜まりの上で虫の息となっていく――――。
コゼットの骸が衆目に晒され、イリアーヌ及び公爵家を陥れた罪人と公表されると、社交界に激震が走った。血塗れの夫人を支え、顔色を失くし憔悴している伯爵自身の口で娘の罪を認めたことで、それは白日の下に晒されたのだ。
また、公開された手紙によって、コゼットを擁護していた貴族達は震撼していた――嫌がらせの内容も知らずに、偽証の涙に踊らされて一方的に無実の令嬢を攻撃し婚約破棄に追い込んだ自分達の愚かしさに、唯々懺悔を繰り返すばかり。そして、罪人コゼットに怯えていた令嬢達は胸を撫で下ろしていた。
――遂に、イリアーヌの無実が証明され、その名誉が回復された――。
これに伴い、公爵家の名誉も回復され、醜い派閥争いは瞬く間に終息を迎えていた。無実の罪で糾弾していた者達なので誰も反論する者などいなかった。できるはずもない。宰相補佐の任は解かれ、公爵が宰相に就任。アドルフも任に復帰し、公爵を筆頭に中央の機能を纏め上げていく。
執事からコゼットの罪を聞かされた使用人達は皆が蒼褪めている。告発したメイドは一人、自室で泣いていた。申し訳なかったと。自分の決断がもっと早ければと――。
二頭の馬が王都を駆け抜けていく。
アドルフとパトリックは、イリアーヌの元へと馬を駆り立てる――――。
今また一つ、命の灯が消えていく。
イリアーヌは、ベッドの上で眠るように息を引き取っていった――――。
――そして――――『世界』は静寂の中に”引き戻されて”いく――――。
イリアーヌは、深い眠りから目を覚ました。
『……また……』
まだ”子どもの声”が、朝の静寂に包まれた部屋の中に、ぽつりと零れ落ちた。
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