六十四話 『綱引き』
頭上の大地が揺れ、ぱらぱらと土と小石が落ちてきた。
ラヤケルスの石碑の前に膝を抱いて座ったアッシュが、天井を見上げて小さくはなをすする。
石室を満たす宝石の反射鏡の光。地上では青空と太陽の下、魔王ダストが死をかけて戦っているはずだ。
「神様……」
どうかあの人を、お守りください。
膝に顔をうずめ、うめくように祈る。
頭上から、さらに断続的に、得体の知れない揺れが響いてくる。ぎゅっと目をつぶると、背後の石碑のさらに向こうにいる遺物が、ごりごりと身を揺すって音を立てた。
不安とさみしさに、貝のように身を縮める。降って来る小石に足を叩かれながら、強く、強く祈った。
「もう……大事な人を、奪わないで……連れて行かないで……神様……」
お願いだから。
食前の祈りのような、形式ばった祈りではない。ただ自分の中の願いを、そのまま言葉にして繰り返した。
あの人を、ダストを、殺さないで。見捨てないで。
私を、二度も一人ぼっちにしないで。
神様……神様……
「死ぬよ」
意識が混濁するような、強い不快感が耳から脳に染み渡った。
背後から、聞こえてはならないものが聞こえた。自分以外の誰かの声が、何の前触れもなしに返ってきた。
そんなこと、あるはずがないのに。
息が止まり、すっと額から汗が垂れてくる。自然にまぶたが開いていく。
石碑の後ろに、気配を感じる。遺物の巨体ではない。人間ほどの大きさの誰かが立っているのを感じる。
胸の中に突如鉛の塊が現れたかのような、凄まじい忌避感。口を押さえ、必死に吐き気をこらえるアッシュの背後から、何者かが足音を立てて石碑を回りこんで来た。
「魔王は、死ぬよ」
視界の端に、何か白くて長いものが見える。からまり、つながった、無数の人間の背骨だ。
空中に揺れるそれがギギギ、と音を立てた時、アッシュの眼前に、真っ白な顔が飛び込んできた。
「祈ってるだけじゃ、死んじゃうよ」
白骨と全く同じ色の顔がくにゃりと笑い、青白い目がアッシュを見すえる。
ふ、と意識を手放そうとしたアッシュのほほが、次の瞬間、白い小さな手に張り飛ばされた。
「……ど……どういうことだ……!」
壇上で、レオサンドラが遠いスノーバの都を眺めながら尻餅をついた。
城壁のはざまに立ち上がった神は、噴き上がる自らの影に体中を覆われ、その眼窩に青白い鬼火のような炎を宿している。
その炎の色は、魔王ダストが引き連れてきた魔物達のそれと全く同じだ。
「神が……乗っ取られた!?」
叫ぶレオサンドラに顔を向けたユークが、次の瞬間ダストに蹴りを入れられて後方によろめく。
回帰の剣を振るおうとするも、ダストの傷口から新たに飛び立った血の蝿がユークの顔面に飛来し、眼の中に飛び込んだ。「ぐわっ!」と声をあげるユークが、眼球の裏側へ滑り込もうとする蝿をまぶたをこすって追い出そうとする。
ダストはその隙に砂嵐のように荒れ狂う蝿の群の中に飛び込み、姿を隠した。
いつのまにか、赤い蝿はダストの傷口からだけではなく、倒された冒険者の流した血や、モルグのどす黒い血液からも生まれてきている。
「くそっ! マリエラ! 何とかしろ!!」
叫ぶユークが、眼の中の蝿を潰しながら壇上を見る。
マリエラは尻餅をついたレオサンドラの隣で、両手を神へと差し出して呪文を繰り返している。
蒼白になった顔で神に呼びかけながら、「違う……!」とうめいた。
「神を乗っ取られたわけじゃない、神の支配権はまだ私にある! あそこにいる赤い蛇は全て私の従僕……ちゃんと意志も伝わっている! なのに!!」
轟音が上がり、神が城壁に体をぶつけた。スノーバの王城から、人々の悲鳴が響く。
マリエラが「やめろ!」と叫ぶも、神は痙攣するかのような異常な動きで片腕を空に伸ばし、そのまま後方に倒れ込んだ。
