三十七話 『叫び』
家々の屋根を飛び移り、人々の頭上を越え、ダストとドゥーの影は闇の中を駆け抜けた。
都の各所にいるスノーバ兵を通り過ぎざまに観察すると、彼らは昼間と同じように、自分の警備ポイントを直立して守っている。
マリエラが負傷すれば兵士達にも多少影響があるかと思ったのだが、どうやら彼女が特に意識を向けて動かしている兵士達以外は、半ば自立して行動しているらしい。
剣を抜いて娼婦を襲っていた入植者を、複数の兵士が協力して無力化している様子を横目に、ダストは静かにため息をついた。
マリエラが声を取り戻すまでの猶予は、一日か、長くても二日だ。その間神と兵団が、コフィンや外敵を自ら攻撃することはない。
それは大きな戦果だ。しかし、ユークが言ったとおり、根本的な解決にはならない。
マリエラの喉を完全に潰すことも考えたが、それをしてしまうと神と兵団が暴走した時、コフィン人達は連中と真正面から戦わざるを得なくなる。ただでさえ主力の軍を失い、太陽の熱に疲弊しているコフィン人に、勝ち目があるはずもなかった。
不滅の神、強大なスノーバ軍、武装した入植者達。
彼らをこの大地から追い払うのは、並大抵のことではない。
八割方占領が完了してしまったコフィンにとっては、絶望的と言えた。
せめてコフィンからなるべく離れた立場から、魔王として将軍であるユークに殺意を表明すれば、スノーバがコフィンを完全に組み敷くのを先送りできるかと思ったのだが……
「俺がルキナ様を好いているだと? 糞ガキが……身分違いの恋慕を抱くのは、ガロルの小僧一人で十分だ」
本人が聞けば殴りかかって来そうな台詞を吐きながら、ダストはドゥーの眼窩に差し入れた拳を握り締めた。
影の獣、ダストの作った魔物は、頭蓋骨以外は実体がない。当然骨から体が離れれば、そのまま落下して地べたに叩きつけられる。
胸と腹を骨に密着させ、風の抵抗を受け流しながらスノーバの都の端へ到達したダストは、突如目の前に現れた光の群にあわてて「隠れろ!」と建物の陰を指さした。
ドゥーの影が、ばたつくように足を動かして陰に飛び込む。
動きは本物の獣と同じだが、実体のない足が土や石をはねることはない。
足音もなく身を潜める僕の頭骨をなでながら、ダストは光の群に向かって目を細めた。
「……ちっ……本当にヒマな連中だな、冒険者というのは……」
光の群は、ろうそくやランタンを手に持った入植者達の行列だった。
見たこともない怪物や罪人らしき人物を模した木彫り人形を、男達が引きずり、火をつけ、広い道の真ん中に捨てて歩いている。
人々は燃える人形に近くから石を投げたり、棒でつついたりしながら、神を讃える歌を歌っていた。
それが城の方で生白い体を横たえて眠っている『神』なのか、あるいはもっと漠然とした、人々を天から見守っている類の神なのかは、ダストには分からなかった。
何かの行事なのか単なる夜遊びなのか分からない騒ぎを繰り広げる人々を眺めていたダストが、不意にぎゅっと目をとがらせた。
騒ぐ大人達の中に、明らかに十歳にも満たない子供達が混じっている。
彼らは抜き身の剣を振り回し、人形を叩いて遊びながら、おそらく両親らしい男女と笑い合っていた。
「――だから何だ!」
誰に何を言われたわけでもないのに、ダストは自分の隠れた陰を作っている、建物の石壁を殴った。
ドゥーの影に「行け!」と声を向けると、光の行列を避けて都の西端へと走らせる。
「国と国との争いで、人が死ぬのは当然だ! 誰にだって家族がいる! 子供が泣かない戦争などあるものか!! ……敵国に、子供なんか連れて来る方が悪い! コフィンがやり返してこないと踏んでいるからそんなことができるんだ!!」
都の外周を守る石壁に近づくと、建物の屋根に飛び乗り、一気に跳躍する。
かつてダストが己の手で食肉にしたドゥーは、見事なフォームで石壁を越え、都の外の草原に着地した。そのまま凄まじい速度で地を駆け、都から離れる。
ダストはそれからしばらく、血走った目で前方の夜闇を睨み続けていた。
「――――ひぃっ!」
草のカーテンを開けるなり、石窯に薪をくべていたアッシュが妙な声を上げて尻餅をついた。
帰宅したダストはその反応に、自分がスノーバの国旗をかぶったままだったことに気づき、急いで後頭部の結び目を解く。
素顔をさらすと、さらにアッシュが「ひぃっ!」と声を上げた。
ダストがうんざりした顔で、アッシュを睨む。
「何だよ。まだ何かあるのか」
「口! 口! どうしたのそれ!」
指さされ、口元をぬぐうと乾いた血がぱらぱらと床に落ちる。国旗にこすりつけた血の量が意外に多くて、顔までにじんでいたらしい。
立ち上がったアッシュがさらにあーあー言いながらダストの手を取り、血だらけの傷口を覗き込んで来る。
