九話 『ラヤケルスの環・後編』
「魔王ラヤケルスは古代コフィンの人間。未だこの地に多くのみずみずしい草木が芽吹き、川も、山も、生命に溢れていた時代の人だ」
木椅子とバケツに腰かけた二人は、テーブルを挟んで白湯を飲んでいた。テーブルの上にはラヤケルスの環のページが開かれた本と、木皿に盛られたふた切れのパン。
アッシュは白湯のコップを置き、自分の髪をダストにしたように編みながら口を開く。
「へえ、コフィンにもそんな時代があったんだ。なんで変わっちゃったの?」
「古代コフィン人が、巨大な獣や竜などの敵を駆除するため、毒の雨を降らせたのだ。国民全員の呪いを込めた、大魔術によってな。……前にも言ったが、コフィンにおける魔術とは無から有を生むものではない。有を不当に操る術なのだ」
髪の縄を複雑にからませ、飾りながら、アッシュは困ったような顔をする。
理解できていないのは分かっている。ダストは自分の頬に人さし指を当て、ゆっくりと説明する。
「たとえば、魔術の心得のある者は呪文を唱えることで焚き火の炎を強めたり、逆に消したりすることができる。炎の形を変え、離れた場所にある別の薪に燃え移らせることもできる」
「凄いじゃない!」
「だが、火の気のない場所で薪を燃やすことはできない。火を一から起こす魔術は存在しないということだ。そこに存在しないものは操れない。これが魔術のルールだ」
ダストは白湯の入ったコップを差し出し、水面を指さす。
「水を操る術も同じだ。水を沸騰させたり、凍らせる魔術というのは存在する。だが空のコップに水を湧き出させることはできない。魔術とは既に存在するものを操る術であり、呪文とは操りたいものに命令やお願いをするための言葉なのだ」
「……薪を燃やしている火に、もっと強く燃えてくださいってお願いするってこと?」
「その通り。意志なきものに意志を伝え、言葉の通じぬものに言葉を伝える手段が、呪文であったり、魔術的な儀式であったりするわけだ。
だから君が以前言ったような、手の平から炎や稲妻を生み出したり、虚空から怪物を生み出すといった魔術は存在しない。お願いする対象がいないからな。呪文の伝えようがない」
なるほどとうなずくアッシュに、ダストは白湯を一口すすってから続ける。
「こういった術は正しい知識の研鑽と、何千回何万回という試行錯誤の末に習得するものだ。大変な努力と忍耐が必要だし……また習得しようにも、魔術を危険視する国家や政府が、歴史上何度も魔術の弾圧と根絶を画策してきたから、魔術知識を伝える魔法書というものがほとんど現存していない。
努力次第でどんな下層階級の人間でも使えるようになる魔術というものは、支配者にとっては反乱の種になりうるからな」
ゆえに現代のコフィンでは、魔術を使う者はほとんどいない。
そう続けたダストが、だが、と白湯を飲み干した。
「魔術の生みの親である古代コフィン人は違った。彼らは人類以上の力を持つ生物と戦うために、強力な大魔術をいくつも編み出し、習得していた。そしてコフィン史上、ただ一度だけ使用されたのが毒の雨の秘術。野山に咲くコートリを国中に増殖させ、さらに一度に開花させ、地上から空へ向かう豪風にその毒の蜜を乗せる。雲の中に運ばれた大量の毒はやがて地上に、雨となって帰って来る」
「コートリ……って、前に私が飲んだあれ!?」
「本来、数の少ない花だ。それゆえに捕食者を殺すための猛毒を持つ。古代コフィン人はそれを人為的に増やし、雨に混ぜた。
巨大な、天に近い生き物ほどその雨に皮膚と肉を蝕まれ、絶滅する。また大量の毒は土に染み込み、弱い植物を枯らし、さらには天と地を行き来する雨のサイクルを狂わせた。
増えたコートリは人類の天敵が滅びた後も蜜を吐き続け、世界を毒気に沈めた。人類がその花を、あらかた摘み終えるまでな」
唾を飲み込むアッシュに、ダストはコップのふちを指でなぞりながら、細めた目を向ける。
