五十三話 『飼育室』
コフィンの王城には、地下室がある。
それは備蓄食料の保存庫であったり、王国の歴史において最も貴重な資料の保管庫であったりするわけだが、頑丈な鉄の扉で仕切られた部屋の一つに、調教師ダカンが管理するドゥーの飼育室がある。
壁際に並ぶ無数の檻はほとんどが空で、たまに巨大な毛皮の塊が座り込んでいると思うと、どの個体も目を閉じてじっとしている。
ルキナの肩に乗ったヤモリの影が、そんな乗用動物達を見ながら首をかしげた。
『年老いたドゥーばかりですね。こいつなどルキナ様がお生まれになる前から王城にいましたよ』
「若く強い個体から殺処分されていきましたからね」
ダカンがセパルカに行った今、ドゥーの世話は彼の弟子達が行っている。
その一番弟子の調教師がヤモリに応えながら、ルキナの前に立って飼育室を案内する。
「生き残った若い個体は、親方……ダカンがセパルカに連れて行った『イングリッドちゃん』と、あとは二、三匹しかいません。とは言え、老いた個体も馬鹿にしたもんじゃありませんよ。
ダカン特製の餌をやっていますから、戦闘はちときついですが、人を運ぶぶんには馬なんかよりずっと役に立ちます」
『特製の餌とは?』
「数種類の雑草の種と魚肉、甲虫を砕いて混ぜて、燻製にしたものです。占領前に作り置きしていたものが残っていましたので、腹いっぱい食わせてます。
あいにく人間が食うと腹を下しますが……」
「ドゥーはコフィン人の戦争に欠かせぬ仲間だからな。彼らの食いぶちは人間の食料とは別に確保しておかねばならん」
父、ルガッサの教えをそのまま口にするルキナに、ヤモリが小さく笑った。
影をまとった爬虫類の骨格が人の声を出して笑うというのは、あまり気色の良いものではない。
ひそかに顔をしかめるルキナに、先導する調教師が「それで」とわずかに首をひねって声をかけた。
「残っているドゥーの中で、最も強い個体を用意せよとの仰せですが……いったい何に使うんです、王女様?」
「国境を守っているスノーバ兵を食い殺させる」
ぎょっとした顔で立ち止まる調教師を、すかさずルキナが彼の肩を押しながら「行け」と急かす。
「何も国境警備の兵士を皆殺しにしようと言うのではない。最も警備が手薄な場所の数名を倒すだけだ」
「し、しかしそんなことをしたら、スノーバが何を言ってくるか」
「心配しなくていい。考えがあってのことだ。……案内していたのは、そこの檻か?」
ルキナが、飼育室の最奥の檻を指さして訊いた。
壁にかかった松明の火に照らされた檻の中には、つやつやと美しい毛並みの、輝くような二匹のドゥーがいる。
限りなく白に近い色の大狐。互いの体にあごを預けて眠っているその二匹を、調教師が太い指で指してうなずいた。
「ここで最も若い『アリサ』と『テレサ』です。貴族が乗る上級種ですからすこぶる従順ですよ。赤ん坊を守らせることもできるし、大の大人を八つ裂きにさせることもできます。頭が良いんですよ」
「どう思う、ダスト。この二匹でやれるか?」
『現場は丘の影になった場所です。昨夜ミミズク……いや、俺の使い魔を飛ばして、国境警備の穴を見つけておきました。
かの場所には八人の兵士が詰めていますが、丘と草が邪魔で隣の警備拠点からほとんど見えません。だから一気に強襲して制圧すれば、以降増援が来るおそれもなくなる』
「八人ですか……スノーバ兵は声を出さないから、つまりは隣の拠点に逃がさなきゃいいんですね? それならアリサとテレサの背中に腕利きの戦士を乗せれば、できないことも……」
調教師の言葉半ばで、ヤモリが不意に『あれは?』と別の方向を見た。
ルキナと調教師がつられて目をやると、並んだ檻の一つに、まるで箱のように四方を鉄壁で囲まれたものがある。
他の檻は鉄格子で仕切られているのに、その檻だけがほぼ隙間なく密閉されているのだ。
「あれはダメです。使い物になりません。『原種』なんですよ。ダカンがスノーバからも隠し切った危険物でして」
「原種? と言うと……乗用に適した性質に品種改良する前の、野生のドゥーか?」
