三十六話 『魔物』
樹上から迫って来る牙を、ユークとマキトは飛びのき、地面を転がって回避した。
兵士の群が見守る中、地に降り立った無数の闇が、耳鳴りのような音を立ててうなる。
それは犬の形をした黒い影。頭部の位置に頭蓋骨を浮かべたそれらの眼窩には、青白い火の粉が灯り、音もなく揺れている。
四、五、六匹……現れた黒い怪異の数を数えながら、マキトが戦斧を振り回して怒鳴った。
「何だよこれ! これも魔術!?」
「無論だ。俺は魔王ラヤケルスの業を受け継ぐ者。彼が遺した死にまつわる魔術は、ほぼ全て身につけている」
魔王が、背負っていた背嚢を前に回し、ふたの奥に手を突っ込む。
からからと音を立てると、呪文を唱えながら小さな頭蓋骨をつまみ上げた。
自分達をじりじりと取り囲む怪異に忙しく刃を向けながら、ユークとマキトが魔王の手元を見る。
魔王の指の間で、やがて小さな頭蓋骨の眼窩に青白い火の粉が生じ、きぃ、と小さく鳴いた。
「屍よ、形をまとえ」
低く、小さく命じた魔王の手元から、頭蓋骨が浮き上がる。そのあごの下に瞬時に黒い闇が集まり、ネズミの胴体の形に固まった。
魔王の手の上から腕を伝い、肩へ飛び乗る小さな怪異。
ユークがその火の粉の目に見すえられて、ぎりりと歯をきしませる。
「骨から魔物を作り出すか……正に『魔の者の王』だな」
「いかにも。だが悲観することはない。俺の魔術は見かけは強烈だが、お前達の兵士や神に比べればはるかに脆弱だ。少し頭を働かせれば、それに気づける」
――頭が錆びついているなら、死ぬだけだがな。
そう続けた魔王が、ひらりと手を振った。「かかれ」と言うが早いか、うなりを上げていた犬の怪異が一気にユーク達に飛びかかる。
操られていた兵士達より、動きが俊敏だ。本物の獣に匹敵する速さで牙を剥く敵に、回帰の剣と戦斧が振り回される。
回帰の剣が、怪異の一匹の胸に埋まり、その闇色の肉体を四散させる。
回帰の剣は魔術を無効化する武器だ。目の前で悲鳴を上げ落ちる頭蓋骨に、ユークが口角を上げながら二匹目の怪異に蹴りを放ち、叫ぶ。
「考えるまでもない! 相手が魔術の産物ならばこの剣で滅ぼせぬ道理が――」
音もなく、ユークの足が怪異の体をすり抜けた。
ぽかんと口を開けるユークの腕に、怪異が真っ白な歯をつき立てる。ぶつりと皮と肉を引き裂く音に、ユークが一瞬遅れて絶叫した。
怒りと驚きの混じった形相で血を撒き散らすユークの背後で、同じように戦斧の攻撃を外したマキトが、四匹もの怪異に食いつかれ、地面に引き倒されている。
そんな男達の惨状を眺めながら、魔王は肩に乗ったネズミの怪異とともに低く笑う。
「勇者とは、勇ましき者、勇気ある者。だが勇気だけで敵に勝てれば誰も苦労はしない。敵の正体を、手の内を見定めようともせず突っ込むのは……蛮勇というものだ」
「だっ……黙れぇ!!」
ユークが、自分の腕を食いちぎろうと頭を振る怪異に剣を突き立てる。頭蓋骨の眉間を砕かれた怪異は黒い体を四散させ、やはり頭蓋骨の破片だけを地に落とす。
剣先を地に突き刺し、よろめいた体を支えるユーク。その背後で、ばきばきと骨の砕ける音がした。
体中を噛み裂かれたマキトの傷口から赤い蛇が飛び出し、怪異達の頭蓋骨を砕いたのだ。
頭を砕かれた怪異の体はそのまま消滅し、赤い蛇が胴体をすりぬけた怪異は、マキトから飛び退いて距離を取る。
生き残った二匹の怪異が、ぐるぐるとうなりながらユーク達の周囲を移動する。血まみれで起き上がったマキトが、体内に戻る赤い蛇を見下ろしながら、小さく舌打ちをした。
「頭が弱点だ。黒い胴体の方は触ろうとしてもすり抜ける……ちょっと驚いたけど、なるほど大したことないね」
「貴様らは何故そう物事を端的にしか理解しようとしないんだ? 現象の正体を知ろうとしないから、同じ手に何度も引っかかる」
魔王がため息をついた直後、ユークの足元から鮮血が吹き出した。ぎょっとして視線を落とすユークの足には、彼が最初に胴体を突き刺した怪異の頭蓋骨が食いついていた。
頭だけになった怪異の目には、まだ青白い火の粉が残っている。
急いで回帰の剣を頭蓋骨に突き刺すユークを横目に、魔王は呪文を歌うように唱えながら庭園を歩く。
マキトが、そうはさせぬとばかりに赤い蛇がふさいだ傷を確認もせず、走り出した。
立ちふさがり、飛びかかって来る二匹の怪異の頭に戦斧を振り下ろしながら、マキトがはっとして、背後のユークへ叫ぶ。
