九十四話 『不安』
ゆっくりと一歩ずつ進軍するスノーバ軍の歩兵達の中、ユーク将軍はおもむろに立ち止まり、深く息をついた。
石壁の向こうから抵抗を続けるコフィン人達にも、南から現れた新手の軍勢にも、今は目をやらない。
自分の靴を見つめて動かない彼を、スノーバ兵達が流水のようによけて行く。
それまでしきりに手を振って兵を動かしていたマリエラが、はっと目をみはってユークのそばに寄って来た。
まるで飼い主の機嫌をうかがう犬のような目を向けるマリエラに、ユークは静かにつぶやく。
「スノーバを掌握した時……北の国々を倒し、制圧した時。世界の枠組みというものは、存外たやすく壊せるものだと思った。
勇者ヒルノアの遺産、赤い蛇と神の前に各国の軍隊はあまりにも無力で、ろくな抵抗もできずに我々の前にひざまずいた」
「……」
「神は不死身で、無敵。赤い蛇は倒した国の人間を忠実な兵士に変えた。
現在のスノーバ軍は、言ってみればかつての北の旧国家陣の、連合軍だ。スノーバとスノーバに吸収された近隣諸国の、全ての軍兵が生ける屍となって軍団に組み込まれている。
北の大地における全戦力……それがスノーバ軍だ」
ユークが顔を上げ、マリエラを見た。目元がひくひくと、小刻みに震える。
「……それが、何故……山脈を越えたこの地では、苦戦する? 出だしは好調だった。コフィンの兵力の大半を殲滅し、国王を殺害してやった。
占領政策も、あと一歩のところまで進んでいたのに……何故こんなことに」
「魔王のせいよ」
マリエラが、魔王に一度は封じられた喉をなでながら口を開いた。
「全部あいつのせいよ。分かりきってることじゃない。あいつさえいなければ今頃は……」
「たった一人の人間のせいで全てが狂ったとするなら、今後も同じことが起こりうるということだ。
世界を掌握できる力を持つ軍団が、一人の優れた敵のせいで危機に瀕する」
ユークが、回帰の剣を目の前に立て、その刃先を睨む。
はるか前方で、セパルカ軍とスノーバ兵達が交戦する音が響いた。
「コフィンの魔王は当然に始末する。だが第二第三の魔王が現れた時、今回の教訓を生かせぬようでは我々に未来はない。
私自身が、人間的に成長しなければならない……少なくとも魔王ダストの姦計ごとき、軽くはねのけられる男にならなければ……」
「ユーク、どうしたの? なんだかあなたらしくないわ」
ユークが、ゆっくりとマリエラを睨む。両手で自分のほほを押さえうつむくマリエラに、「どういう意味だ」と低く訊いた。
「私が向上心を口にするのが、そんなにおかしいか」
「そんなこと言ってない。そうじゃなくて……あなたはいつも堂々としていて、自信満々で……未来のことを心配したり、自分に何かが足りないなんてことは言わない人だったから……」
「弱気になっていると? この私が野蛮人どもの反乱に慌てふためいているとでも?」
ぎり、と歯を軋ませたユークが、回帰の剣の刃をマリエラの首筋にあてがった。
びくりと肩を震わせるマリエラに、ユークはほほを引きつらせながら言った。
「私はより完璧な存在になりたいだけだ。新生スノーバの歴史の汚点となったコフィン、セパルカの反乱は……今日中に、一日で鎮圧する。
マキトが魔王の首を取り次第、神を動かして敵を殲滅するぞ」
「……魔王が生きてる間は、大事を取って神を使わないってこと? 万が一にもまた乗っ取られないように?」
「そういうことだ。ところで王都内にいるマキトの様子は分かるか? やつの体内の蛇を通して向こうの状況を知れないか」
回帰の剣を首筋から離すユークから、マリエラはわずかに目をそらしながら答える。
「魔王がしたみたいに? できないこともないけど……でも、王都の外にいる神とスノーバ兵達の蛇に注意を向けたまま、王都の中のマキトの蛇にまで意識を割くことはできないわ。
マキトの蛇を操るなら、いったん神と兵団から意識を離さないと……」
「ああ、ならいい。神からは意識をそらすな。どうせマキトの性格なら、手柄を立てれば真っ先に私に分かるように合図を送ってくる。
魔王の首を長槍にでもかかげ、火でも焚くか……いずれにせよ危険を冒してまで様子を知る必要はない。今の質問は忘れてくれ」
ユークがほんの少し表情をゆるめると、マリエラは顔を上げてほっとしたように「分かった。忘れてあげる」と口角を上げた。
その時、不意に、マリエラの髪がうごめいた。波打つように盛り上がっては元に戻る髪の動きに、ユークが目を細める。
マリエラの名を呼びかけたユークが、思い直したように口をつぐみ、剣を鞘に戻した。
首を傾げるマリエラに、小さく息をついてから口を開く。
「冷静にな、神喚び師。スノーバ軍は世界最強の軍隊だ。的確に動かせば、あれしきの敵は難なく蹴散らせるはずだ」
「任せて将軍。私は北の大地を統一した女よ。あなたにいつでも勝利を捧げるわ」
そう言って再び兵団の前方へ目を向けるマリエラから、ユークはさりげなく、目をそらした。




