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バイエル  作者: 紙森けい
10/10

番外編~When I Sing a Song~

 G・フォーレのレクイエムOp.48の6曲目は、バリトン・ソロから始まる『リベラ・メ』

(あ、橋中)

 列の中から前に出て来たのは、その一群の誰よりも若く、紅潮した頬に少年の面差しを残す橋中(はしなか)(みち)()だった。眠気でほとんど撃沈しかけていた杉浦祥吾は、思わず座り直す。幼馴染である彼がソロをするから、まったく興味のないクラシックを聴きにきたのだ。これを逃しては、意味がない。

 倫人が進んだ高校が音大系だったことを、今日、初めて意識した。引っ込み思案でおとなしい彼が、市民オーケストラの付属合唱団に入っていたことにも驚いたが、その演奏会で諸先輩を押しのけてソロを獲ったことには、尚更に驚いた。声は倫人にとってトラウマだと、祥吾はずっと思っていたからだ。

 倫人は小学五年生の初夏に、クラスの誰よりも早く声変わりが始まった。

 内気で、もともと自分から進んで話かけることのない性格だったが、そのことでますます無口になり、放っておくと「うん」とか「はい」とかで一日が終わってしまうこともあった。それは一番仲が良かった祥吾との会話でも同様だった。

 授業中に指されて、久しぶりに聞く倫人の『話す声』に、クラスメートは子供ならではの無邪気な残酷さで、「大人みたい」とか、「もっと喋れよ」と囃したてる。祥吾はよくそれを蹴散らして回った。

 六年生を半分も過ぎると、男子は次々変声期を迎え、もう誰も彼をからかう者はいなくなったが、話すことを躊躇うことは癖となって残り、中学になっても変わらなかった。

 別々の高校に進学し、すっかり間遠くなった。時折、通学途中の駅で出会うので、一言、二言、あいさつ程度に言葉を交わす。倫人は低く美しい声で話したが、相変わらずおとなしかった。だから音大付属の高校だと聞いてはいたが、そこで声楽を学んでいるとは、想像もしなかったのである。

 その倫人がまさか人前で――それもオーケストラの伴奏で歌うほどになっていたとは。

 短い前奏の後、倫人が歌い始めた。

 話すより何十倍も美しく魅力的な声が、ホールに響く。よどみなく歌われる外国語の、歌詞の意味はわからなくても祥吾の耳は拒絶しなかった。

 卓越した技巧を持ち、経験から来る表現力で歌い上げるプロの声楽家と高校生とでは比べようもないし、クラシックや声楽に知識も興味もない祥吾には、倫人が本当のところ、どれほどに上手いのかわからない。しかし声の美しさは、祥吾に眠る暇を与えなかった。

 確かに友人の欲目もあるだろう。これまでの倫人を知っているだけに、彼が大勢の人の前で、臆することなく歌っていると言うことに感動しているだけかも知れない。それでも――今、祥吾の耳を釘付けにしているのは、他の誰でもなく倫人の声なのだ。

「上手いわね、この子」

「まだ高校生ですって。声は若いけど、先が楽しみね」

とは隣から聞こえた会話。

(誰が聞いても、上手いんだ)

 祥吾は自分の耳の正しさを確信し、同時にとても誇らしかった。




 終演後、祥吾は合唱団の控え室を訪ねた。手の中の花束が気恥ずかしい。高いチケットをタダでもらった上に、ソリストが友人なのだったら、「絶対、花は持って行くべき」と、やはり趣味でコーラスをやっている母が出がけにカンパしてくれたのだ。花屋に入るのも恥ずかしかったが、出来上がった花束を持ち歩くのも、体育会系の男子高校生には恥ずかしかった。そして持っていておかしくない空間に入っても、恥ずかしさが薄れることはなかった。だから控え室から出てきた倫人に、押し付けるようにして渡した。

「今日は来てくれて、ありがとう」

「橋中、上手いなぁ。俺、ビックリした」

 祥吾の賛辞に、倫人は微笑んだ。

「祥君のおかげだよ」

「おれ?」

 倫人は頷いた。

「小学校の卒業式の時の『今日の日はさようなら』、僕一人だけ声が違って、みんなに笑われて」

 祥吾は記憶を辿る。

 彼らの小学校では、卒業生が最後に『今日の日はさようなら』を合唱することになっていた。変声期が早かった分倫人は、すでに声がかなり低くなっていて、他の子供とはあきらかに違っていた。合同練習の時はなるべく出さないように出さないように気をつけていたが、ふいに声が通ることがあり、その度、別のクラスから失笑ともとれる笑いが上がった。


『おかしくない! おまえらだっていつかは声変わりすんだぞ! そん時、こいつほどカッコいい声になるって限らないんだぞ!』 


「祥君が、いっとう最初に言ってくれたんだ、『カッコいい声』って」

「そうだっけ?」

 次に褒めてくれたのが中学の音楽教師だったと倫人が続けた。ちゃんとしたレッスンを受ければモノになるからと、声楽の先生を紹介してくれたり、音大付属の高校を受けるように勧めてくれたのだと言う。

 周りと違うことで嫌いだった自分の声が、どんどん評価される。それはいつしか自信となり、

「今回のソロのオーディションも、ダメもとで受けてみようって」

と倫人は笑った。その笑顔は小学校・中学で見た頼りないものとは違う。

「年末に高校最後の演奏会があるんだ。またソロがあるから、良かったらチケットを送るよ。あ、祥君は受験だっけ?」

「や、俺は付属(うえ)に行くから。イン・ハイに行けたから、推薦枠に入れたんだ。だから聴きに行くよ。ごめん、橋中が歌う以外は寝てるかも…だけどな」

「弓道部だよね? 祥君はずっとサッカーで行くんだって思ってた」

「う~ん、成り行きで」

 祥吾は苦笑いで答えた。

 倫人の学校には弓道部がないらしく興味があるようだったが、打ち上げの会場に移動するため、控え室の中から声がかかり、話は中断された。

「もうすぐ学園祭があるから、招待状を送る。引退式みたいのがあるんだ。俺、引くから」

「本当?! 楽しみにしてるよ」

 倫人は嬉しそうに笑って、控え室に戻って行った。

 伸びた背筋の後姿に、その笑顔同様、かつての倫人の弱さはなかった。




 後日、倫人から手紙が届いた。演奏会に来てくれたことへのお礼が、几帳面な文字で綴られていた。

 追伸に、「面と向かって言うのが恥ずかしかったから」と始まる一文。



〝 歌を歌う時、いつも、あの祥君の声を思い出すんだ。

  小さな祥君は澄んだ声で、僕を励ましてくれる。

  気持ちいい緊張に変えてくれる。

  ありがとう、頑張るね 〟 




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