四十三話 『生命倫理』
「ラヤケルスの遺物と、ヒルノアの遺産には、決定的な違いがある。どちらも生と死を冒涜した悪しき怪異だが……」
ダストが、アッシュの手を引いて石碑と遺物の前に進み出る。洞窟の奥に座り込み、静かに揺れている遺物の視線は、ただ虚空をさまよっていた。
その巨体を石碑の向こうに恐々と見るアッシュに、ダストが静かに声を降らせる。
「ラヤケルスは、あくまで自分の願望、故人の蘇生と再会のために遺物を作った。様々な魔術の技法を己の縁者達の屍に試し続けた結果、最終的にこのような恐ろしい姿になってしまっただけだ。遺物の姿は、ラヤケルスの罪と業の象徴なのだ」
「……ヒルノアは、そんなラヤケルスを殺すために遺産……神を作ったのよね」
「そうだ。神、不死の巨人は、ラヤケルスを殺すために作られた。そこが遺物と遺産の最大の違いだ。魔王の遺物はいわば魔術的儀式の『事故』でたまたま生まれた存在、一方勇者の遺産は、初めから殺人のための兵器として作られた存在だ。
両者はその存在目的からして違う……同様に、魔王と勇者の碑文も、後世に遺された意図がそれぞれ異なるんだ」
ダストがアッシュの手を離し、石碑の表面の文字に指を重ねた。
ぶ厚い岩に、細く引っかくように刻まれた文字。
天井付近までそびえたつ石碑の前で、二人目の魔王が目を細める。
「この碑文には、ラヤケルスの人間としての歴史と心情が刻み込まれている。ヒルノアは自身が遺す不死の巨人の脅威から、後世の人々を守るために碑文を作った。だがラヤケルスは違う。ただひたすら自分の『思い』を世界のどこかに置いておきたくて、石碑を遺したんだ。これは、ラヤケルス自身のための石碑なんだ」
「……遺書みたいなものなのね……」
「『私にはどうしても理解できないことがある。それは世の人々が考える、生命の尊さの線引きとも言うべき、矛盾のことだ』……」
ダストが石碑を見つめ、その文章を読み始めた。アッシュはその背後に立ち、黙って耳を傾ける。
「『人間は、死を恐れるものだ。自分自身の死はもちろん、自分の愛した他人の死をも恐れる。ゆえに家族や、友人や、恋人に死の危険が迫った時、是が非でもそれを排除しようとする。敵が襲って来れば立ち向かい、病魔が来たれば医者や薬に頼る。それは当然のことだし、人間の美徳ともされることだ』」
「……」
「『だがその美徳は、愛する人が死んだ瞬間に失われる。呼吸が止まり、顔が青ざめ、動かなくなった瞬間、それまでその人を命がけで生かそうとしていた者達は絶望し、泣き叫び、諦めてしまう。もうだめだ。どうしようもない。そうして、愛する人の死を受け入れる』」
石碑の向こうで、遺物が小さく何ごとかをうめいた。幼い子供のような声。それが空耳のように、ささやかに壁を震わせる。
「『古来より死は避けようのないもので、一度訪れてしまえば覆すことのできない現象だった。だからこそ人は死を絶対的なものと考え、死者は永遠に、二度と動かないことこそが正しいと考えた。死者の蘇生はありえないことで、万が一かなえばそれは悪魔の所業であると考えた』」
だが、とダストが一段声を低くする。
「『この理屈は大いに矛盾している。死が偉大だから覆ってはならないのではない。死が覆らないからこそ、人は救済を諦めざるを得なかったのだ。』……『遠い異国には、死を待つしかないほどの負傷を受けた患者に、切断してとがらせた植物の茎を通して、別の人間の血を注ぎ込むことで生かす技術があると言う。かの地では血の交換は不浄で生命を冒涜する行為と非難されたが、しかしこの技法が多くのけが人の命を救うと、やがて聖なる医術として公認された』」
アッシュは話を聞きながらつばを飲み込み、まっすぐにダストの背中を見つめる。
