六話 『朝食』
限りなく白に近い灰色の空。一夜明けた草原に、雲にろ過された陽光が降りそそぐ。
天窓をすりぬけて顔を照らす光に、アッシュが草のベッドの上で身もだえし、ぱちりと目を開けた。
彼女の覚醒を横目に、石窯から鉄板を取り出す青年ことダストが「おはよう」とあいさつする。
「よく眠れたか。急ごしらえのベッドだから、ひょっとしたら虫がいたかもしれないが」
「おはよう。大丈夫、どこもかゆくない」
身を起こしながら答えるアッシュが、あくびまじりに左手のひじを右手でつかみ、「うーん」と伸びをする。
ベッドから足を下ろし、さっそく竜の兜をかぶろうとする彼女を、ダストが「こら」と短く叱った。
「顔も洗わずに鉄をかぶるやつがあるか。テーブルに湯と布が置いてあるから体を拭け。それから朝食だ」
「……ダストってなんだかママみたいね」
苦笑いするアッシュが兜を戸棚の上に戻す。のろのろとテーブルに向かい、木桶に張られたぬるま湯から、温かい布を引き出し、顔を拭く。
「ああ、ありがたい。この国に来てから寒い思いばかりしてきたから、お湯がすごく気持ちいい」
「入国したのはどのくらい前?」
「さあ、どのくらいになるんだろ。毎日生きるのに必死で日にちなんか忘れちゃったよ。遠くの港町から行商人の馬車に乗せてもらって来たんだけど、入国したとたん国境が封鎖されちゃって。一緒に来た商人がすごく困ってたよ」
「スノーバ兵が国境に配置される寸前にやって来たのか……運の尽きだな」
鉄板の上のパンを木の皿に移し、テーブルに運ぶと、喉元を拭いていたアッシュが鼻をくんくん鳴らして覗き込んで来る。
四つあるまん丸のパンは、わずかに草の色がついており、底の方がきつね色に焼けて香ばしい匂いを漂わせている。
木桶と布を片付け、代わりに二つのコップに白湯を注いで持って来るダスト。「何か手伝うよ」と言うアッシュに「結構だ」と答える。食事の準備は整った後だ。
「今日の空は灰白色、コフィンにおける晴天だ。しばらくは天空竜が現れることはないだろうから、後で家の掃除を手伝ってもらおう」
「ん、分かった」
木椅子に座るダストとテーブルをはさむ形で、アッシュは壁際にあったバケツを裏返して床に置き、腰かける。
みしりと音を立てるバケツ。でかくて重い尻だなと片眉を上げながら、ダストは肩をすくめた。
「さあ、食べよう。昨日は薬湯だけ飲んで寝てしまったから腹ペコだろう」
言いながらパンを取ると、アッシュは目をつぶり、胸の前で両手を組んだ。
首を傾げるダストの前で、わずかにほほ笑み、口を開く。
「慈悲深き我が主よ、あなたの限りない愛と御恵みによりてこの糧を頂きます。願わくば愚かなるこの身をあわれみ、祝福をくださりますよう。日々を見守られ守護を頂ける幸福に感謝いたします」
「いや、そこまで感動されると少々照れるな」
白い髪先を指でくるくると巻くダストの言葉に、アッシュが笑みを消して薄目を開いた。
「……ダストにお礼を言ったんじゃなくて、食前の祈りを捧げたのよ」
「祈り?」
「コフィンにはないの? 食べる前の、神様へのお祈りの習慣」
ダストはまじまじとアッシュの顔を見つめ、やがて無言でパンに目を落とした。
指で二つに裂きながら、「ない」と答える。
「コフィンは痩せた土地だ。鉱物の類は潤沢だが、食べ物に関してはいつも問題がつきまとっている。この国での食事とは、人の叡智と工夫、努力のたまものだ。神の手柄にしてやる余裕はない」
「殺伐とした考え方だなあ」
「それに、コフィン人は日常的に神や精霊に語りかけたり、祈りを捧げることを恐れる。下手に偉大な存在に声をかけ、祈りが届きでもしたらやっかいだからな。ほら……例の骨の手の呪文と同じだ。
魔術はまず、何か偉大で強大な存在の名を唱え、その代弁者として動かしたいもの、変化させたいものに命令を送るという仕組みなんだ。たとえば天におわす神の名の下に世界に対して平和を命じ、世の悪人が突然死しはじめたら物凄く困る」
