九十九話 『父子』
石壁の根元に転がっていたネズミの骨を、ダストは無言で拾い上げた。
小さな眼窩に残っていた青白い火種が音もなくこぼれ、掻き消える。
背後に立つハヴィエ卿が、灰色の空から下りて来る風にまぎれるような声で言った。
「いかな英雄、賢人であろうと、一人の人間が救える人数には限りがある。お前はルガッサ王の下で、数え切れぬほどの民を知略でもって生かしてきたが……
同時に多くの人々の命を諦め、見捨ててきた」
「……」
「お前が悪いわけじゃない。人が人を生かすというのは、そういうことなのだ。数百、数千の人間を一人残らず国難から救うのは……神以外には成しえぬことだ」
「ハナからそんなことは望んじゃいない。既にスノーバの侵略によって、コフィンの大半の命が失われている」
ダストがネズミの骨を懐にしまい込み、立ち上がる。周囲を見回し、はるか向こうの壁際に半壊した梯子を見つけると、そちらへと歩き出した。
後ろからついて来るハヴィエ卿。ダストはほつれかけた髪の縄をいじりながら、ため息をついた。
「俺の魔術に応えて現れたのなら、あんたもコフィンを守るためにしゃしゃり出て来たはずだ。ならば何故俺の後をつけ回す? さっさと民の元へでも、ルキナ様の元へでも助太刀に行けばいい」
「スノーバの神を倒せるのはお前だけだ。だからお前についている」
「邪魔なだけだ。あんたなんかが手伝えることはないよ」
吐き捨てるように言ったダストのわきを、いきなり走り出したハヴィエ卿が通り過ぎた。
彼は視界の奥に転がっている梯子へ、おそらく全速力で走り寄ると、それを抱え上げてまたこちらへ駆けて来る。
息を切らしてダストの前に立つと、ハヴィエ卿は、にっ、と笑った。
「……そこにかけてくれ」
目を一本の線のように細めるダストがわきを指さすと、ハヴィエ卿はきびきびとした動きで壊れかけた梯子を壁に設置する。
ダストが設置された梯子に足をかけると、めりっと嫌な音が響く。
とっさにハヴィエ卿が裏側から梯子を支え、「気をつけろ」とダストへ言う。
「手足に均等に体重をかけて上るんだ。甲虫か芋虫になったつもりで這うようにすればいい」
「あんたに物を教わるのは初めてだな。だがそんなことは言われるまでもなく心得てる」
「……こういう時は素直に助言を受け取るものだ」
苦笑する父親を置いて、ダストは梯子を上り、石壁の上を目指す。
ぎし、めり、と悲鳴を上げる梯子が砕ける前に壁の頂上に手を置き、半身を壁へ乗せた。
視界に入るのは、戦争の景色。王都の正面にスノーバの兵団、その南側にセパルカの軍団が見え、また逆側に首をひねれば王都の裏手に死体が散乱しているのが確認できる。
燃え上がるバリケードや咆哮を上げる原種のドゥーの姿が、ルキナやその家臣達の奮戦を物語っていた。
そして、スノーバの都の方に視線をやれば……真っ赤な蛇に体表を覆われた神が、こちらを見ていた。
まるで、滅びの象徴だ。人類が決して出会ってはいけない存在。人類には歯が立たない、天敵。それがダストの視界の中に、当然のように存在している。
「どうやって殺す?」
梯子の下からハヴィエ卿の声が上がる。
ダストは石壁の上に腰を下ろし、息をついた。それからややあって、「分からん」とつぶやく。
「巨人の屍と蛇の群を分離させられれば、まだ可能性はあった。寄生虫は宿主がいなければ生きられない……露出した蛇を倒せば『神』はいなくなるはずだった」
「神は不死身だが、赤い蛇自体は不死身じゃない。確かに今よりははるかにマシな状況だったな」
「再び神を魔法円で囲み、巨人の屍の強奪を試みるか……ラヤケルスの環は、俺自身の魔力とは半ば分離した、独立した魔術装置だ。俺が死んでも環を介して発動した魔術の効果は消えない。
だからこそラヤケルスの遺物もこの世に残っている……だが今からスノーバの都へ行って、円を作るのは……」
「私には魔術のことはよく分からん。だが、こんな姿でこの世に呼び戻されたおかげで分かったことがある」
ダストが首を傾げると、梯子の下のハヴィエ卿が低い声で続けた。
「魔術というものは、やはり世界の、自然の理から外れた禁忌だということだ。こうして生前の形をまとい現世に甦っていても、私の心には常に決定的な『喪失感』が居座っている。
自分は既に『終わってしまっている』という実感があるんだ」
「何が言いたい」
「魔術は世界を変える奇跡の業ではない。一時的に世界の理をあざむいても、結局は正しい世界の在り方に従わざるを得ないのだ。
死者が死者として、亡霊として現れることはあっても、死をなかったことにすることはできない」
ハヴィエ卿が、壁際に腰を下ろす気配がした。
「お前やラヤケルスが追い求めたことは、しょせん叶わぬ夢ということだ。こんなものは……私やフクロウの騎士に起きた現象は、復活とは呼べない。
だが、それは勇者ヒルノアの魔術にも言えることだ。人が神を創ることなどできはしない。不死身の存在など、この世にあるはずがない」
「だから、何だと言うんだ……」
「我々が死にゆくさだめを背負っているなら、神もまた滅びるさだめにある。それが道理だ。またラヤケルスとヒルノアが平等に不幸になったように、お前と神喚び師も平等に滅びねばならないはずだ。それが過ぎた魔術を使った者への『罰』なのだろう。
……だが神喚び師は、今、お前と同じように死にかけているか? どう思う?」
スノーバの兵団へ視線をやるダストに、ハヴィエ卿はため息と共に言葉を吐き出す。
「そこに神を打倒するための答えがある気がするのだ。お前が魔術の代償によって身を蝕まれているなら、神喚び師も同じ状況にあらねばならないはず。だが彼女はあれほど強大な魔術を行使しながら、まったく衰弱した様子がない。
同じ力で戦争を戦う魔術師の払う『代償』は、やはり同じでなければ辻褄が合わん」
「……確かにおかしな話だが……今それを追及している暇はない……」
ダストは、王都の正面の石壁に視線を投げながら、深く息を吸って目を細めた。
「持てる最後の魔力……最後の魔術を、せめて最高の瞬間に炸裂させる。それで神を退けられれば、儲けものだ……」




