六十三話 『恐怖の代償』
混乱の渦が巻き起こる。
自分達のすぐそばに現れた魔王に悲鳴を上げて逃げ出す者、逆に我こそはと武器を抱え、向かって行こうとする者。
スノーバ人達が互いにぶつかり、押しのけ、引き倒される。広場の外側に集められていたコフィン人達は衰弱した体で逃げ出すか、広場を囲む塀の影に飛び込んで身を潜めた。
ガロル達王家の家臣は、自分達を放置して魔王に向かう冒険者から解放され、立ち上がって何とかその場に留まろうとしているようだった。
スノーバ軍は、弓を持たない。冒険者達も剣や槍、鈍器を得物に選んでいる者がほとんどだ。
魔王ダストは弓をひきしぼる音だけを警戒しながら、赤いしずくをしたたらせる右手を壇上のルキナへ向ける。
曲剣を持った女がルキナに突進しようとしたが、それより早く王城の屋根から、たてがみのような青い炎を頭蓋に宿したドゥーの影が飛び降りてくる。
音もなく、しかし目の前に突如降り立つ巨体に、曲剣の女が唖然として尻餅をついた。未だ焼き印のそばにいるルキナの腹に、ドゥーの大きな頭蓋骨が大口を開け、食らいつく。
「ルキナ様!!」
ガロルとナギが叫ぶ声がした。だが青い炎を噴くドゥーの口はルキナの体をあごの間にはさむと、そのまま歯を立てずに持ち上げる。
短く悲鳴を上げるルキナが、ダストを見た。ルキナとドゥーの影に、冒険者達の何人かが向かって行く。
「王女は彼方へ!」
ダストの声と同時に、ドゥーの影が迫り来る剣先を跳び越え、敵の背中を踏み台にして人の群に飛び込む。
悲鳴の中を巨大な魔物が駆け抜け、跳び、広場の外へ向かう。
「手向かう者は――!」
ダストが、己に突進してきた槍使いの冒険者に手を向けた。刃が突き込まれる直前、ダストの外套のそでがうごめく。
「殺せ!!」
袖から、青い炎と黒い影が噴き出した。目を剥く冒険者の顔に、干からびた二匹の蛇の死体が、炎をまとって噛みつく。
悲鳴を上げる敵の体を、なんと蛇が持ち上げた。落ちる槍、肉にもぐりこむ蛇。
ダストが腕を振ると、そのまま蛇が敵と共に地面に飛ぶ。
周囲に寄って来ていた者達が、蛇に顔を食い荒らされる仲間の姿に顔を引きつらせて距離を取る。
壇上のユークが、椅子から立ち上がって笑顔で声を投げてきた。
「草原で鳥獣の死骸を拾ってきたか! 死を操る魔王には、屍こそ刃であり武器というわけか! だが今日の魔物どもは先日より強そうに見えるな!?」
「喜べ! 貴様らを殺すため、全身全霊の術を披露する!!」
ダストが右手を握り締め、血液を周囲に振りまく。
同時に壇上のマリエラがユークの前に立ち、呪文を唱えながらダストを指さした。
すると、広場にさらされたモルグの首から、その断面から、腐った血肉がほとばしる。ルキナを追って走り出していたナギ達が、その様子に悲鳴を上げた。
守護神の肉をえぐり、首の中に潜んでいたスノーバ兵達が、どすぐろく染まった鎧と剣を光らせて現れる。
広場は恐慌状態に陥っていた。恐怖と興奮が入り混じり、人と人ならざる者がごちゃ混ぜになっている。
自分に向かって走り込んで来るスノーバ兵達、そして刃を振りかぶる冒険者達の前で、ダストが荒く息をしながら呪文を口にし、握り締めた拳を地面に突き立てた。
「ラヤケルスの死の理! 骨は立ち上がり、落ちた血潮は逆行する!」
間近に迫る敵。ダストはまたもや刃が来たる瞬間に魔術を発動させる。
「『赤き蝿』よ、来たれ!!」
地面から、すえた臭いを含んだ風が立ち上る。
刃を振るう者達に、地に撒かれていた血液がそのまま風に乗って噴き上がり、音を立ててぶつかった。
冒険者達は得体の知れない攻撃に刃先を狂わせ、あるいは避けようとして飛び退いたが、赤い蛇に操られたスノーバ兵達はものともせずにダストを斬りつけようとする。
外套の袖と、腕の肉をわずかに裂かれながら地面を転がるダスト。直後その姿を覆い隠すように、裂かれた腕と手の傷から、わぁん、と音を立てて細かい赤いモノが飛び立った。
本来血液として噴き出るべきものが、細かい蝿の形になって敵の視界を覆い尽くす。地に撒かれた血液も、次々と赤い小蝿となって飛び立った。
周囲を飛び交い、体に張り付く魔術の蝿に、スノーバ兵達はむちゃくちゃに刃を振り回し、冒険者達は悲鳴を上げてもだえ苦しむ。
