四十四話 『塵の記憶 一』
ダストという男の人生を決定的に変えたのは、セパルカ戦役の後にコフィンを襲った、未曾有の大飢饉だった。
自分と母を捨てた父、ケウレネス・ハヴィエを見返すため。彼に復讐をするためにコフィン王家の臣となったダストは、この大飢饉においても王国の知恵者として、考え得る最高の手段をもって立ち向かった。
国内の食料の配分から、緊急作物の開発、降り止まない大豪雨による地滑りや洪水への対策、さらには隣国セパルカや行商人からの物資の買い付けにも奔走した。
他の知恵者や国王、元老院との協同のもと、飢饉対策は確かにある程度の効果を生んだが、国民の全てを守るまでには至らなかった。
国全体の規模で講じられた対策は、それについて来られなかった小さな村々を取りこぼす。
王城で知恵を振りしぼる人々は国を救うための案を出し合いながら、自分の故郷がしっかりと生き残っていることを、ただ胸中で祈るしかなかった。
誰もが私情を殺し、寝る間も惜しんで働いた。
国を救えば故郷も救われる。そう己に言い聞かせて。
だからダストは、故郷から自分に送られてくる、親友が餓死しただとか、生家が腐って崩れ落ちただとか、配給された作物の種を食い尽くしてしまっただとかの手紙を忌々しく思っていた。
手紙を出すのは決まって村長か神父で、村の出身者で今は国王の腹心となっているダストに窮状を訴え、何とか食料や物資を融通してくれと羊皮紙を突き破るような字で催促していた。
だが、ダストがそれに応えることは決してなかった。ダストとて故郷を愛している。救えるものなら命に代えても救いたい。
しかし物資の配分は国の頂点の知恵者達が、何度も何度も意見を交わし計算を繰り返して、これ以上ないという妥当な数値でもって決定したものなのだ。
誰の私情もはさまず、全ての村を平等にあつかった結果だ。
ダストの故郷に余分に物資を送るということは、その分の物資を他の村が得られなくなるということだ。そんなことは、断じて許されない。
送られた手紙をまとめて焚きつけ用のゴミ置き場に捨てた時、父のケウレネスとはち合わせた。
彼はダストが、自分が持って来たのと同じ手紙を捨てているのを見て、珍しく口を開いた。
「かなり、ひっ迫しているようだな」
「……そのようで」
「だが、どうしようもない」
「俺にも、あなたにも」
「お前は私と違って、故郷を愛している」
ケウレネスが、ダストの隣に立って手紙の束を捨てた。
「辛かろうな」
「…………よくも」
そんな台詞が言えたな。
そう続けようとして、かろうじてダストは言葉を呑み込んだ。
辛い。辛いに決まっている。故郷を自ら捨てた父には、この王都に新しい妻子がいる。
今更昔の女や、その知人達がいなくなったところで受ける悲しみはたかが知れている。
そうとも。貴様より、俺の方が何百倍も辛いのだ。
貴様を追って王都に来なければ、村で飢え死にはしてもこれほど心を痛めることはなかった。
貴様は疫病神だ。
血走った目でゴミの中の手紙を見るダストに、ケウレネスが踵を返しながら、ぽつりと言い残した。
「私は地獄行きだな」
耳を疑ったダストが顔を上げた時には、ケウレネスは廊下を曲がって、既に姿を消していた。
二年間の飢饉が収束する頃には、ダストの元に手紙が来ることもなくなっていた。
最後の方の手紙は、ダストの人格や良心を疑う罵倒に近い言葉ばかりが並んでいたように思う。時間を惜しんでほとんど読み飛ばしていたため、記憶に残っていない。
各地から雨がやんだことや、作物の種の発芽、畑の再生の報告が上がってくる中、ダストの村からは何の音沙汰もなかった。
すでに滅びてしまったのか。それとも奇跡的に生き残ったが、王家への不信から手紙を寄越さないのか。
献上された、飢饉後に初めて採れたラズオネの茎を抱きながら、国王ルガッサはダストとケウレネスにこう言った。
「二人ともご苦労だった。他の家臣達同様、そなたらがいなければコフィンは今回の歴史的災厄をしのげなかっただろう。家々からはパンを焼く煙が上がり、人々の顔に笑みが戻っている。
まずは丸一日、暇をさずける。好きな所へ行き、心身の疲れを癒すが良い」
ケウレネスが王都の妻子の家に行くことは分かっていた。貴族の美しい妻と、自分の名を授けた大事な息子のもとに。
ダストはそんな父親を王城において、兵士の一人をつかまえて彼のドゥーで故郷へ向かった。
