六十二話 『不条理の獣』
「……ダストは何をやっているんだ……このままでは、ルキナ様が……」
「ガロル、どうするのだ。このままルキナ様に焼印を押させる気か!?」
スノーバ人達の熱狂の中、石段からやや離れた位置にひざまずかされた王家の家臣達が、潜めた声を交わす。
ガロルは壇上に上がって行くルキナを血走った目で見つめながら、うめくように言った。
「今、コフィン人全員でルキナ様を救出したところで、あの方が喜ばれるはずもない。我らが主君は、我々のために、魔王ダストに時間を与えるために、身を差し出しておられるのだ」
「ダストは一体何をしようとしているんだ? お前達は何を手伝ったんだ!?」
「……神の打倒を、試みると……そう言っていた」
ガロルが、ナギとケウレネスに視線を向ける。
ナギがうなずき、他の家臣達に口を開いた。
「魔王として、一人で神に挑むと。そしてもし勝機が見えたら、自分達の判断で立ち上がってくれと、そう私達に伝えました」
「兄は昔から無意味な策は打たない人でした。我々に指示を出したのなら、必ず神をどうにかする考えがあってのことです」
ケウレネスの言葉に、家臣の一人がうろたえながら「どうにかすると言っても」と壇上のルキナを見る。
「神を倒すにしても、ルキナ様を救い出すにしても、もう時間がない……王女が焼印を押せば、コフィンの民の心が折れる、そうなれば二度と立ち上がれんかも知れんのだぞ……」
「信じて待つに値する男なのか? 今のダストは!?」
「コフィンがスノーバに牙を剥けない理由は何です? 不滅の神の存在ゆえでしょう!? 私達に神を攻める案が一つでもありますか!」
ナギが、周囲の声にかき消されながら、それでも喉を震わせて怒鳴った。
彼らに刃を向けていた冒険者達の何人かが、見上げていた壇上から視線を戻し、ナギを見る。
「……信じて、待つしかないでしょう……!」
うめくナギの言葉に、家臣達がそれぞれの表情で、主君の背へと視線をそそいだ。
嵐のような声と、熱気の渦。壇上に上がると、背後からついて来たサリダがルキナの前に出て、ユークとマリエラに一礼した。
次いで壇上に勇者マキトとレオサンドラが上がって来て、同じようにルキナを追い越してサリダの隣に立つ。
ユークが椅子に座ったまま、ゆっくりとうなずくと、サリダ達は真っ赤になった鉄柱を遠巻きに囲むようにそれぞれの位置に陣取る。
ユークは肘掛けに立てた左腕で頬杖をつき、ルキナを見つめる。ルキナは深く息を吸って、靴を脱ぎ、焼印の差し込まれた鉄柱へと歩んだ。
素足が太陽光に温められたなめらかな石材を踏む。
マリエラが、口に含んでいた綿を鉄柱を熱する炎に吐き捨て、わずかに濁りの残った声で言った。
「靴を脱いだのは、足が勝手に恐怖から逃げ出したりしないように、かしら? けなげだこと」
「……」
「怖いなら、泣いて許しを乞ってもいいのよ。私達の足を舐めて許してくださいって民衆の前で泣きわめけば、結局得られる効果は同じだもの。民はあなたに失望し、国に失望する」
ルキナはユーク達の囲いの中で立ち止まると、自分が体を押し付ける焼印を見つめた。
炎がからみつく鉄柱から、長く飛び出した鉄の棒。その先には、醜い豚の紋章が、真っ赤になってルキナを見つめている。
周囲の人の大群から、何かが飛んで来てルキナの足元に落ちた。
視線を落とすと、腐った虫食いだらけの芋が潰れている。
豚のエサだ。食ってみせろ。
そんな声と嘲笑がルキナに放たれた。
マリエラも、サリダも、マキトもレオサンドラも笑みを浮かべていたが、ユークだけはルキナをまっすぐに睨んで、低く声をつむぐ。
「魔王は現れないな」
「……どうかな」
「お前の悲鳴が聞こえれば、やって来るか? お前の尻が焦げる臭いをかげば、姿を現すか? それともお前が首輪をはめられて、コフィン人どもが絶望しきるまで雲隠れしたままか?
