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バイエル  作者: 紙森けい
8/10

(8)

 いつも話題を振るのは敷島からだった。敷島が口を開かないと、自然、会話は始まらない。聞きたいことはあったが聞き難く、黙って並んで歩く。

 橋中の鼻歌が再び始まった。また『私を泣かせてください』だ。それが今の彼の心境のようで、敷島は思い切って聞くことにした。

「何があったんだ?」

 鼻歌が止まる。橋中は「何も」と答えた。

「何もないってわけないだろう? あんなに飲むなんて」

「飲めないわけじゃないから。打ち上げはいつもあれくらい飲みますよ」

「そうかな、俺にはらしくなく見えたけど?」

 橋中はそれに答えず、また鼻歌を歌いだした。

「昼間、楽屋に来た客と関係あるのか?」

 橋中は立ち止まって、敷島を見た。

「あの男が来てから、変だから」

「あなたには関係ないでしょう?」

 関係はない――が、気になる。あの男が来る前と後では、橋中は明らかに一変した。

「でも気になる」

 そう、敷島は気になって仕方がなかった。

 ドアを閉める前に見えた二人の抱擁。ハグは外国では当たり前のことだ。しかし敷島が招き入れた途端、まっすぐ橋中に歩み寄り、引き寄せ、抱きしめた彼の様子に、ただならぬ友人・知人関係を直感した。でなければ、橋中があれほど憔悴するはずがない。

「そんな辛そうな顔をされたら、気にならない方が変だろ」

 橋中は息を吐いた。

「…自分でもこんなに崩れるなんて思わなかった」

 そう言うと、歩き始める。

「踏ん切りをつけて帰ってきたつもりでいたけど、抱きしめられてキスされると、気持ちが戻りそうになる」

「キス…」

 敷島は思わず聞き返す。橋中は苦笑した。

「多分、気づいてらっしゃるかと思いますが、僕はゲイなんです」

 足立の推測は当たっていた。敷島自身も彼がそうではないかと思わなかったわけじゃない。ただ、橋中には足立や他の友人達のような生々しさがなかった。生々しいと言うより現実感と言うべきか。とにかく彼の隣に立つ同性の恋人を想像し辛かった。

「じゃあ、彼は恋人?」

「一年前に別れました」

 橋中の口調は淡々としていて、酔いが醒め始めていることを窺わせる。

「アレッサンドロ…は、モテるんです」

 橋中は笑った。敷島は昼間の男、アレッサンドロの顔を思い浮かべる。割れ顎でまつげが長く、グリーンの虹彩を持つくっきりとした二重の大きな目が、心持ち垂れていた。彫刻や映画で見るイメージ通りのイタリアの伊達男だった。つまりかなりの二枚目だと言える。

「だから本気になっちゃいけないって思ってた。でも優しくて親切で、愛しているって言われて。両想いなんて初めてだったからすっかり舞い上がってしまって」

 橋中が留学した当初、どれほどイタリア語や英語を話せたかわからないが、知人のいない外国での独り暮らしが心細かったことはわかる。きっとあの男は優しかったことだろう。

「アレッサンドロの家は古い家柄で、彼は跡取りなんです。フィアンセがいることも知っていました」

「橋中」

「あの頃、アレッサンドロは僕以外と付き合ってなくて勘違いしていたんです。ずっと続く関係じゃないのに、どこかで自分を選んでくれるんじゃないかって。でもやっぱり終わりが見えてしまいました」

「結婚することになったのか?」

「ええ。それも出来ちゃった婚」

 敷島の足が止まった。気づいた橋中が振り返る。どう言う表情をしていいかわからない敷島に、橋中は破顔して肩をすくめて見せた。そうやって笑えるようになるまで、どれほど時間を必要としたか。敷島は出会った頃の橋中を思い出した。どこかぼんやりとして集中力を欠いた風に見えたのは、日本での活動を軽視していたわけではなく、終わった恋を引き摺っていたのだ。

「今回、仕事で日本に来ることになって、僕の行方を捜したそうです」

「どうして? 別れたんだろう?」

「戻って欲しいと言われました」

「え?」

「跡継ぎの心配もなくなったし、離婚は出来ないけれど本当に愛しているのは君だからって」

「それって、不倫じゃないか?」

「…ですよね」

 一瞬返事が遅れた。橋中の迷いを感じ取る。敷島は彼の腕を掴んだ。その目に目を合わせる。街灯と街灯の間、暗い夜道でも、ゆらゆらと瞳が揺れているのがわかった。

 気持ちが戻りそうになると橋中は言った。まだ完全に吹っ切れていない。敷島は猛烈に腹が立った。不倫を前提に縁りを戻そうとしている男――橋中は遊びで恋愛出来る性質ではない。別れがどれだけ辛かったか、知り合って半年、それも数えられるほどしか会っていない敷島でさえ想像出来ることを、恋人同士だったアレッサンドロがわからないはずがない。たとえ橋中のことが本命であったとしても、現実はそれを理由に関係を続けることは許されない立場だ。本当に愛しているのなら、あきらめてそっとしておくべきではないのか。

(だんだんむかついてきた。まさか、あいつの元に戻る気じゃ)

 気持ちが揺らぐ橋中を、二度とあの男に会わせたくない。

 橋中の唇は微かに震えていた。瞳と心が連動しているかのようだ。その揺れを止めたいと思った時にはもう、敷島の唇は彼のそれに重なっていた。

 不意を突かれて固まる橋中の隙を逃さず、敷島は彼の首の後ろに腕を回し、抱き込む。ようやく自分の身に起こったことを理解した橋中は、身を捩り、顔をそむけようとするが、敷島はそれを許さなかった。

 唇を離して橋中を見る。彼は複雑な表情で敷島を見つめ返した。その頬をそっと手で撫でる。

 今まで何人もとキスをした。相手から乞われたり、成り行きだったり、セックスに付随したもので、自分からそうしたいと思ったことはなかった。敷島は自分でも驚いている。ついさっきまで恋愛を介さない関係だったのに…と。

 相手はタイプ云々以前に、今まで恋愛の対象に考えたことがない同性である。彼の首に回した手で抱き直した肩は骨ばっているし、ほぼ同じ高さにある胸は平らで柔らかさの欠片すらない。頬から顎の線は滑らかではあるが、毎日ではないにせよ朝になれば敷島同様、シェーバーをあてているはずだ。それなのに、抵抗がないばかりか、まだ触れていたいと思うのはなぜか。

 橋中の手が敷島の胸を押し、半歩下がる。二人の間に二十センチほどの距離が出来た。敷島を一瞬支配した言い知れぬ衝動の波が引く。その引き金になった橋中の唇の震えは止まっていた。

「その、ごめん」

 橋中は「いえ」と答え、敷島に背を向け、歩き始めた。足取りは普段の調子を取り戻している。酔いが醒めていることがわかった。むしろ歩く速度は速いくらいで、背中は話しかけられることを無言で拒否している。

 敷島は躊躇いの末、橋中の隣に並んだ。それすら拒まれたらどうしようかと思ったが、彼はそれ以上歩速を上げなかった。しかし会話は途切れたまま。それは橋中の住むマンションが目の前に見えるまで続いた。

「すみませんでした。おやすみなさい」

 会話とは言えないだろう。敷島が言葉を返そうとするより早く、橋中はマンションへと足を速め、エントランスの中に消えてしまった。

 彼の後姿の残像を名残惜しげに目で追ったところで、敷島は自覚する――キスしたことを後悔しない、そして別れたばかりでもう会いたくなるこの気持ちが、恋だと言うことを。




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