豪雨で腐った草原は、生き物の屍であふれている。その中には人間の死体も混ざっていた。いずれ、全てを回収しなければならない。
惨状はどこまで行っても続いていて、それはダストが故郷の村に着いても変わることはなかった。
村は、泥と化した地面に半ば呑み込まれていた。
家は崩れ、畑は流され、足もとの泥は渦を巻いた形で固まっている。
泥の中には腐った動物の死骸が取り込まれていたが、人の死体は見えない。
ダストは兵士とドゥーを待たせて、村の中を歩いた。泥まみれの世界にかろうじて崩れずに残っている家屋や小屋を見つけては、扉をこじ開けて中を覗く。
生存者か、あるいは死体を求めて部屋を回っても、見つかるのは腐った家具や水たまり、壁に刻まれた呪詛ばかりだった。
泥に足を突っ込んでは引き抜き、ふくらはぎの筋肉が悲鳴を上げ始めた頃。
ダストは村に残った最後の建物、教会に立ち入った。
かつて石版で王歌を学んだ教会の入り口は固まった泥に圧迫されて、ひしゃげていた。腐った木の扉を蹴り砕き、泥山に這いつくばるようにして中に侵入する。
……ダストは、教会の広間、モルグの神像が置かれた空間に降り立つと、深く、長く、息をついた。
床に並んだ、無数の棺。村人の数とほぼ同じ数だけ並んだそれらの真ん中で、一人の男が仰向けに倒れていた。
天窓から差し込む光に向かった彼は、神父の服を着ている。
ダストは歩み寄り、立ったまま彼を見下ろした。
「……遅かったじゃないか」
かすれた声を出す神父が、ごろりと眼球を転がしてダストを見る。
ダストは黙っている。
神父が、声もなく笑う。
「誰か、お捜しかな。腐らないように遺体を火葬にしたから、みんな骨になっているが……全員、ここにいるよ。君のお母さんもね」
「……」
「何故、助けてくれなかった」
顔をゆがめる神父に、ダストは低く「助けようとした」と答える。
「物資は配給した。洪水への対処や、緊急作物の育て方も手紙で教えた。他の村と、同じように」
「あれほど食料が足りないと訴えたのに……何故返事をくれなかった」
「育てるべき種まで食ってしまっては、どうしようもない。特定の村だけに追加の食料を送れば、他の村も当然に同じ量を要求する。結果、国全体がさらに飢えることになる」
神父が手を伸ばし、ダストの外套の胸元をつかんだ。
無表情に視線を返すダストに、神父は、血を吐くような怒号を放つ。
「何故そんな平気な顔をしているッ!!」
「……」
「ここはお前の村だ! お前の故郷なんだぞ! 私以外、みんな死んでしまったんだぞ!!」
「あんただけでも生きていてくれて、本当に良かった」
ダストが、目を丸くする神父の手をつかんだ。
ぎり、と爪を立てながら、薄く笑みを浮かべる。
「……平気な顔だと?」
何が。平気なものか。
ダストはおびただしい数の棺の中、背を震わせて、ひきつるような、泣き声に近い声で、笑った。
「王家の知恵者として、国を守る者として、正しく振る舞った。俺は、俺の行動は、間違っちゃいない。情を殺して、より多くの民を救った。
神父さん、俺は王都では、英雄と呼ばれているよ。飢饉に立ち向かった国王の臣……賢者の一人として、勲章まで授かった」
でも。けれども。
ダストは外套の胸に輝く青い勲章を握り締め、歯を剥いた。
「故郷は、これほどまでに破壊されてしまった。何故だろうな、神父さん……俺は、不義を働いた親父を見返すために、泣かされた母の仇を討つために、立派な知恵者を目指して村を出たのに……立派さと正しさをまとうために、母を見殺しにしたんだ」
かちり、と、ダストの歯が鳴った。かち、かち、と、恐怖に震えるように、真っ白な歯が何度も打ち合わされる。
「母が死んで、ようやく理解したよ。俺のしたことは……俺の、母や村に対する態度は…………結局、親父のそれと同じだったんだ…………」
「……ダスト……お前は……」
「こんなはずじゃなかった。違うんだ。俺は……ただ、母さんの味方でいたかっただけなんだ。母さんの心を救いたかった。正しく、立派で、賢い王家の臣であることは復讐の手段に過ぎなかったはずなのに……ぼくは何で……母より、正しさの方を取ってしまったんだ……」
違うんだ。違う、こんなのは、望んじゃいなかった。
低く、低く、繰り返されるダストの声は、やがて意味をなさないうめきに代わり、泥の中に溶けていった。