「痛い痛い! ざっくり切れてる! こっちはどうしたの!?」
「自分で切った。……前に見たろ。屍を動かす魔術を使うには、媒体として自分の血が必要なんだ。血を流してなきゃ十分な魔術の効果が得られない」
「屍を動かすって、ひょっとしてあの子達のことですか!?」
アッシュが石窯で沸いている湯の入った鍋に向かいながら、草のカーテンのわきに座っている二匹の犬の影を指さす。
さらに石窯の近くでうとうとしている鹿の影と、棚の上で無限に頭を回転させているミミズクの影、最後に虫の羽の天窓に悲しげにはりついている大きなヤモリの影を指し、早口でまくし立てた。
「『異様なモノは君の味方』って言うから多少覚悟はしてたけど、異様なモノ多すぎ! 犬は途中で二匹に増えるし、壁の穴を抜けたら鹿が待ってて『先に帰ってろ』って言いながら先に帰っちゃうし、その後を追ってたらミミズクが『こっちだヨ』って案内してくれるし、家に帰ったらヤモリが落ちてきて『石窯に火を入れるように』って……一体何なの!? しかもみんな何食わぬ顔でくつろぎすぎ!」
「良かった」
外套を脱ぐダストに「はい!?」と、鍋を持ったままアッシュが眉根を寄せる。
彼女が鍋をこぼさぬ内に受け取りながら、ダストが無表情に言葉をついだ。
「帰っても泣いていたら、どうしようかと思ってた」
アッシュが、何度か口を開閉してから、しゅんとしてうつむき、棚の方へ歩いて行く。
棚から麻布を取り出して来て、床に鍋を置くダストに差し出しながら、アッシュはいくぶん小さくなった声で言った。
「ちゃんと手当てしなきゃ。薬、どこ?」
「必要ない。湯で洗って布をまいておけば済む。いつもそうしてきた」
「……じゃ……えっと……」
「何か、食事を用意してくれると助かる。エビは危ないから、そこにあるパンと野草を使ってくれ」
ダストが石窯のわきに積まれた袋を指さすと、アッシュがこっくりとうなずいて、しかしそちらへ行く前に、背中からダストに抱きついた。
湯に浸した麻布を傷口に当てていたダストが、ぴたりと動きを止める。
顔のすぐ横にあるアッシュの目を見て、不思議そうに、訊いた。
「くしゃみは出ないのか」
「そういうのじゃありませんので」
「外套を脱いで、上半身裸になった男に抱きつく意味は?」
「黙ってよ」
静かに言うアッシュに、ダストはしばらく彼女の瞳を見つめてから、再び手元に目を落とした。
さっと傷口を洗って、麻布の湯に浸していない部分を引き裂き、包帯代わりに巻きつける。
その様子を無言で見つめているアッシュに、ダストは今度は、声だけを向けた。
「気持ちの整理は、ついたのか」
「……うん。私達一家と、モルグの物語は、これでおしまい。夢は、かなったよ。ちゃんと竜に会えたから」
「そうか。……ではもう、思い残すことはないというわけだ」
「……うん」
ダストが不意にアッシュの腕の中で振り返り、彼女の肩をつかんだ。
目を見開くアッシュの黒髪が、ダストの白い指にからまる。
モルグの兜は、二人が家を出た時から変わらず、床に転がったままだ。
ダストが、アッシュを真正面から睨んで、「冗談だろ!」と顔をゆがめた。
「思い残すことがないだと!? 君の人生は何のためにあったんだ! 見たことも行ったこともなかった外国に住む空飛ぶトカゲを、命を捨てて拝むために生まれてきたのか!? それで夢も人生もおしまいでいいのか!?」
「……ダスト……」
「子供は親を選べない、親の生き方に人生を左右される! だがそれに最後まで付き合う義務なんかないんだ! 死ぬまで付き合ってたまるか! 両親とモルグの思い出はここに置いて君は先へ行けば良い!!」
息を乱して叫んだダストが、アッシュの、まるで浮かべる表情が分からないかのような、硬直した顔を見つめる。
……少し、互いに言葉を失っていると、ダストの脱ぎ捨てた外套からネズミの影が這い出てきて、視線をさまよわせた挙句にダストの足元に駆け寄り、ズボンを上って来た。
背中から肩へ、腕へと伝ってきた影が、アッシュの髪を見上げて小さく鳴く。
二人の視線が小さな怪異に落とされ、やがてダストが、無言でアッシュの髪に指を差し入れた。
指の先に当たる硬い感触。引き抜くと、昼間ダストが彼女の髪に差した、ラムライの緑色の花が出てきた。
蜜の甘い匂い。ダストが無表情に、ゆっくりと、花を床に置いた。
腕から飛び降り、舌もないのに頭蓋骨を花弁の奥に押し込むネズミの影。
ダストが床に腰かけると、アッシュが小さく笑って、同じように床に腰を下ろした。
……自然に、何の義務感もなく、ダストも笑った。
差し出がましいことを言った。
そうつぶやくダストに、アッシュは首を振りながら、ただ笑っていた。