石の城が、神の体に押し潰される。
飛び散る石材が、もがく神の体にぶちあたり、スノーバの都に降り注いでいる。
蝿の群の中から、ダストの声が響いた。
「神喚び師マリエラ。貴様が従属させているのは、魔術的契約を結んでいるのは、あくまで赤い蛇、神に宿った寄生虫の群だ。
生き物の死体を操る能力を持つ寄生虫を操作し、間接的に巨人の屍を動かしている」
蝿の中に埋もれていた勇者マキトが、戦斧を振り回しながらユークの前に飛び出して来た。
襲い来る戦斧の刃をあわてて回帰の剣で受けるユーク。
ダストはそんなスノーバ人達に、なおも低く言葉を向ける。
「つまり、『神』という存在を成す巨人の屍と寄生虫という二つの要素のうち、神喚び師の魔術が直接支配しているのは後者のみということだ。
屍の方は、いわば手付かずの状態……それを今、俺の魔術が蘇生させた。するとどうなるか?」
屍と寄生虫の間で、綱引きが始まる。ダストの魔術に蘇生させられ、独自に行動を起こそうとする屍と、それを支配しようとする寄生虫達が、『神』としての行動権を奪い合って暴れ出すのだ。
もがき、体を跳ねさせ、城を破壊する神の姿に、マリエラが血走った目を蝿の群に向けて怒鳴った。
「私は神の中にいる何百何千もの赤い蛇を操ってる! 長年使役して、自分の手足のように自在に動かせるんだ! ついさっき屍の方を手に入れたばかりのお前と張り合って負けるはずが……!」
「俺が巨人の屍を操ってるわけじゃない。甦った屍自身が、赤い蛇の支配を拒んでいるのだ。
生き物としての赤い蛇の意志を奪い、自在に操る貴様の魔術と、屍にかりそめの命を与え、半ば自立させた上で使役する俺の魔術……術としての、本質が違う」
つまり、神を奪われないためにマリエラは赤い蛇を意識的に操り続けなければならないが、ダストはマリエラへの対抗を、自立した屍自身に任せることができるのだ。
無論マリエラも、スノーバ兵に簡単な命令を与えて半自立的に行動させたりもしていた。赤い蛇に巨人の屍を押さえつけろと命令を伝えておいて、別行動を起こすことも可能かもしれない。
だが彼女にとって、いやスノーバにとって、神は絶対に奪われてはならない命綱ともいえる切り札だ。
今正に奪われかけている神の体を放置して、意識をそらすことができるほど、マリエラは豪胆ではないだろう。
ここでも、恐怖が彼女の行動を縛り付けたのだ。
神を失った神喚び師に、はたしてどれほどの価値があるか。認めてもらえるのか。
必死に呪文を繰り返すマリエラから視線を離し、ユークが阿鼻叫喚のほとばしる蝿の嵐へ向かって、口を開いた。
「魔王、どこだ」
「知りたければ捜しに来い」
「……だんだんお前という男が理解できてきた」
回帰の剣を構えながら、ユークが、眉間に深くしわを刻む。
「計算高く、抜け目のない食わせ者だ。やることにいちいち無駄がない……必ず何らかの意味がある。
ならば、先ほどの芝居がかった登場の仕方も何かの罠か?」
「……芝居がかっただと?」
「姫騎士……ルキナ王女が焼印を押す直前に姿を現した。あまりに劇的なタイミングだった。王女を救いたければもっと早くにやればいい。巨人の屍も、マリエラが口を利けない間に奪えばよかった。
何故、今の今まで身を隠していた? 何故だ?」
「俺に教えを乞うのか? 馬鹿には理解できないぞ」
ユークが顔をゆがめ、目の前の蝿の群を斬り飛ばす。
ほんのわずかに、四散した蝿の向こうに誰かのシルエットが浮かんだ。
低い声が、蝿の羽音に混じって響く。
「本当は、もっと時間がほしかった」
ぎりぎりまで、待っていただけだ。
魔王が答えると同時に、不意に周囲に、青白い光が満ち始めた。