「魔術に何故『魔』という字が入っているか分かるか。魔とは人の心を惑わせ、蝕み、正気を失わせるもののことだ。自然に存在するものを人の都合でゆがめる魔術は、正気の沙汰じゃないってことだ。種を滅ぼすほどの狂気には、必ず大きな代償がついてくる」
「敵を倒すための魔術が、人の住む土地を地獄に変えたってこと? その時の代償が今も続いていて、コフィンは豊かになれないの?」
「そういうことだ。もっとも、これらの経緯を知っているコフィン人はほとんどいないだろうがな。はるか昔の話だし……都合の悪い事実は、歴史から抹消されるものだ。人類がコフィンの大地を汚したなどという記述は、正史には残っていない。
記載されているのは、魔王ラヤケルスの碑文にだけ、だ」
身を乗り出してくるアッシュが、無言で続きを促すようにダストを見た。
ダストの灰色の瞳が、目の前の女の顔を静かに映す。
「毒の雨の失敗で懲りた古代コフィン人は、魔術の使用それ自体を禁忌とした。荒れた大地に魔術抜きで文明を築こうと決めたわけだ。だがこれに背く者がいた。それがラヤケルスだ。彼には最後にもう一度だけ、魔の力をもって操りたいものがあった」
「それは何?」
「人の命だ。毒の雨によって命を落とした、彼の親、彼の妻、彼の子供、友人達を、甦らせたかった」
死者の蘇生。魂の復元。
それは人がどんなに強く願おうとも、けして叶ってはならぬとされる、最大の禁忌だ。
ゆっくりとバケツに腰を戻すアッシュに、ダストは目を閉じて続ける。
「ラヤケルスは国に存在するあらゆる魔術の技法をかき集め、墓を掘り返し、棺をこじ開け、屍を切り刻み、分解し、組み立て、保存した。失われた命が帰還するための方法を研究し、ありとあらゆる忌まわしい行為を試した。
国を追われ、悪党、狂人、果ては魔物とも魔王とも罵られ、討伐隊を差し向けられても諦めなかった。やがて彼の悪名は、歴史に残るほどに肥大する」
「……三本角の魔物って、そういうこと? ラヤケルスのことを知らない人が、魔王の名前から連想して彼の実像をゆがめたってことなの?」
「コフィンにおける最も邪悪な伝説が、『棺の魔王』ラヤケルスの伝説だ。人の屍を操る魔術を使い、生命を冒涜し続けた悪の王。伝説では彼は古代コフィンの勇者に追い詰められ、その首を衆目にさらされたとある。
最悪の魔王が討たれたことでその魔力が消滅し、コフィンを蝕んでいた毒の雨が降ることもなくなった、とな」
アッシュが「ちゃっかり人のせいにしてるし……」とテーブルの木目に視線を落とした。
ダストは目を開け、そんなアッシュの顔を観察する。
「ラヤケルスの物語は、彼自身が逃亡生活の中で僻地に遺した碑文に記されている。もちろん彼が自分に都合の良い話を捏造した可能性はあるが……ただ、彼の碑文はコフィンの王都にある正史の碑文よりも古い。それは石の材質、状態からも明らかだ」
「ラヤケルスの碑文はどこにあるの?」
「ほとんどは破壊されたようだが、少なくとも一つは現存している。……あの、石の祭壇の中だ」
アッシュが顔を上げ、ほほをひきつらせた。
ダストはその目の奥を覗き込み、唇を動かして言葉を連ねる。
「あの骨の手は、ラヤケルスが遺した魔術の産物だ。彼が甦らせようとした彼の縁者の、成れの果てだ。屍同士が癒着し、巨大な一つの集合体として今も地下でうごめいている。動いてはいるが、あれに死者の魂はない。ただの死体の塊だ」
そんなものを、ダストは操り、人を殺すのに利用した。
アッシュの目の奥に、初めてこの家で目覚めた時と同じ、強い恐怖の色がよぎった。だがそれは一瞬のことで、彼女は強く首を振り、恐怖と、おそらく嫌悪を振り払ってくれたらしい。
なんでもない風を装って再び口を開く彼女に、ダストは胸の内で、そっと礼を述べた。
「魔術はこの世に存在するものしか操れないんでしょう? じゃあ、あれはいったい、何? あれを動かしてる力はこの世のものなの?」
「そこでこの本の、ラヤケルスの環が関わってくる」
ダストが本のページを指で叩き、そこに記された図形をなぞる。