液体が形をなした蝿は敵の装備の隙間や目耳、鼻や口に入り込み、どこまでも奥へ侵入していく。
殺傷力はほぼ皆無だが、激痛と混乱を引き起こす魔術だ。意志を持つように体内へ入り込む血液は、様々な感覚を阻害し、冷静さを奪う。
他人の血液でおぼれる冒険者、転倒し、味方を斬りつけるスノーバ兵。
立ち上がるダストのそばに、その時になってようやく人ごみを抜けて犬や鹿の影が駆けつけて来た。
「ほぞを噛んでいるのか?」
壇上から、いつのまにかマリエラとマキト、レオサンドラを背にしたユークが声をかけた。
「あの夜……お前が我々の城に現れた時、慢心せず、今のように全力をもって戦っていれば……こんなことにはならなかったと、後悔しているのだろう?」
「……」
「調子に乗って、余裕ぶって我々をいたぶろうとして、せっかくの勝機を逃した。自分の間抜けさに腹が立つか? ええ!?」
ユークが回帰の剣を引き抜き、そばに飛んできた蝿を数匹ぶった切った。
即座に形が崩れ、小さな血の飛沫となって落ちる蝿。
ダストは片手を上げ、自分に向かって来る冒険者達の一団を指さした。犬や鹿の影が青い炎を噴き上げ、耳障りな咆哮を上げて向かって行く。
「……何故神を動かさない?」
ダストの言葉に、ユークが笑みを消してマリエラを見る。
目を血走らせるマリエラに、ダストは無感情な声を続ける。
「喉が癒えてきたのだろう。なのに何故わずかな兵士だけを使い、神をこの場に呼ばない」
「……お前など、神を使うまでもない……」
「怖いのだろう。また誤って味方を殺してしまいそうで、神や大勢の兵士を使いたくないのだ。喉が完全に癒えるまでは、高度な魔術を使いたくない……
散々使ってきた魔術の恐ろしさを、お前達はようやく認識できたわけだ」
ユークが、冷たい目でダストを見下ろしている。「負け惜しみか?」と低く訊く彼に、ダストは裂けた腕をなでながら首を傾ける。
「魔術師は、己の魔術の危険性を認識してようやく一人前だ。そして優れた知恵者は、敵の恐怖を利用する。
貴様らを殺すのは可能だった。だが神を殺すのは不可能だった。ならば貴様らに恐怖と焦りを植えつけ、神の打倒に利用しようと考えた」
「何だと……! 私が貴様を恐れているなどとッ!」
「強い力に頼りきり、戦いに頭を使ってこなかったお前には理解できまい。慢心などしていない、俺には初めから余裕などなかった。城に侵入され、傷を負わされたお前達はガタガタにされたプライドを修復するため、俺の殺害に固執した。
コフィンを屈服させるという最大の目的すら二の次に置き、たかが魔王一人の攻撃を警戒し、ほぼ全ての注意を俺にだけ向け続けた」
さっと顔色を変えたユーク達が、壇上から丘の下の、スノーバの都の方へ視線を向けた。
スノーバの都はいつもと変わらずそこにあり、神の生白い背中もわずかに城壁の間から覗いている。
異変があるとすれば……神の真上の空を、黒いゴミのようなものが旋回している。ちかちかと、青い小さな光がまたたいた。
「ガキは扱いが楽でいい。挑発すれば、すぐに誘いに乗ってくる……」
ミミズクの影が、くちばしにくわえた麻袋から液体をしたたらせている。無風の空中を舞うそれは、赤い、血液。
ダストの血だ。
「マリエラ! 神に意識を向けろッ!」
「遅い!!」
ダストが太陽と地を指さし、詠唱を始めた。マリエラも呪文を口にするが、神は動く気配がない。
生白い背にはダストのちっぽけな血痕があり、神はただ、小刻みに震えている。
「地に眠る深き星の火の心臓! 黒く燃ゆる、炎の名の下に告ぐ!!」
ユークとマキトが、刃を振りかざして壇上から飛び降りて来た。魔物達を倒し、あるいはすり抜けて来た冒険者も加わり、前後からダストを襲う。
だがダストが腕を振るうと、赤い蝿が周囲に舞い上がり、人々の視界を奪った。
「古の巨人よ! 今こそ求めに応じ」
赤い蝿の群を切り裂いて、回帰の剣が襲い掛かって来る。
剣先が国旗を巻いた頬をかすめ、ユークの怒りの形相が肉薄した。
ダストの細い手が、回帰の剣を握った腕と、青い衣の胸倉を取った。充血した両者の目が、視線が、互いの顔を貫く。
「――死より、甦れ!!」
ダストの最後の呪文がつむがれた瞬間、轟音とともに地が揺れ、スノーバの都から、黒い霧が噴き上がった。