「ユーク! この化け物ども影がないぞ! 篝火のそばに行っても影が地面に映らない! 魔術で操ってるのは……頭蓋骨の影だ!」
「三下の方が優秀だな。御名答。我が魔術は白骨を浮遊させ、さらにその影を起き上がらせて肉体の形を装う、半ば目くらましの術だ。
影に生前の姿と動きを再現させ、頭蓋骨をそれに乗せて動かしているに過ぎん。ゆえに、影が作った『形』をいくら攻撃しても無駄だ。影は元より物体には干渉しないし、影を散らしても頭蓋骨は動き続ける。
実質的には、単に頭蓋骨を飛ばして貴様らを襲わせていただけだ」
魔王が肩の上のネズミの怪異に指をそえると、黒い胴体を指がすりぬけた。
ユークが剣を振りかざし、「姑息なまねを!」と怒声を上げる。
「影を起き上がらせる!? 変形させて生き物の形に見せる!? ようはただの幻術か!」
「炎の形を変え、離れた場所に燃え移らせる魔術が存在するなら、こういった術もあってしかるべきだ。影絵遊びをしたことはないか? 影は同じ物体のものでも、光源からの距離や角度で形も大きさも変わる。そこを魔術で不当に操れば、魔物を作り出せる」
こんな風にな。
魔王がリンゴの木に手を伸ばし、枝を数本折る。
「残骸よ、形をまとえ。敵をつらぬく、悪意となれ」
無数の枝が浮き上がり、その影が地面から伸び上がった。
影はからみ合い、膨れ上がり、枝を取り込んで元のリンゴの木と同じ形に成長し……その全ての枝が、疾風のようにユークとマキトに迫って来た。
本物の枝と、影でできた枝が、さながら兵士の隊列が突き出す槍ぶすまのようにユーク達を襲う。
目を細め、本物の枝だけを斬り落とすユークに対し、マキトはあえてとがった枝を身に受けながら、残る犬の頭蓋骨を殲滅した。
枝の全てが落ち、敵に突き刺さると、リンゴの木の影は自然に霧散する。深々と腕と腿に刺さった枝を引き抜きながら、マキトが「もういい」とうめくように言った。
「もうたくさんだ。あんたの奇術に付き合ってるひまはない。影で幻を見せたり物を飛ばしたりする程度の技は、もう飽きた」
「そう言うな。古代コフィンの兵士達は、部隊規模で呪文を唱え石や刃を敵陣に飛ばしたそうだ。物体に異様な動作をさせる魔術は、古代の戦場での主力戦術だった。馬鹿にしたものじゃない」
遠慮しないで、もっと味わえ。
どす、と背嚢を地面に下ろす魔王。赤い蛇に傷口を舐めさせながら、マキトがユークを見やる。
ユークは傷ついた自分の手足を睨みながら口を引き結んでいたが、やがて魔王が呪文を唱え始めると、顔を上げて「おい」と低く声を向ける。
「お前は、何故我々と戦っている? 理由は何だ?」
「命乞いなら受け付けんよ」
「コフィンの魔王と名乗ったな。ということは、お前もコフィン人か。魔王でも愛国心があるのか? だからスノーバと戦うのか?」
魔王が、背嚢に向けていた目を閉じた。
マキトが戦斧を持ち上げ、攻撃を仕掛けようとするが、ユークがそれを手で制する。
無言の魔王に、ユークは鋭い目を向けて言った。
「昼間の登場も、今考えれば中々絶妙なタイミングだった。私がルキナ王女を半泣きにしてやった瞬間に兵士を寄越したのだからな。ひょっとして……王女に好意でも?」
「遺言ならもう少し気の利いた台詞を言ったらどうだ、将軍」
「私を殺して何か解決するとでも? マキトは不死身だし、マリエラを殺せば神と兵団が制御を失って暴走する。いずれにせよコフィンは終わりだ。仮にスノーバ人を皆殺しにしても、雨を失った大地で人は生きていけない」
魔王が、ぎろりとユークを睨んだ。
その視線に薄く笑みを返しながら、ユークは剣で宙を掻きながら続ける。
「魔王だか魔神だか知らんが、この状況で私に戦いを挑む時点でその動機がコフィンに利するためであることは明白だ。
あの哀れな王女……姫騎士と仲良く乳繰り合いたいなら、私に逆らうのではなく媚びるのが筋だろう。今からでも遅くはないぞ? 無礼を謝罪し顔を見せ、永遠の服従を誓えば、お前と姫騎士だけは私のそばで飼ってやってもいい。その上で勝手につがいになろうと咎めはせんぞ」
「俺が貴様らと戦っているのは、貴様らに身の程を教えてやるためだよ、将軍」
魔王の、どこか女っぽい響きを含んでいた声が、別人のように低くなった。
ユークが笑みを消し、眉間をぴくぴくと震わせる。魔王はその顔を指さし、目を血走らせて言葉をついだ。
