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バイエル  作者: 紙森けい
9/10

(最終話)

 九月の演奏会の音合わせの予定は、八月一週目の木曜日。月島芸大のワークショップから二週間余りが過ぎていた。

 いつものように橋中からは、場所と時間を確認するメールが届いていた。文面はいたってシンプルで事務的。今までもそうだったから、彼の心中を推し量ることは難しい。

(でも、伴奏は俺のままで良いってことか)

 レッスン室で彼を待ちながら、ぼんやりと思った。

 あの夜から敷島は橋中と会っていない。これまでもプライベートでメールや電話のやりとりはなく、会うことも合わせの練習日、もしくは演奏をする本番当日くらいで、何ら変わりはないのだが、前回の出来事が尾を引いていて、どうにも落ち着かなかった。

 恋だと自覚して以来、敷島の意識は橋中のことで占められている。あの低く艶やかな声が作る甘い響きで、名前を呼ばれたい。照れたように笑む表情を、いつも見ていたい。音楽の話だけではなく、もっと色んなことを話し、彼を知りたい――かつて誰にも向けたことのなかった思慕が、一気に橋中へと流れだしている。これほどの激しい感情が自分にあったなんて。恋愛相手が同性であると知ったこと、それに対して微塵も迷いがないことよりも、敷島には不思議だった。

 創立記念の式典の日、大城が恋人のために「無理にでも時間を作った」と言った。彼はフィジカルな面での意味を強調していたが、メンタリティでも同じだろう。その気持ちを、今なら理解出来る。

 レッスン室のドアが開き、橋中が入ってきた。半月ぶりに会う橋中は、少し痩せたように見える。首がますます細長い。目線を上に上げると、引き結んだ唇に行き当たった。

 敷島は頬にじわりと熱が溜まるのを感じた。夜の空気と土の匂いを思い出す。他人の唇の感触が自分の唇に甦る。合わせた胸の鼓動を、腕が記憶する温もりを反芻する。

(何だよ、俺。ファースト・キスじゃあるまいし)

 「いや」と、もう一人の自分が否定した。あれはファースト・キスだった。好きになった相手と初めてしたキスだったのだと。

「遅くなってすみません」

 聞きたかった声が、耳に滑り込んできた。敷島は立ち上がって、橋中の前に立つ。

「練習の前に言っておきたいんだけど。この前の夜のこと」

「気にしていません。お互い酔っていたし」

 橋中は顔をさりげなく背け、肩にかけていたバッグを椅子の上に置いた。

「あの時、僕はかなり情けなかったから、」

「慰めたわけじゃない。同情でもない」

 橋中の言いたいことを予想した敷島はそれを遮り、言葉を被せた。

「キスしたいと思ったから、したんだ。君が、あの男のことで迷うのが我慢出来なかった。あの男の元に戻したくなかった」

「敷島さん」

「俺は君のことが好きなんだ」

 初めて恋を知るであろう未熟な頃に向かって、時間が遡っている。この気恥ずかしさと照れはまるで、小学生か中学生だ。あの頃に本気で誰かを好きになっていたら、きっとこんな気持ちでいたに違いない。男女の関係について一通り経験したにもかかわらず、ただ「好きだ」と告げることに緊張する。

 橋中は目を見開いた。

「何を言って…」

「好きだ。だからあんな男のことなんか忘れて、俺と付き合ってくれないか?」

 頬に溜まった熱が、全身に広がる。

 橋中がため息を漏らした。それから窘めるように言った。

「馬鹿なことを言わないでください。今まで男と付き合ったこと、ないでしょう?」

「ない。けど、好きな気持ちは嘘じゃない」

 橋中は首を振る。

「お断りします。敷島さんとはそう言う付き合いをしたくない」

「なんで?」

「あなたもきっと女の人を選ぶから」

 彼は、椅子に置いたバッグの中から楽譜を取り出した。話を打ち切ろうとしていることが敷島にもわかった。

 アレッサンドロと言うイタリア人は、恋愛対象の性別にこだわらないバイだった。もしかしたら、それまでに好きになった相手もゲイではなかったのかも知れない。「あなたもきっと」――その言葉には苦さがある。

 パラパラと楽譜をめくり、橋中は譜面に目を落とす。

「もうこの話は止しましょう。練習をする気持ちになれないようなら、日を改めます」

 抑揚のない声音だった。敷島の中の熱さとは対照的だ。ただ次に発せられた言葉は、少し躊躇いを含んでいた。それは敷島の希望的観測でもあるのだが。

「もし、僕との仕事がやり難いようでしたら、他の人を頼みます」

「君はどうなの?」

 だから怯まずに尋ねる。答えに見え隠れする彼の心の機微見逃さないように、盛り上がった気持ちを抑えた。橋中は伏し目がちのまま答える。

「…敷島さんの伴奏だと歌い易いから、出来ればこのまま続けて欲しいです」

 橋中の楽譜を持つ手が一瞬震えた。

 拒絶されなかったことと、その手が見せた表情に、敷島は可能性を見出す。自分が諦めなければ、橋中は応えてくれるかも知れない。

 

『彼、好きになりかけている』


 足立の言葉が背中を押す。

「俺は降りないよ。伴奏も、君からも」

 彼の手にそっと触れた。エアコンのせいではない冷たさを、敷島の指先が感じ取る。

「自覚したばかりだからな。諦めてたまるか」

 敷島はそう言うと笑って見せた。普段なら言いそうもない恥ずかしいセリフに、再び身体中に熱が広がった。同時に悟る。

(ああ、そうか。本当に好きになると、粘り強くなるもんだな)

 橋中は宣戦布告めいた宣言に戸惑っているのか、心持ち唇が開いた。その唇に、敷島はキスしたいと思った次には、足が一歩、彼に向かって動く。一歩で、橋中の唇がすぐ目の前になった。今しも触れそうになった時、橋中が口元を楽譜で隠す。

「ぷっ、あははははは」

 その仕草が可愛くて、敷島は吹き出した。橋中は真っ赤になっている。

 慌てない。まだ恋は始まったばかりで、橋中は頑なだ。失恋に傷ついているし、異性が恋愛対象だった敷島に懐疑的でもある。そして敷島は恋の初心者で、傷ついて臆病になっている橋中の心を解きほぐし、包む術を知らない。二人には少し時間が必要だろう。

 敷島はピアノの前に座った。グランドピアノの側面のくぼみに橋中は立つ。まだほんのりと首筋まで赤い。それに煽られて昂ぶる気持ちを、とりあえず押さえ込んだ。

 

 敷島聖弘は『本気にならない男』と呼ばれている。「来るものは拒まず、去るものは追わず」が恋愛信条とも見られている。しかしそれは正しくない。彼は恋を知らないだけだった。

 唇を合わせるだけの子供のようなキスも、「好きだ」のたった一言を紡ぐことにすらも緊張した。

「じゃあ、始めよっか」

 恋を――


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