重なった真円が形作るそれをなでながら、ダストの目が、異様な光を帯びる。
「この図形は、いわゆる『魔法円』だ。図形自体に力と意味があり、この図形の中に術者や、魔術で操られる対象が入ったり触れたりすることで、魔術の効力が補強される。
ラヤケルスが開発した環は、命の循環を意味している。一つ一つの真円が死と再生を意味していて、それが他の環とつながり、さらに一周して戻って来る。
つまり生と死を同じ線の上に載った同じ価値のものとしてとらえ、あらゆる死を生に変えようという図形だ。死は終わりではなく、再生の始まり。ゆえに死者が甦ることは当然の摂理だと言っている」
「ごめん、難しくてよく分からない……」
「つまりは死を経験したものを再びこの世に呼び戻すための図形だ。死が全ての終わりとなる世界観を否定し、死んだ者が即復活することが正しいのだと主張している。その主張は真円の一つ一つに宿り、真円が増えるほど、大きくなるほどに強くなる。
そして、その主張を受け入れた死者が復活する。これこそがラヤケルスが人生を犠牲にして編み出した大魔術なのだ」
アッシュはしばらくラヤケルスの環を見つめてから、ダストに上目づかいで、疑問を口にした。
「……この図形の意味は、死んだ人の心にも届くの?」
ダストは口角を吊り上げ、賢いアッシュへ答える。
「魔術は実在するものにしか効果がない。死者の魂、死者の意志とは、実在するのか? ラヤケルスは、きっと実在すると信じた。死した者は天に昇って幸せに暮らしているか、あるいは残された者を見守っている。ならば声は届くはず。そう信じた。そして」
「失敗した……」
「そうだ。彼の声は『死体』には届いたが、『死者』には届かなかった。甦ったのは物体としての屍、そこには故人の意志はなく、全く別の存在だった。
甦り、再び動き出し、話し、笑えと命じられた白骨は、ただただ動く屍として求めに応じた。真円の摂理に従い、永久に朽ちることのない存在としてな。
絶望したラヤケルスは自分の宿命と未完成の魔術を碑文に遺し、足取りを消す。伝説が正しければ、どこかで追っ手に討たれたのだろう」
これが魔王ラヤケルスの物語だ。
話し終えたダストを、アッシュはしばらく見つめていた。その形の良い唇がやがてそっと震えるのを、灰色の瞳はじっと、観察する。
「何か、かわいそうだね。結局彼は親しい人達にもう一度会いたかっただけなんでしょ」
「ああ」
「ダストはどうやってラヤケルスの碑文を見つけたの? 偶然?」
「ああ。穴を掘っていたら、地下に埋まっていた石室を見つけたんだ。ラヤケルスの隠れ家さ……そこで碑文と、屍でできた遺物を見つけた。それからずっとラヤケルスのことを研究している」
「穴を掘ってた? なんで……」
その時だった。突然世界が明滅し、地鳴りのような音とともに壁が震えた。
目を丸くする二人の頭上から、数秒送れてざあああ、と、音が降って来る。「ああああっ!」と叫んでアッシュが立ち上がり、家の外に飛び出して行った。
ダストが天窓を見上げると、灰白色だった空が真っ黒になっていて、虫の羽を雨粒が叩いていた。
轟く雷鳴の中、本のページに目を落とす。
雨粒の影がおどるラヤケルスの環を見つめ、ダストは深く、長く、ひきつるようなため息をついた。
――邪魔者め。
小さくつぶやき、そっとページを閉じる。
開け放された草のカーテンから外に出ると、雨の中でアッシュが高い声で叫んでいた。
近づくと、ずぶ濡れの髪を振り乱して抱きついて来る。彼女が「見えた! 見えたの!」と空を指さした。
「ちらっとだけど、大きなしっぽみたいなのが雲に入って行くのが見えたの! ねえ、あれがモルグでしょ!? ねえ!」
「ああ、そうだよ」
「大きかった、すごかった! やっぱりいたんだ!! 次は絶対顔を見るよ! 絶対!!」
両手を取って飛び跳ねる彼女に聞こえないように、ダストはそっと空に向かって舌打ちをした。
だがその行為とは裏腹に、彼は心のどこかで話の腰を折ったモルグに感謝している自分がいることにも、気づいていた。