ダストの声はどんどん低くなり、呪詛のように岩肌に跳ね返った。
「『人間の生命倫理の構造は、この一件に象徴されている。自然状態では当然に死すべき人間がいたとしても、それを救う手立てがあれば、人々はそれがいかに忌み嫌われている技法であろうと受け入れようとするのだ。
私は断言する。血液だけではなく、肉や、骨や、内臓までもが他人のものと交換可能で、またそのための技術を誰かが有していたとしたら、人々は愛する人を救うためにその技法に聖なる地位を与えるだろう』」
「骨や……内臓……」
「『腕を切断された人に自分の腕を与え、内臓を痛めた者に己の内臓を取り出して移してやってくれと、医者に懇願するだろう。そうなればやがて人を救うために人体の供出を他人にも要請するようになり、肉や骨や内臓や、眼球や耳を売り買いする市場ができる。
そしてやがて、死体からも使える部位を得るようになる』」
アッシュは、碑文からにじみでるラヤケルスの狂気に、不思議と恐怖や嫌悪を感じなかった。
理由は分からない。現代においても間違いなく危険な発想と捉えられるだろう、人体部位の移植という禁忌。だがそれは、その発想の根源は、死に行く人を救いたいという、人間の宿命的な業に抵抗する人々の叫びに違いないのだ。
「『死は、避けることが可能ならば、絶対ではなくなるのだ。肉体の蘇生もまた、可能ならば禁忌ではなくなる。止まった心臓が再び動き出したことをとがめる者はいない。死を避けるためならば、人はどんな行為も結局は許すのだ。
血を、肉を、骨を内臓を交換することが許されるならば、死体に命や魂そのものを呼び戻すことに、何の非があろう』」
遺物が、小さな女の子のような声をどこかから吐き出した。
「『たとえ肉体が腐敗しようと、白骨化しようと、魂がそこに戻るならばそれは人命の蘇生に他ならぬはずだ。たとえ、甦った者が人間の形をしていなくとも、それが確かに自分の愛した人ならば、大多数の人がその結果を受け入れるはずだ。
私の行為を、研究を、私を殺してまで阻止しようとするコフィンの者どもは間違っている。毒の雨で失われた命が再びこの世に戻ると知れば……民の多くは、きっと私に賛同するはずだ』」
そこまで碑文を読んだダストが、ぺたりと手の平を石碑につけ、深く息をついた。「どう思う?」と向けられる問いに、アッシュは少し考えてから、口を開く。
「気持ちは……理解できる」
「そうか」
「私も、もし落とされた両親の首が元通りにつながって、また一緒に暮らせるって言われたら……喜んだと、思う。でも……」
でも。アッシュは床に目を向け、目を何度かしばたたいた。
「……でも、やっぱりラヤケルスは……受け入れられなかったと思う」
「だろうな。彼の言うことは、理屈としてはある面では筋が通っているが……あまりにおぞましく、冒涜的だ。古代においても、現代においても、社会に受け入れられることはないだろう」
ダストがアッシュを振り向き、自分の胸に右手を置いた。しかし、と、彼の口が動く。
「一人の個人に対しては、非常に魅惑的な文言だ。生命と魂の再生……それは道徳がどんなに禁忌だと主張しても、人々が心の奥底では望んでいることだ。
失われた人が、棺の中に眠ったはずの人が、ある日突然家の扉を開けて笑顔で帰って来る……その光景を、遺された者の多くが、一度は願ったはずなんだ」
「……それは……」
「そんな望み得ぬことを、古代の魔王が碑文を介してささやいてきた。この場所を見つけた俺の心に、ラヤケルスの言葉はすんなりと入り込んで来た。
アッシュ、約束だ。俺の物語を話そう。ここからは、俺が魔王の名を継ぐことになったわけを聞いてくれ」
ダストの灰色の目が、遠い過去を見通すように、静かに細められた。




