七十一話 『うつむく魔王・前編』
灰色の雲、湿り気を帯びた風、大空を舞う竜。
様変わりした世界を前に、ユークが回帰の剣を強く握り締め、ぶるぶると震わせながら魔王を睨んだ。
「――全てを元通りにしたつもりか? 我々が天に掲げた太陽を、青空を、汚らしい雲で再び覆い隠し、腐れかけた守護竜の死体を空に飛ばし……それでスノーバの戦勝に、ケチをつけたつもりか?」
「……」
「何も変わらない。貴様の魔術などでは、世界は変わらない。見ているがいい……貴様のささやかな抵抗など、すぐに……水泡に帰させてやる」
光も、赤い蝿の群も消えた広場で、二十名ほどの冒険者達が武器を構えて立ち上がる。
うつむき気味に立っている魔王を、遠巻きに囲み始める冒険者達を横目に、ユークはマリエラに声を向けた。
「マリエラ、私と共に来い。スノーバの都に戻るぞ」
「! でも……!」
「ここから赤い蛇を操っていてもらちが明かん。神はもがき暴れるばかりだ……直接、巨人の屍の部分に回帰の剣を打ち込まねばならない。
あらゆる魔術の効果を消滅させる我が剣ならば、魔王の術を解き、神を再び我々の手に戻すことができるはずだ」
ユークが、勇者マキトとレオサンドラを見て「この場を頼む」と低く言う。
「魔王は殺すな。手足を砕き、背骨を折って捕獲しろ。魔術を使えんよう口も封じておけ。
騒動が収まった後、私がじきじきに、この手で、なぶり殺す」
「今神のそばに行くのは危険だよ。いかに君と言えど降り注ぐ瓦礫をぬって神を押さえるのは至難のわざだろう。
不死の僕が行った方がよくないかい」
己の胸を指さすマキトの前で、ユークは早くも広場の出口に向かいながら首を横に振った。
「神はスノーバの力の象徴だ。それを押さえたのがお前では入植者達の心が私から離れる。
心配は無用だ……マリエラ、護衛を」
マリエラが、壇上から飛び降りて手を高くかざす。
一連の騒動を生き残った数人のスノーバ兵がユークの元に駆け寄り、さらに倒れたスノーバ兵から、赤い蛇が這い出してくる。
赤い蛇は手近な、損傷の少ない冒険者の屍に入り込み、ややあってぎこちない動きでユークの護衛に加わった。
その様子にダストを包囲している冒険者達が顔を引きつらせ、唾を呑み込む。
さらにユークが高く指笛を吹くと、どこに待機していたのか、一頭の白馬が広場の外から駆けて来た。
ユークが、器用に白馬のたてがみを跳び上がってつかみ、身をひねるようにして鞍の上に上がる。その後ろにマリエラを引き上げながら、最後にスノーバの将軍は、魔王の顔を見やった。
「女々しい顔立ちだ……恐ろしさのかけらもない。貴様のような優男に、こうまでしてやられるとはな」
「……冗談のつもりか」
うつむいたまま小さくつぶやくダスト。ユークは自分の風貌を揶揄されたと気づいたのか、一瞬鬼のような苛烈な形相に変わり、またがった白馬の腹を思い切り蹴りつけた。
悲鳴のようないななきを上げ、白馬が広場の出口へ駆け出す。
ユークと護衛達が塀の外に消えると、戦斧を担いだマキトが「さて」と隣のレオサンドラを見た。
「じゃあ、やっちゃいましょうか。どっちが先にしかけます? レオサンドラさん」
「いや、どっちがって……言っておくが私は戦わないぞ。魔術師とは経験がないし最近腰が痛いし……」
「あんたに剣を持てなんて言ってませんよ。あんたの配下の冒険者達をけしかけるか、それとも僕が先に小手調べをするかって訊いてるんです」
「おお、そうか。ではその……」
レオサンドラが目をやった瞬間、冒険者の一人が歯を剥いて「私が!」とダストに向かって走り出した。
うろたえるレオサンドラを背に冒険者は大鎌を振りかぶり、ダストの頭頂めがけて刃を振り下ろす。
依然うつむいたままの相手に、冒険者が笑みを浮かべようとした瞬間。
ダストの外套の懐から、どす黒いものが音もなく這い出て来る。
はっ、と顔色を変えた冒険者が、鎌を振る勢いに引きずられながらわきへ飛び退いた。
鎌の刃先はダストの髪先を飛ばし、鎌の柄を握る手には、ひとすじの赤い筋が走る。
ダストのななめ後ろに逃れた冒険者が、一瞬遅れて手から噴き出る血にうめきを上げた。
「……カンがいいな。多少は上等の冒険者らしい……」
ダストの懐から、子供の頭ほどの大きさもある、真っ黒な虫が這い出て来る。
正確にはそれはダストが従えていた魔物達と同じ、自らの影をまとった魔術の産物で、真っ黒な影の体の右の後肢が、刃でできていた。
ダストが携帯していた、甲虫の外骨格の柄を持つナイフだ。それを体の一部として取り込んだ虫の影が、ぼとりと地面に落ちる。
がさがさと素早く這い寄って来る虫の影に、大鎌を持った冒険者が「うわっ!」と声を上げて刃を振り下ろした。
おそらく偶然に刃先がナイフの後肢に当たり、虫は弾かれ、回転しながら空中を飛ぶ。
ダストの顔の横を虫の影が通り過ぎ、次の瞬間背後で嫌な音がした。
刃が肉をえぐる音、冒険者が血の泡を吹き、ひざをつく音。
大鎌を握った冒険者が蒼白になった顔で見つめる先には、ナイフに喉を貫かれた冒険者と、その傷口から後肢を引っこ抜こうともがく虫の影がいる。
経過を見守っていた他の冒険者達が、流される仲間の血に一斉に怒声を上げ、ダストに殺到した。