……そもそも魔王が人のために戦うことほど、不条理なことはなかったか」
ユークが、焼印を指さした。見物衆の声が、ひときわ大きく空気を揺るがす。
「やれ。屈辱を受け入れ、精一杯の声で魔王を呼べ」
ルキナは首をひねり、己の家臣達と、魂を砕かれたかのような顔を並べているコフィンの民を見た。
自分が守り、導かねばならない人々。彼らに何か声をかけるべきだったが、この暴力的な歓声と罵倒の嵐の中ではルキナの言葉など届きはしないだろう。
空を仰ぎ、目を閉じた。数度呼吸を繰り返し、心臓の高鳴りを多少おさえてから……すっとまぶたを開けると、ドレスの胸元に手をかける。
たやすく、ばりっと音を立てて、ドレスが裂けた。
胸部の心臓の埋まっているあたりがあらわになり、肌に熱気が触れる。
コフィン人達が息を呑む気配。スノーバ人達の声はますます大きくなる。
そのまま焼印へ近づくルキナに、サリダが「おい!」と声を上げた。
「スカートめくって尻に押し付ける約束だぞ! 胸じゃ笑えねえだろが! っていうか下手すりゃ心臓焼けて死ぬぞ! おい!」
「心配してくれてるのか?」
「はぁ!? 何でお前なんか……!」
「見ろ。我が民を」
サリダが目を向けると、コフィンの人々は口を引き結び、先ほどよりも強い視線で王女を見つめていた。
絶望の色はあっても、失望の表情はない。誰もが精一杯の姿勢で地面に立ち、拳を握り締めている。
唖然とするサリダに、ルキナは焼印を睨みながら言う。
「屈服には変わりない。家畜の焼印を押すことには変わりない。だが、それでも……尻を高く上げて泣きわめくザマだけは、民に見せるわけにはいかない」
「なっ……」
「最期まで、死に向かって行くのだ。死ぬ時は前に倒れるのだ。たかが姿勢一つ……だがこれが、私が民に遺す、意志だ」
ガロルが、おそらくこらえきれなくなったのだろうガロルが、ルキナの名を血を吐くような声で叫んでいた。
その声が、ルキナの耳の奥で別の言葉と重なる。
『戦え』、『戦え』、『戦え』――――かつて闘技場で聞いた、英雄マグダエルの遺言。
真っ赤に焼けた鉄棒が立ち上らせる熱い空気を吸い込みながら、ルキナは自分を見つめるユーク達に言った。
「コフィンは負けない。たとえ百年の隷属に捕らわれても……いつか……」
「ああ……そうだろうさ」
喜びに満ちたユークの声に、違和感を感じた。
死、そのものを象徴する焼印を睨んでいたルキナの耳から、あれほど荒れ狂っていた歓声と嘲笑の渦が遠のいていく。
……人の声が、消滅する。炎の燃える音だけが取り残された空間で、ルキナはややあって、肌に触れかけていた焼印から目を離し、広場の入り口の方を振り向いた。
「そうだろうさ……不条理な貴様は……のこのこと、飛んで、火に入って来る……」
ユークが、低く喉を震わせて笑いながら、割れた人垣を指さした。
声を呑み込む人々があけた道に立つ者。外套をまとい、スノーバの国旗をかぶった男。
その殺気と、憎悪と、悪意に満ちた眼が、壇上へと注がれた。
「待っていたぞ、魔王」
ユークの声が響いた瞬間、魔王ダストが両手を外套のポケットから抜き放ち、獣のような咆哮を上げた。




