年季上げまで務められた遊女はほとんど居ないは嘘です
吉原廓噺小瑠璃太夫の章は一応いろいろ調べて書いてますが意図的に紛れ込ませた嘘も結構あります。
その一つが遊女の平均年齢が24歳ぐらいで年季の27まではほとんど生きられないと書いたものです。
京都の遊郭がすでに室町時代には存在したのに対して
吉原は江戸時代に江戸が開発発展されるにしたがって出来たので当たり前ですが
まだそれほど遊女の数は多くなく郭にとって使いすてにできるほど
やすい存在ではありませんでした。
また、この頃はまだ大名や旗本御家人にもカネに余裕があったので
吉原に来ていたのは裕福な武家が多かったようです。
さらに初期の吉原は梅毒が蔓延しているというわけでもなく
そこまで衛生状態が悪いわけでもなかったようで8割ぐらいは年季を務め上げて
遊女をやめることができたようです。
とは言え遊女の中で身請けを受けられたのはわずかで、結局遣り手や飯炊き女、風呂女として
郭の中ではたらきつづけたようではありますけど。
なので、少なくとも江戸初期においては買われた遊女のほうが買われなかった
貧しい娘より良い生活を遅れたようです。
ちなみに娘達が買われていた値段ですが農村漁村は3両から10両
武家商人は20両から100両程度だったようです。
この差はもともと備えている教養の差で
農民や漁師は文字の読み書きができないが
武家や商家であればそれができたりしたのが大きいと思われます。