「そんな馬鹿な」
「もちろん現実にはそんなことは起きない。偉大なモノの名を使って何かを動かすには大変な訓練と知識が必要だし、まして人類全体に影響を与えるほどの魔術など聞いたこともない。だが、何かの拍子ということはあるかもしれない。
だからコフィンでは神への祈りは刃物同然に慎重に扱われるし、魔術を扱える者もほとんどいない」
「えっ? じゃあダストは」
「だいたい、君はさっきの祈りをどこの神に捧げたんだ? 祖国の神は、君の両親を迫害したんじゃなかったか」
アッシュが、祈りの形に組んでいた手をぱたりと落とした。
テーブルの木目を見つめる彼女に、ダストは表情を変えることもなくパンをかじっている。
「……両親を処刑したのは、あくまで人間だから……神様は、何もしてない……」
「そうだな。何もしてない。初めから、何もしてないさ」
ダストの意味深な台詞に、アッシュが軽く彼を睨んだ。パンの中から出てきた草の種をこりこりと噛み潰しながら、線の細い青年は母が娘に対するような声音で言う。
「何もしてくれない神に、祈りをくれてやる意味があるのか?」
「信仰って、そんなものじゃないと思う。魔術とは別物よ」
「救いをもたらさないくせに、祈りだけ受け取るとは傲慢だ」
「人を救うのは人よ。思いを果たすのも人の使命。神様は、本来は見守ってくださるだけの存在だもの」
ダストは思い、という言葉に眉根を寄せた。この世で、一番嫌いな言葉の一つだった。
思い、想い、念い……それはダストにとって、誰かに推し量ってもらい、察してもらうのを待っている言葉だ。何かに込めたそれを、優しい誰かが拾い上げ、感動してくれるのを期待している。そんな風に聞こえる。
込めるなら思いではなく、意志であるべきだ。思いはどんなに強くとも踏みつけられれば忘れ去られる。だが意志は違う。思いを果たすなどという言い回しは……
ダストはそこまで偏屈な考えをこね回して、終いにした。
目の前の鼻を赤らめ始めている女がそんなことを議論したいわけじゃないのは分かっていたし、これ以上噛みつけば口喧嘩になりそうだ。
最悪、泣いてしまうかもしれない。そう考えたダストは白湯をすすりながらパンの皿を指さした。食えという意味だ。
「まあ、いいさ。君がどの神を慕おうが俺には関係のないことだったよ」
「ダストはこの国の神様を信じてないの? あなたの呪文は天空竜モルグに向けられたものじゃなかったわ。コフィンの守り神なんでしょ」
「モルグには俺の望みを叶える力がない。あれは空にあり、翼の風圧や巨体の移動によって雲や空気の状態を変え、稲妻と雨を呼ぶだけの存在だ。俺は別に雨乞いがしたいわけじゃないからな」
「……何か、微妙に話が噛み合わないなあ。神様も能力で選別されちゃうのか……」
ようやくパンに手を伸ばしたアッシュが、裂かずにそのまま歯を立てた。
もぐもぐと口を動かしながら、目を見開いて「おおっ!?」と声を上げる。
「すごくやわらかい! ひょっとして上等のパン? 王都の炊き出しで出されたのはバリバリの石みたいなやつだったよ」
「その石みたいなパンが本来のコフィンのパンだ。だがそれも、もうすぐ王都の食卓から消えるだろう。材料のラズオネという植物の畑がスノーバの連中に潰されたからな……俺のパンはカチカという草の種を潰した粉に、同じ草の根をすりつぶした粘り気のある汁を混ぜて焼いている。
こうすると硬さが消えてふっくらと焼き上がるんだ。俺が見つけた方法だから、王都の連中は知らんだろうがな」
「教えてあげればいいのに。こっちの方が断然おいしいよ」
「俺の話など聞いてくれないよ。罪人だから」
アッシュは早くも一つ目のパンをぺろりと平らげて、二つ目に手を伸ばしながらダストを見る。「そういえば昨日もそんなこと言ってたけど、いったい何をしたの?」……問いかける彼女に、薄い唇が静かに開閉し、答えた。
「国王を怒らせたのさ」