首を傾げるルキナに、調教師が深くうなずいてみせる。
「野生も野生、手付かずの種です。しかもふつう、野良のドゥーはよっぽどじゃなきゃ人間に近づいては来ませんが、あの檻の中にいるヤツはセパルカ戦役で兵士の死体をたらふく食ってましてね。
人間を餌として認識してるから、好んで襲っては食い殺すんですよ。制御不能の殺人獣です」
「そんなものを何故飼ってるんだ……王城の地下で」
じとりと睨んでくるルキナに、調教師が頭をかいて「親方のせいですよ」としれっと言う。
「ダカンはとにかくドゥーに目がないんです。ドゥーの全種類を世話したいと心底願ってた人でして。だから国王陛下に、逃がした時は自分の命で償うという条件付で飼育を許されてたんです」
「……時々、父上は懐が深すぎると思うことがある」
『いつものことですな。しかし面白い。あの檻の原種も使いようによっては戦力になる……ルキナ様』
ヤモリがルキナの頬に前足を置く。
『戦士団の猛者をそこの二匹に乗せて、国境の警備を破ります。乗り方はダカンに倣って、ギリギリまで毛皮で姿を隠すのが良い。拠点を制圧後は、そこからセパルカの使者に御帰り願いましょう』
「共に戦うとさんざんごねておられたが、やはりこれほど分の悪い戦に他国の者を巻き込むわけにはいかんしな。ましてや将校を」
『単独で越境して来てくれた返礼に、貴重なドゥーと戦士を使ってお見送りしたという形なれば、コフィンが生き残った後のセパルカとの関係もより良好になるでしょう。
それに使者に神と神喚び師に関する最新の情報を持たせて、セパルカに伝えてもらえば、それも恩を売ることになります』
「……あまりやりすぎると、セパルカ王が援軍を送って来るかも知れんぞ。そうなったら彼らを守れん」
『その前に決着がつくと思います。……ルキナ様、大丈夫ですか』
ルキナはヤモリをちらりと横目で見て、くまの浮いた目元を指先でこすった。
「……弱音を吐いている場合ではない」
『あと何日、動けそうですか』
「死ぬまでだ。お前が姿を現してくれたおかげで、勇気が湧いてきた。絶望の闇に向かっていたコフィンに希望の光が差したのだ。暑さごときには負けん」
『買いかぶりすぎです。神とスノーバを倒せる確率は、五分もありませんよ』
「今までは勝算すらほとんどなかったのだ。頼りにしているぞ、ダスト」
ヤモリがみょうに早口で調教師へ『ドゥーにハミをつけてくれ』と注文する。
調教師が自分達から十分に離れるのを待ってから、ヤモリは話を再開した。
『お願いした工作は、今日の日没までに済ませてください。神喚び師の喉が癒えてからでは危険です。決して悟られないように、コフィン、スノーバ両方の都に、細心の注意をもって細工をお願いします』
「分かっている。最も体力の残っていそうな兵士を作業に当たらせる」
『ルキナ様、私はあくまでユーク将軍に挑戦状を叩きつけた魔王として、持てる最高の魔術でもってスノーバの打倒を図ります。必ず連中に大きな傷を負わせてみせます、が……ルキナ様は、私が敗れる前提で今後の策を考えてください』
ルキナが目を剥き、何かを言おうとした。だがヤモリは無礼にもその唇を前足で押さえながら言葉を続ける。
『徹底抗戦をするも良し、最悪スノーバに服従するも良し……後者の場合はコフィンが魔王に協力したことは隠し通してください。そこの調教師の口止めもお忘れなく』
「一人では死なさん」
短く告げるルキナに、ヤモリは無言で前足を唇からどかした。
ルキナとヤモリはしばらく黙って調教師の作業を眺めていたが、不意に首をひねったルキナが、ため息混じりに再度口を開いた。
「ダスト、時間をやろう」
『何の時間です?』
「言い訳をする時間だ。……一応、過去にけじめをつけておけ」
ヤモリが振り向くと、飼育室の入り口の扉からこちらを覗き込んでいるナギと目が合った。
白骨の眼窩に浮かぶ青白い火が、きゅっと小さくなる。ルキナは天井をあおいで、またため息をついた。
「世話の焼ける年上どもだ」