「降って湧いたような力で国を強奪し、人形同然の兵団を従えた貴様らには、王や皇帝という人々に備わっている支配者としての『器』がない。人心を暴力と魔術だけで支配した貴様らは、同じ魔の力を持つ敵が一人現れるだけで主力兵器の神を操れなくなり、兵団を動かせなくなる」
「……」
「貴様ら四人は、しょせん四人だけで世界をかき乱していたに過ぎないということだ。勇者の子孫? 救世主? うぬぼれるんじゃない。貴様らなど過ぎた玩具を与えられた、誰にも愛されない、たちの悪い糞ガキだ」
ユークが回帰の剣を振り、絶叫と共に構えた。マキトと共に走り出し、魔王に斬りかかる。
魔王が呪文の続きを口にし、背嚢の口を目一杯に開いた、その時だった。
居並ぶ兵士達の背後から鉄製の矢が飛来し、魔王とユーク達のそばに突き刺さった。
思わず動きを止める三人の耳に、無数の男女の気合と、怒声が響く。
階段を駆け上がって来た気配は兵士達を押しのけ、剣や槍、斧や弓、松明を手にユークの後方に駆けつけた。
数にして、二十人余り。武器も防具もまちまちの冒険者達の中から、青白い衣に金色の兜をかぶった、口ひげの男が進み出る。
「ユーク! いつまで経っても顔を見せんと思ったら、自分達だけでお楽しみか!?」
「……レオサンドラ……」
口元に引きつるような笑みを浮かべるユークとマキト。
魔王は深く、深くため息をつき、「そうだったな」とうなるように言った。
「ガキをあおって馬鹿騒ぎをする、愚民どもがいたな。ああ、そうだった。こいつらもどうにかせねばならんのだった……」
「貴様! 神妙にしろ! 我こそはスノーバの冒険者組合の総長にして革命政府三大臣が一人、レオサンドラ・フォン・バルデカーンであるぞ! ユーク、何だこのみすぼらしい男は!?」
「自称魔王の賊だ。ちょうど良い。みんな、こいつの首を取れば私がじきじきに勲章を授与して、いずれコフィンの指揮官に任命してやるぞ」
早い者勝ちだ。
そう言って体を引くユークに、冒険者達が怒涛のような、驚嘆と気合の声を上げる。
武器を構え自分を取り囲む人々を醒めた目で眺めながら、魔王はユークを、視線もくれずに指さした。
「今宵の屈辱と恐怖を忘れたくば、必死に俺を捜して殺すことだ。俺も、俺の刺客も、このスノーバの都のどこかに潜んでいる。貴様を、監視しているぞ」
「ぬかせ! この状況で逃げられるとでも思ってんのか!!」
冒険者の一人が剣を振り上げて魔王に襲い掛かると、それを合図に他の全員がその場に殺到した。
怒声の渦の中、無数の刃が重なり合う音が高く上がった直後、人々の頭上に、巨大な影が跳び上がる。
目を見開くスノーバ人達を跳び越えて、ふさふさとした実体のない毛皮をゆらす影は一度土の上に着地し、そのまま庭園の端から、夜景の中へ降りて行った。
急いで後を追うユークと冒険者達が柱のそばから眼下を見下ろすと、影は城の外壁を器用に駆け下り、木々へ、城門へ跳び移った。
影の、頭部に浮いた大きな頭蓋骨のあごに両足を差し入れ、眼窩に腕を入れた魔王が、城門の上から最後にユークを見上げた。ひらひらと手を振ると、そのまま影の獣を走らせ、闇の中へと消えて行く。
唖然とする冒険者達の中で唇を噛むユーク。
その後方から、魔王の残した背嚢を拾い上げたマキトが、背嚢を逆さに振りながら声をかける。
「空だよ。動物の骨ばかり入ってたらしい」
「あの形はコフィンの大狐、ドゥーだ。……殺処分を命じて正解だったな。あんな機動力のある乗用動物を生かしていたら、反乱の種になっていたかも知れん」
ユークが息をつき、頭を押さえながら背を返す。「あの」と声をかけるレオサンドラに、ユークは回帰の剣を鞘にしまいながら首を振った。
「今日は、心底疲れた。みんな私の部屋に来てくれ……酒も肉もある。朝までいてくれるとあり難い」
「それはいいのだが、ヤツを追わなくていいのかね」
「不可能だ。いや、それは後で話す……とにかく今は……」
「ユーク」
マキトが、庭園から立ち去ろうとするユークを呼び止めた。振り返るユークにマキトが腰に手を当て、地面の方を指さす。
「マリエラ」
短く言うマキトの指の先に、ぐったりと気絶している恋人がいた。ユークは一瞬顔をしかめると、再び歩き出しながら「運んでくれ」と言い残す。
顔を見合わせる冒険者達を背後にマキトはため息をつき、マリエラの豊満な肢体を、顔を背けながら抱き上げた。